哭く化身と、名前を呼ぶ声
斑目の放った煙玉の白い煙が、朝風に流されて消えていく。
だが、葦原の町の広場を包む空気は、先ほどまでの激戦の熱を失い、凍りつくような冷気に変わっていた。
ドクン……ドクン……。
広場の中央で脈打つ、巨大な肉塊の塔。第三の支柱『哭』。
鈴の放った結界の純白の光と、暗殺者たちの殺意。相反する強烈な力を浴びた柱は、限界点を超えて暴走を始めていた。
「……様子がおかしいわ。下がって!」
詠が叫び、玄理と朔真が鈴を庇うように後退する。
ズズズズズ……ッ!
塔を形成していた無数の泥の腕が、ドロドロと溶け落ちていく。
崩れ落ちた泥は、広場の石畳の上で再び集まり、一つの巨大な「形」を成し始めた。
それは、見上げるほど巨大な、うずくまる『子ども』のシルエットだった。
目も鼻もない、泥ののっぺらぼう。
だが、その背中には無数の小さな顔が瘤のように浮かび上がり、口を大きく開けている。 そして、その口から発せられたのは、怪物の咆哮ではなかった。 『……おかあ、ちゃん……』 『……いたい、いたいよぉ……』 『……さむい、おなか、すいた……』
幾重にも重なった、幼い子どもたちの泣き声。
それが、耳ではなく、脳の奥底に直接響き渡った。
「な……ッ」 朔真は、山鉈を構えたまま硬直した。
今まで彼が斬ってきた神の眷属や化け物たちは、明確な『敵意』と『殺意』を持っていた。だからこそ、怒りを刃に乗せて振り下ろすことができた。
だが、目の前にいる巨大な泥の化身からは、殺意など微塵も感じられない。
あるのは、圧倒的で純粋な「助けを求める悲鳴」だけだった。
「気をしっかり持て、朔真! 声に惑わされるな、あれは呪力の塊だ!」
玄理が叫び、短槍を構えて泥の化身へと突進する。
化身の巨大な腕が、玄理を払いのけようとゆっくりと振り下ろされた。
――ガァァンッ!
「ぐはッ……!」
玄理が短槍の柄で受け止めるが、その腕は単なる物理的な重さではなかった。触れた瞬間、玄理の腕の皮膚が黒く変色し、ジュワッと焼け焦げるような音を立てた。
悲しみという猛毒。触れる者すべてを腐敗させる、高濃度の怨念だ。
「玄理!」
朔真が弾かれたように飛び出し、化身の腕に向かって山鉈を振りかぶる。
『……たす、けて……』 刃を打ち込もうとした泥の表面に、ふと、幼い少女の泣き顔が浮かび上がった。
その顔は、朔真を真っ直ぐに見つめ、小さな泥の手を伸ばしてきた。
攻撃しようとしているのではない。ただ、抱きしめてほしくて、縋りつこうとしているのだ。
「……ッ!」
朔真の腕が、空中でピタリと止まってしまった。
斬れない。
この泥の顔は、先ほど壁に『かえりたい』と名前を刻んでいた、名もなき子どもたちの魂そのものだ。これを斬り裂くことは、彼らを再び理不尽な暴力で蹂躙することと同じではないのか。
「朔真! 避けろ!」
詠の悲痛な叫び声。
躊躇した朔真の身体を、化身の無数の泥の手が絡め取った。
「がぁぁッ……!」
全身を苛む、凄まじい絶望感と腐敗の痛み。息ができない。泥の腕は朔真を締め付けるのではなく、ただ「一人にしないで」と寄りすがっているだけなのに、その重さが朔真の命を削っていく。
その時。
泥の手を掻き分けるようにして、一つの小さな影が朔真の前に飛び込んできた。
鈴だ。
彼女は白布の袖をまくり上げ、何の呪力も纏わない素手のまま、朔真に絡みついている泥の腕を力強く抱きしめた。
「鈴……! 馬鹿、やめろ、お前まで腐るぞ!」
「……この子たちは、怒ってるんじゃない」
鈴の白い肌が、泥の毒に触れて赤黒く爛れていく。だが、彼女は顔をしかめることもなく、泥の顔に向かって優しい声で語りかけた。
「ただ、寂しくて、怖くて、誰かに撫でてほしかっただけなの。ずっと、暗い土の中で……独りぼっちで泣いていたの」
その言葉を聞いた瞬間、泥の化身の動きがピタリと止まった。
後方で手帳を開いていた詠が、ハッと顔を上げた。
「……そうか。呪力は『感情の反響』よ。武力で壊そうとするから、彼らの恐怖と絶望が膨張して襲いかかってくる。この呪いを解く方法は、ただ一つ」
詠は、広場の端にある長屋――あの土壁を指差した。
「朔真君! あの子たちは、朝廷に『番号』で呼ばれ、個としての存在を消された!
だから魂が迷い、化け物として寄り集まってしまったのよ!
