蹂躙する悪意と、紡がれた結界
灰色の霧が渦巻く葦原の町の広場。
そこは、この世の地獄を煮詰めたような光景だった。
町の中心にそびえ立つ第三の支柱『哭』は、無数の子どもの腕が絡み合ったような悍ましい肉塊の塔だった。それは脈打つたびに、周囲の瘴気を吸い込み、どす黒い泥となって絶望を吐き出している。
そして、その泥溜まりの中から、ボコボコと音を立てて無数の「白い影」が這い上がってきていた。
鈴と瓜二つの顔を持つ、感情を剥奪された神の刃――『写し子』たちだ。
「……数が多すぎる。地下の時よりも増えてるぞ!」
玄理が短槍を大車輪のように振り回し、迫り来る写し子たちを牽制する。
だが、倒しても倒しても、泥がある限り彼女たちは際限なく生み出される。
「くそッ……!」
朔真は山鉈を構え、押し寄せる写し子の刃を必死に弾き返していた。
地下空間での戦いとは違う。朔真の目に、もう迷いはなかった。彼は写し子たちを殺さないように、刃を峰に返し、手首や膝裏といった急所だけを正確に打ち据えて行動不能にしていく。
彼女たちは人間だ。朝廷の被害者だ。その信念が、彼に超人的な集中力をもたらしていた。
「朔真! 右から三体来る!」
後方から詠が鋭い声で指示を飛ばす。彼女は分厚い手帳を片手に、写し子たちの陣形と泥の発生源を冷静に分析していた。
「鈴ちゃん! あそこの泥の噴出孔……柱の根本の呪力を『送って』! 供給源を断たないとキリがないわ!」
「わかった……!」
鈴は詠の指示に即座に反応し、柱の根本へと身を翻す。彼女の両手から放たれる純白の光が泥に触れると、チリチリと音を立てて呪力が中和されていく。
四人の歯車は、完全に噛み合っていた。
詠の頭脳、玄理の経験、朔真の突破力、そして鈴の異能。
数の暴力に対してギリギリの均衡を保ち、少しずつ、だが確実に柱の核へと近づいていた。
――このままいける。
朔真がそう確信し、柱に向けて大きく踏み込もうとした、その瞬間だった。
ヒュンッ!
という空気を切り裂く鋭い風切り音が、濃密な霧の向こうから響いた。
「朔真、伏せろォッ!」
玄理の絶叫に近い声。
朔真が反射的に地面に身を投げ出した直後、彼の頭上が激しい爆炎に包まれた。
轟音。熱風。
爆発の余波で吹き飛ばされたのは、朔真だけではない。柱を守るために立ちはだかっていた十数体の写し子たちが、まるでゴミ屑のように無惨に吹き飛ばされ、泥に塗れて四散した。
「な、なんだ……!?」
耳鳴りに顔をしかめながら、朔真が身を起こす。
霧が、強烈な呪力の風によって晴らされていく。
広場の入り口に立っていたのは、黒い狩衣に身を包んだ精鋭の暗殺部隊。そして、その先頭で、紫色の扇子で口元を覆いながら目を細めている男。
朝廷・利用派の筆頭、斑目だった。
「いやはや。地下で潰れたかと思っていましたが、しぶといネズミ共だ。おまけに、こんな辺境の処理施設まで嗅ぎつけるとは」
斑目は、周囲に散らばる写し子たちの残骸を一瞥し、鼻で笑った。
「神の防衛機構も大したことはありませんねえ。このような出来損ないの人形を相手に手こずるとは、討滅隊も地に堕ちたものだ」
「斑目……ッ! てめえら、どこまで俺たちを邪魔すれば気が済むんだ!」
朔真が怒りに任せて叫ぶが、斑目は涼しい顔で扇子を閉じた。
「邪魔をしているのはそちらでしょう。ここは我が朝廷が管理する『紡ぎ町』。そして、その柱は我が国を豊かにするための貴重な呪力資源だ。……もっとも、少しばかり『証拠』が残りすぎているようですがね」
斑目の冷酷な視線が、広場の端にある長屋――子どもたちが生きた証である名前が刻まれた『土壁』へと向けられた。
「あの壁の落書き……まったく、忌々しい。家畜の分際で、己に名前があるなどと錯覚するから哀れな結末を迎えるのです」
