華の都と、氷の取引
泥と灰に塗れた葦原の町を後にし、東へ向かって歩き続けて五日 。
険しい山道を抜け、大きく開けた盆地を見下ろす峠に立った時、朔真は思わず息を呑んで立ち尽くした 。
「……これが、帝都か」
眼下に広がるのは、これまで見てきたどの町とも違う、圧倒的な『繁栄』の結晶だった 。
整然と区画された広大な市街地 。
瓦葺きの立派な屋根が波のように連なり、中心部には雲を突くような朱塗りの巨大な宮殿――天皇の居わす御所がそびえ立っている 。
町全体を、うっすらと黄金色を帯びた巨大な半球状の結界が覆っており、外の世界の枯れた空気や瘴気を完全に遮断していた 。
だが、朔真の目には、その眩い光の膜が、まるで巨大な生き物が呼吸をしているかのように、ドクン、ドクンと微かな脈動を繰り返しているように見えた。
「綺麗……」鈴が、薄墨色の瞳に黄金の結界の光を反射させながら、ぽつりと呟いた 。
無意識のうちに、彼女の手が朔真の狩衣の袖をきゅっと掴んでいる 。初めて見る圧倒的な文明の光に、無垢な子どもが驚いているような仕草だった 。
「外見だけはな」隣に立つ詠が、冷ややかな声で吐き捨てた 。
「あの黄金の結界は、地方の村々や葦原の町のような場所から、搾取し、すり潰した呪力を燃料にして維持されているのよ 。百年前の大飢饉も、神という化け物も、この都の連中にとっては『自分たちの箱庭』を守るための便利な電池に過ぎないわ 」
詠の言葉に、朔真は山鉈の柄を強く握りしめた 。
自分たちの家族の血も、飢えの宿の民も、葦原の町で壁に名前を刻んで死んでいった子どもたちの涙も 。
すべてが、あの綺麗に飾られた箱庭を維持するために使われている 。
その事実が、朔真の胸の奥で重く、黒い怒りの炎となって静かに燃え上がった 。
「感傷に浸っている暇はねえぞ」
玄理が、短槍の石突で地面をトンと叩いた 。
「俺たちは全員、朝廷から見れば一級の国家反逆者だ 。正面からあの結界をくぐれば、一瞬で封祀寮の警報が鳴り響く 。詠、手引きの算段はついてるんだろうな 」
「ええ、もちろんよ。脳筋の元討滅隊と一緒にしないで 」
詠は手帳を開き、帝都の外縁部、南西の方角を指差した 。
「南西の関所の下に、かつて物資の密輸に使われていた古い水路がある 。私が封祀寮の書庫から見つけ出した『地図にない道』よ 。あそこからなら、結界の網目を抜けて下層区に潜り込める 。……ただし、中で私の協力者が合流してくれるはずだけど、確証はないわ 。斑目の利用派がどこまで嗅ぎつけているか分からないから 」
「上等だ。行くぞ 」 朔真を先頭に、四人は峠を下り、帝都の陰へと足を踏み入れた 。
* * *
帝都・南西下層区 。
華やかな表通りから何層も下に位置するそこは、昼間だというのに薄暗く、じめじめとした湿気が肌にまとわりつくような場所だった 。
古い水路を抜け、鉄格子の扉を山鉈でこじ開けた四人は、身を隠すようにして迷路のような裏路地を進んだ 。
足元を流れる汚水には、どこから流れ着いたのか、微かに青白い光の粒子が混じっている。
「……嫌な匂いがする」鈴が鼻をすんすんと鳴らし、朔真の背中にピタリと張り付いた 。彼女の細い肩が、寒さに当てられたように小刻みに震えている。
「血の匂いじゃない。もっと冷たくて、重い……泥の底みたいな匂い 」
「第三の柱『哭』が、この都のどこかに根を下ろしている証拠よ 」
詠が声を潜めて言った 。
「急ぎましょう。合流場所は、この先にある廃教会の地下礼拝堂よ 」
周囲を警戒しながら進み、やがて朽ち果てた木造の教会の前に辿り着いた 。
詠が扉の鍵穴に特殊な呪符を押し込むと、カチャリと音を立てて扉が開く 。