呪いの結び目を解くには、あの子たちに『名前』を返してあげるしかない!」
その言葉が、朔真の胸に雷のように落ちた。
「……名前を、呼ぶ」
朔真は、痛む身体に鞭打ち、化身の拘束から強引に腕を引き抜いた。
山鉈の刃を峰に返し、深く、深く息を吸い込む。
「鈴! 道を開ける! お前は、あいつらの中心に触れろ!」
「うん……!」
朔真が地を蹴った。
圧倒的な怨念を放つ泥の巨人に向け、刃ではなく、己の魂をぶつけるように叫ぶ。
先ほど、壁に刻まれた文字を、脳裏に焼き付けた記憶をすべて引きずり出す。
「そこを退けェッ! 『次郎』!!」
朔真の山鉈が、化身の右腕を峰打ちで大きく弾き飛ばした。
その瞬間。化身の右腕から『次郎』という少年の泣き声がスッと消え、泥がただの土となって崩れ落ちた。
詠の言う通りだ。名前を呼ばれ、存在を肯定された魂は、呪縛から解き放たれるのだ。
「『サチ』!!」
朔真が左腕をいなす。泥が崩れる。
「玄理! 詠! 俺が壁で読んだ名前を全部呼ぶ! お前らも続いてくれ!」
朔真の悲痛な叫びに、玄理が立ち上がり、短槍を振るった。
「『ハナ』! よく頑張ったな、もう泣かなくていいぞ!」
詠も手帳を開き、記憶力に任せてありったけの文字を叫ぶ。
「『トメ』! 『ヨネ』! あなたたちは番号じゃない、人間よ!」
四人の声が、葦原の町に響き渡る。
それは戦闘の怒号ではなく、ただひたすらに、死んでいった者たちの魂の尊厳を取り戻すための、痛切な「呼称」だった。 『……あ……ぁ……』
名前を呼ばれるたび、泥の化身の表面から無数の顔が安らかな表情に変わり、ポロポロと崩れ落ちていく。
朔真が道を切り開く。
その中心、化身の胸の奥深くで、一つの小さな黒い球体がドクンと脈打っていた。すべての悲しみの核だ。
「鈴ッ!!」
朔真の声に応え、鈴が跳躍した。
彼女は、瘴気が渦巻く化身の胸の中へと身を躍らせ、その黒い球体を両手でしっかりと抱きしめた。
ジュゥゥゥッ!
と、彼女の胸元や腕の皮膚が凄まじい勢いで焼けていく。
だが、鈴は決して手を離さなかった。
彼女の薄墨色の瞳から、とめどなく涙が溢れ出し、黒い球体の上にぽたぽたと落ちていく。
「……痛かったね。苦しかったね」
鈴は、かつて神に教えられた冷たい祝詞ではなく、子守唄のように優しく囁いた。
「もう、誰もあなたたちを数字なんて呼ばない。一人で、暗いところで泣かなくていい。……おやすみ。あたたかいところへ、還ろう」
――【送詞】。
鈴の心から溢れ出た、純度百パーセントの「哀悼」と「愛情」の光。
それが、黒い球体を優しく包み込んだ。
カァァァァァッ……!
眩い白光が、葦原の町を飲み込んだ。
泥の化身は、悲鳴ではなく、最後に小さな『ありがとう』という安らぎの吐息を残して、光の粒子となって天へと昇っていった。
* * *
光が収まると、そこには静寂だけが残っていた。
町を覆っていた灰色の霧は完全に晴れ、東の山の稜線から、眩しい朝焼けの光が差し込んできている。
「……終わった、のか」
朔真は、満身創痍の身体で石畳の上に仰向けに倒れ込んだ。
空は青く、どこまでも澄み切っている。
鈴は、火傷だらけの腕を力なく下ろし、昇っていく光の粒子をじっと見上げていた。
「……うん。みんな、泣き止んだ」
その横顔は、ひどく疲弊していたが、聖女のように美しく、穏やかだった。
玄理が安堵の溜息をつき、詠が手帳の汚れを払って立ち上がる。
「見事だったわ、二人とも。これで、この町の子どもたちの魂は解放され、第三の柱の脅威は去っ――」
詠がそこまで言いかけた時だった。
彼女の表情が、手帳のページを見たまま、スッと凍りついた。
「詠……? どうした」
朔真が身体を起こす。
詠は、信じられないものを見るような目で、手帳の『地脈の観測記録』のページと、広場の中心――泥の化身が消え去った跡地を交互に見比べた。
「……馬鹿な。あり得ないわ」
「何がだよ。化け物は消えただろ。魂も送った」
「ええ、この葦原の町に根を下ろしていた呪力は完全に消滅したわ。でも……」
詠は、震える指で東の空、遙か彼方の地平線を指差した。
「この町に現れた柱は、本体じゃなかったのよ。子どもたちの悲しみを吸い上げるために伸ばした、ただの『根っこ(触手)』の一つに過ぎなかった。……本物の第三の柱『哭の柱』の本体は、もっと巨大な哀しみを求めて、すでに別の場所へ移動を完了している」
その言葉に、朔真と玄理の顔色が変わる。
「どこだ。どこに移動したって言うんだ!」
朔真が叫ぶと、鈴がふらつく足取りで歩み寄り、詠と同じように東の空を見上げた。
「……聞こえる」
鈴の薄墨色の瞳が、微かに恐怖に揺れていた。
「聞こえるの。この町の子どもたちの比じゃない……何万、何十万っていう、途方もない数の人たちの、乾いた泣き声。それが、あっちから……」
鈴が指差した方角。
それは、この国の中心。宗景や有雅たち、全ての黒幕が潜む場所。
「……帝都」
玄理が、絞り出すようにその名を口にした。
朝廷が百年間、欺瞞と犠牲の上に築き上げてきた最も華やかな都。
その足元に、第三の柱は最も巨大な絶望を見出し、自ら帝都の地下深くに根を下ろしたのだ。
朝焼けの光の中、朔真は立ち上がり、血塗られた山鉈を強く握り直した。
歴史の隠蔽を暴く旅は終わった。
だがそれは、この国の真の闇――帝都を舞台にした、最も残酷で壮絶な戦いの幕開けに過ぎなかった。