斑目は扇子の先で、冷酷な宣告を下した。
「すべて焼き払いなさい。柱だけを保護し、あのような見苦しい壁も、この町全体も、一つ残らず灰にするのです。朝廷の偉大なる歴史に、汚点など不要」
「ふざけるなッ!」
朔真が激昂し、斑目に向かって斬りかかろうとする。
だが、斑目の背後から一斉に躍り出た十数人の暗殺者たちが、瞬く間に朔真と玄理を取り囲んだ。彼らはこれまでの追手とはレベルが違う。全員が、呪力を纏った刃を振るう超一流の殺し屋たちだった。
「くそッ、こいつら、動きが……!」
朔真と玄理は、たちまち防戦一方に追い込まれた。
さらに悪いことに、斑目たちの攻撃で刺激された第三の柱が暴走を始め、瘴気の濃度が跳ね上がった。
「そちらの女を狙いなさい」
斑目が、後方にいた詠を指差した。
「封祀寮の裏切り者、綴詠。お前が持ち出した歴史の記録ごと、ここで永遠に消し去ってあげましょう」
三人の暗殺者が、朔真たちをすり抜け、猛烈な速度で詠へと向かって駆け出した。
「詠ッ! 逃げろ!」
朔真が手を伸ばすが、敵の刃に阻まれて届かない。
詠は後ずさった。
彼女はただの書記官だ。歴史の知識はあっても、戦闘能力は皆無に等しい。
迫り来る三つの凶刃。死の気配が、彼女の喉元に突きつけられた。
だが、詠は決して逃げようとはしなかった。彼女は懐から分厚い手帳を取り出し、それを両腕で強く、抱きしめるように胸に抱え込んだ。
(私が死んでも、この記録だけは……百年前に見捨てられた人々の真実と、あの子たちの名前だけは、絶対に消させない……!)
詠は強く目を閉じ、迫る刃の痛みを覚悟した。
――ガキィィィィンッ!!!
金属が砕け散るような、甲高い音が広場に響き渡った。
詠が恐る恐る目を開ける。
刃は、届いていなかった。
詠の目の前に、純白の装束が翻っていた。
鈴だ。
彼女は両腕を横に大きく広げ、詠を背中で庇うように立っていた。
暗殺者たちの三振りの刀は、鈴の身体から一歩手前の空中で、見えない壁にぶつかったように完全に止められていた。
「……鈴、ちゃん?」
詠が呆然と呟く。
地下の旧街道で、朔真と親しく話す自分に、不器用な嫉妬の視線を向けていた少女。戦いの道具としてしか生きられなかった彼女が、今、自分の命を賭して、かつての嫉妬の対象であった詠を守っている。
「邪魔です。どきなさい、人形」
暗殺者が舌打ちをし、さらに強い力で刀を押し込もうとする。
鈴の白い額に、汗が滲む。
彼女の細い足が、石畳にめり込むほど踏みしめられている。
「……どかない」
鈴は、顔を上げ、かつてないほど強い光を宿した薄墨色の瞳で暗殺者たちを睨みつけた。
「私には、難しい歴史のことはわからない。あなたが抱えている本に、どれだけの価値があるのかも、私には理解できない」
鈴の声は震えていた。だが、そこには確かな「意志」があった。
鈴は、背後にいる詠をちらりと振り返った。
「でも……あなたが死んだら、朔真が悲しむ。それに……」
鈴は、前を向き直り、両手に込めた呪力をさらに高めた。
「私も……あなたがいなくなるのは、寂しいから」
その言葉を聞いた詠の瞳が、大きく見開かれた。
いつも大人ぶって、冷めた態度で世界を観察していた記録者の目から、堪えきれない涙がポロリとこぼれ落ちた。
「……馬鹿ね。ただの歴史オタクの女一人に、そんな重い感情を向けるなんて」
詠は、震える手で鈴の背中にそっと触れた。
「ありがとう、鈴ちゃん」
その瞬間だった。
鈴の胸の奥で、燻っていた感情の熱が、爆発的な輝きに変わった。
『仲間を失いたくない』という純粋で強烈な願い。それが、彼女の神としての力を、これまでとは全く違う次元へと押し上げた。
――【絶対拒絶】。
カァァァァァッ!!!