中は真っ暗だった 。玄理が火打ち石でランタンに火を灯し、そのわずかな光を頼りに、地下へと続く階段を下りていく 。
だが、地下礼拝堂の入り口の扉を開けた瞬間 。
強烈な鉄錆の匂いが、四人の鼻腔を殴りつけた 。
「……ッ!!」朔真は反射的に鈴を背後へ庇い、山鉈を抜き放った 。
玄理も無言で短槍を構え、詠は顔面を蒼白にさせた 。
ランタンの光が照らし出したのは、異様な『死』の空間だった 。
礼拝堂の床には、血だまり一つない 。
だが、石造りの壁面には、三人の男女が、まるで最初から石像の一部であったかのように、壁の中に『埋め込まれて』死んでいた 。
彼らは苦悶の表情すら浮かべていない 。
ただ、静かに眠るように、身体の半分を石の壁と融合させられて息絶えているのだ 。
流血も、抵抗の跡も一切ない。
あまりにも静かで、完璧に処理された死の標本。
「そんな……私の、隠れ蓑になってくれていた封祀寮の同僚たちが…… 」
詠が、手帳を落としそうになりながら震える声で呟いた 。
「利用派の斑目の仕業か……! 」 朔真が周囲に殺気を放ちながら怒鳴った 。
「騒がしいな、葛城 」
――感情の欠落した、氷のように冷たく平坦な声が、礼拝堂の奥から響いた 。
その声一つで、地下室の温度が急激に下がったかのような錯覚に陥る。
四人の視線が、声のした祭壇の方へと向けられる 。そこに、一人の男が座っていた 。
簡素な木椅子に背筋を伸ばして腰掛け、手には湯気を立てる小さな茶器を持っている 。
白髪の混じり始めた髪 。
一切の感情を排したような、彫刻のように整った痩せた顔立ち 。
纏っているのは、最高級の絹で織られた、深い紫色の狩衣 。
「宗景……!! 」
玄理が、親の仇にでも会ったかのような低い声で、その名を絞り出した 。
封祀寮の長にして、神を完全に管理下で殺すことを目的とする『討滅派』の筆頭 。
朔真たちを使い捨ての駒として扱い、この世界の狂った構造を「正義」として冷徹に回し続けている男その人だった 。
「随分と遠回りをしたようだな。穂積の生き残りと、哭代の娘 」
宗景は茶器をゆっくりとテーブルに置き、四人を静かに見据えた 。
「てめえが……この人たちを殺したのか!! 」
朔真が山鉈を握りしめ、宗景に向けて踏み込もうとした 。
「待て朔真ッ! 動くな! 」
玄理が朔真の肩を強く掴んで止めた 。
歴戦の討滅隊であった玄理の額には、異常なほどの冷や汗が浮かんでいる 。
「こいつの『間合い』に入れば、壁の連中と同じように、瞬きする間に肉体を石と融合させられるぞ 。
……こいつは、朝廷で最も恐ろしい呪術の使い手だ 」
玄理の警告に、朔真は奥歯を噛み締め、ギリギリで足をとどめた 。
鈴もまた、宗景から発せられる底知れない、静かすぎる呪力の圧力に、本能的な恐怖を感じて小さく身震いしていた 。
「賢明だ。ここで私と争うのは、お前たちにとっても不利益でしかない 」
宗景は立ち上がり、狩衣の袖を静かに払った 。
「勘違いするな。彼らを『処理』したのは有雅ではない。私だ 」
「な……っ 」 詠が息を呑む 。
「有雅の暗部がここを嗅ぎつけ、彼らを拷問にかけようとしていた 。苦痛を与え、強い怨嗟を抱いて死なせれば、ただでさえ肥大化している第三の柱の養分となる 。だから私が先回りし、痛みを与えることなく『終わらせた』 。合理的な処置だ 」 一切の悪意も、罪悪感もない。
宗景にとって、禁忌の記録を持ち出した詠を匿った彼らは『大罪人』であり、有雅に情報を与えず、かつ呪力も生ませないための最適な演算結果が、この静かな殺戮だったのだ 。
「詭弁を……! 結果的に殺していることに変わりはないじゃない! 」
詠が涙声で叫ぶ 。