鈴を中心に、目も眩むような純白の光のドームが展開された。
地下で暴走した時のように、周囲を破壊する荒々しい力ではない。それは、まるで美しい真珠のような光沢を持った、完全で、静謐で、絶対に揺るがない「守護の領域」だった。
光のドームは、詠はもちろん、広場の端にある『子どもたちの名前が刻まれた壁』をもすっぽりと包み込んだ。
「なんだ、この異常な呪力は……!?」
結界に弾き飛ばされた暗殺者たちが、地に伏せて呻く。
斑目すらも、その神々しいまでの光の奔流に目を細め、扇子を取り落としそうになった。
「ただの哭代の写し身が、これほどの広域結界を制御だと……!? 馬鹿な。個人の感情など持たないはずの道具が、なぜこれほどの力を!」
「道具じゃねえよ」
朔真の声が、斑目の真横で響いた。
「なっ……!」
斑目が横を向いた瞬間、朔真の山鉈が、斑目を護衛していた暗殺者の刀を両断し、そのままの勢いで斑目の胸ぐらを力任せに掴み上げた。
「鈴は人間だ。そして、あの壁に名前を残した子どもたちも、お前らが使い捨てにしていい数字じゃねえ!」
朔真は、怒りに燃える瞳で斑目を睨み据え、その腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐはァッ……!!」
斑目がくの字に折れ曲がり、数メートル後方へと吹き飛ばされる。
泥まみれの地面を転がり、狩衣を汚した斑目は、血を吐きながら屈辱に顔を歪めた。
「おのれ……! たかが山猿と欠陥品の人形風情が、朝廷の歴史に逆らうというのか!」
斑目が叫ぶが、戦況は完全に逆転していた。
詠と歴史の証拠は、鈴の完璧な結界に守られている。守るべきものを背後に置いた朔真と玄理の動きには、もう一分の隙もなかった。暗殺者たちは、次々と地に伏せられていく。
さらに、斑目の部隊の攻撃を喰らって暴走していた第三の柱『哭』が、結界の光に当てられ、不気味な咆哮を上げながら狂乱し始めていた。無数の泥の腕が、敵味方の区別なく広場を薙ぎ払い始める。
「チッ……! 柱が限界を超えて不安定化している。これ以上は巻き込まれるぞ!」
斑目は血を拭い、憎悪の目を朔真たちに向けた。
「今日のところは引いてあげましょう。ですが、忘れないことだ。お前たちが暴けば暴くほど、この国は根底から崩れ去る。正義のつもりで歴史を掘り返すその愚かさが、やがてお前たち自身を押し潰すことになる!」
斑目は煙玉を地面に叩きつけた。
濃密な白い煙が晴れた後には、斑目も暗殺部隊も、跡形もなく消え去っていた。
「……逃げ足の速い野郎だ」
玄理が短槍を下ろし、荒い息を吐きながら肩をすくめた。
広場に、再び静寂が訪れる。
残されたのは、暴走の余韻でドクン、ドクンと脈打つ第三の柱と、それを囲む灰色の霧だけ。
鈴はゆっくりと両手を下ろし、光の結界を解除した。
極度の消耗で膝から崩れ落ちそうになる彼女を、朔真が慌てて駆け寄り、しっかりと抱き止める。
「鈴! よくやった、すげえよお前!」
「……朔真」
鈴は、朔真の腕の中で、安堵したように小さく息を吐いた。
「私……役に、立てた?」
「ああ。最高だった。お前がいなきゃ、全部終わってた」
朔真が力強く頷くと、詠が歩み寄り、鈴の頭を不器用な手つきで優しく撫でた。
「歴史を守ってくれて、ありがとう。あなたのおかげで、あの子たちの名前は永遠に残るわ」
詠の瞳は、まだ少しだけ赤く潤んでいた。
四人は、傷だらけの身体を寄せ合い、広場の中心で脈打つ巨大な化け物――第三の柱を見上げた。
朝廷の悪意は退けた。残るは、この悲鳴の塊を終わらせ、囚われた魂を解放するだけだ。