「感情論は無用だ、綴詠。記録者なら大局を見ろ 」
宗景は冷酷な眼差しで詠を一瞥した後、朔真へと視線を向けた 。
「今日ここへ一人で来たのは、お前たちを捕縛するためではない。……取引をしに来た 」
「取引、だと? 」
朔真が低く唸る 。
「そうだ 」 宗景は、礼拝堂の冷たい石畳を靴音高く歩き、四人の数メートル前で立ち止まった 。
「利用派の藤原有雅が、一線を越えた 。奴は葦原の町から逃げた第三の柱『哭』を、この帝都の地下水脈の中心――『竜穴』に直結させた 」
その言葉に、詠がハッと息を呑んだ 。
「地下水脈に直結……まさか。帝都の百万人の民から、直接呪力を吸い上げるつもりなの!? 」
「正解だ 。有雅の目的は、帝都の民が日々の生活で抱く微小な『悲嘆』や『疲労』を、柱を通じて少しずつ吸い上げ、莫大な呪力エネルギーとして恒久的に利用するシステムの完成だ 。民は自分たちが少しずつ命を削られていることに気づかないまま、柱を育て続ける 」
「……ふざけるな。そんなこと、絶対に許されるわけがねえ! 」
朔真の怒りが頂点に達する 。
「同意見だ 」 宗景は、まったく温度のない声で同意した 。
「有雅のやり方は、いずれ柱の許容量を超え、帝都そのものを滅ぼす 。それは私が何よりも重んじる『国家の秩序』に対する最大の脅威だ 。神は、管理できないほど巨大化させてはならない。完全に殺し、解体する必要がある 」
宗景は、真っ直ぐに朔真の瞳を見据えた 。
「だから、お前たちを利用する 。私には封祀寮の長としての建前があり、表立って有雅の管理下にある柱を破壊することはできない 。だが、国家反逆者であるお前たちなら、どれほど暴れようが私の責任にはならない 」
宗景は懐から、一枚の黒い呪符を取り出し、朔真の足元へと投げた 。
それは、帝都の地下最深部へ続く、絶対封鎖区域の通行証だった 。
「帝都の最下層へ至る道を開く 。有雅の私兵と防衛機構を突破し、第三の柱を破壊しろ 。情報は提供する。……それが私の取引だ 」
「……っ! 」
朔真は、投げられた呪符を見下ろし、震える拳を握りしめた 。
家族を奪い、鈴を使い捨ての道具として洗脳してきた元凶である、朝廷の中枢 。
その頂点に立つ男からの、あまりにも身勝手で合理的な共闘の申し出 。
「てめえの都合のいいように、俺たちが動くと思ってんのか……! 」
「動くだろう 。お前たちの正義感では、地下で百万人の命を吸い上げている怪物を見過ごすことはできないはずだ 」
宗景は、朔真の痛いところを正確に突いて、薄く、酷薄な笑みを浮かべた 。
「殺し合いや責任の追及は、柱を破壊した後にすればいい 。……さあ、どうする、穂積の生き残り 」
礼拝堂に、重く、息の詰まるような沈黙が降りた 。
背後で、鈴が不安げに朔真の背中を見つめている 。
玄理は険しい顔で黙り込み、詠は唇を噛み締めている 。
選択肢など、最初からなかった 。
朔真は、足元に落ちた黒い呪符を拾い上げ、宗景を射殺すような鋭い眼光で睨みつけた 。
「……案内しろ。柱は俺たちがぶっ壊す 」
朔真は、地獄の底から響くような声で宣告した 。
「だがな、宗景。勘違いするな 。俺はてめえの国を守るために戦うわけじゃねえ 。……百万人の命も、鈴の過去も、全部まとめててめえらの都合のいい『数字』から解放してやるために行くんだ 。柱の次は、てめえの番だ 」
「せいぜい無様に死なないことだ 」 宗景は冷たく言い放ち、背を向けて闇の中へと歩き出した 。
絶対に相容れないはずの敵との、凍りつくような共闘 。
華やかな帝都の地下深く、百万人の命を喰らう第三の柱を目指し、朔真たちの最も過酷で絶望的な戦いが、今、静かに幕を開けた




