陽だまりの問いと、紡がれる悲鳴
長い坑道を抜け、最後に塞がっていたツタの塊を山鉈で切り払うと、視界が一気に白く弾けた。
「……眩しッ」
朔真は顔をしかめ、咄嗟に泥と血に塗れた腕で目を覆った。
網膜を焼くような強烈な光。地下の淀んだ冷気と腐臭に慣れきっていた肌を、真っ直ぐな初夏の陽射しが暴力的なまでの鮮やかさで撫でていく。 吹き抜ける風には、むせ返るような青葉の匂いと、乾いた土の香りが混じっていた。 遠くで鳴く鳥の声すらも、死線を越えてきた彼らの耳には異常なほど大きく、生きている世界特有の喧騒として響いた。
「やれやれ、カビが生えるかと思ったぜ」
玄理が大きく背伸びをし、死闘で凝り固まった肩をバキバキと鳴らす。 彼の纏う法衣の裾は、地下での激しい戦闘を物語るようにひどく裂け、赤黒い染みがこびりついていた。
その隣で、鈴は目を丸くして立ち尽くしていた。
彼女は、自分の手のひらをそっと太陽の方へ翳す。 指の隙間からこぼれる光の粒子が、彼女の透き通るような白い肌を暖かく照らしていた。 瞬きすら忘れたかのように、彼女はただ、天から降り注ぐ熱を確かめている。
「……あったかい」
鈴がぽつりと呟く。
「太陽なんて、今まで何度も見てきたはずなのに。今は、すごく……違うものみたいに感じる」
それは、感情を得たことで、世界の解像度が上がり、ただの物理現象だった光や風が、心地よいものとして彼女の心に触れているのだ。
「いい顔するようになったな、お前」
朔真が微笑みながら歩み寄ると、鈴は翳していた手を下ろし、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せて、コクリと頷いた。 かつて無機質だった薄墨色の瞳には、確かな命の灯りが宿り、揺らめいている。
「和んでいるところ悪いけれど、ピクニックはここまでよ」
詠が、平らな岩の上に分厚い手帳と広域地図を広げながら、冷や水を浴びせるように言った。 彼女の眼鏡の奥の瞳は、すでに次の戦場を見据えて冷徹な光を放っている。
「第三の柱『哭』は地脈を伝って移動した。 放置すれば、また新たな土地で根を張り、呪力を吸い上げ始める。 次に向かう場所の目星をつけないと」
朔真と玄理も表情を引き締め、血の滲むような書き込みが無数にある地図を覗き込む。
「あんな巨大な肉塊が動いたんだ。どこかに痕跡くらい残ってないのか?」
「物理的に穴を掘って進んだわけじゃないわ。 呪力として地脈に溶け込み、遠く離れた場所で再構築されるのよ。 厄介な性質だけど、逆に言えば『行き先』は論理的に推測できる」
詠はペンを回しながら、地図のいくつかのポイントを丸で囲んだ。
「哭の柱は、純粋な『悲鳴』や『哀しみ』……特に、子どもたちの絶望を喰らって育つ。 つまり、朝廷が関与していて、なおかつ大勢の孤児や子どもが過酷な状況に置かれている場所を探せばいい」
「……胸糞悪い推理だな」
玄理が顔をしかめる。
「朝廷が孤児をかき集めてる場所なんて、このご時世、いくらでもあるぞ。 利用派の連中は、労働力としても呪力の『電池』としても、身寄りのないガキを重宝してるからな」
「ええ。でも、柱が引き寄せられるほどの『極上の悲鳴』となると、限られてくるわ」
詠はペンの先で、現在地から北東に位置する山間の町をトンと叩いた。
「ここよ。『葦原の紡ぎ町』。 表向きは、前回の飢饉で親を失った子どもたちを朝廷が保護し、織物などの手に職をつけさせるための慈善施設よ。 でも、裏の顔は違う。封祀寮の裏帳簿によれば、あそこは利用派が管理する劣悪な強制労働施設だわ。 過労や栄養失調で、毎月何十人もの子どもが『処理』されている」
朔真の目が、スッと鋭く冷たくなった。
「孤児を保護するふりをして、死ぬまで働かせてるってことか」
「朝廷の貴族たちが纏う最高級の霊符衣。あれを編むための『呪縛糸』は、幼い子供の生命力を吸わせて紡ぐのが一番効率がいいの。朝廷にとっては、生糸という利益を生み出し、死ねば呪力の養分になる。一石二鳥の完璧なシステムというわけね」
詠の口調は淡々としていたが、握られたペンの先が微かに震えていた。 彼女もまた、歴史の記録者として、その非道な事実に激しい怒りを抱いているのだ。
「決まりだな」
朔真は、刃こぼれした山鉈を背負い直した。
「その葦原の町に行く。柱がそこに根を下ろす前に叩き潰す。 ついでに、そのふざけた施設を管理してる朝廷の連中もな」
四人は岩場を下り、葦原の町へと続く街道を歩き始めた。
道中、初夏の陽気は穏やかで、朝廷の追手の気配も今のところはなかった。 先頭を歩く詠と玄理が、都の動向や利用派の派閥について小声で情報交換をしている。 その後ろを、朔真と鈴が一定の距離を保ちながら並んで歩いていた。
風が木々を揺らす音だけが、心地よく耳に届く。
その静寂の中で。
「なあ、鈴」
朔真が、ふと思いついたように口を開いた。
「俺たちの旅の目的は、四つの柱を壊して、神を殺すことだ。でもさ……それが全部終わったら、お前はどうするつもりだ?」
その問いに、鈴はピタリと足を止めた。
薄墨色の瞳が、戸惑うように揺れる。
「……終わった後の、こと?」
「ああ。神がいなくなれば、お前ら『哭代』はただの人間になる。 朝廷の道具として生きる必要もなくなるんだ。 どこか行きたい場所とか、やってみたいこととか、ないのか?」
鈴は、自分の足元を見つめたまま、しばらく黙り込んだ。
彼女には「過去」がない。 物心ついた時から神域の暗闇の中で洗脳され、神の痛みを肩代わりし、ただ殺すことだけを教えられてきた。
だから「未来」を想像しろと言われても、頭の中が真っ白になるだけだった。
「わからない」
鈴は、少しだけ泣きそうな声で言った。
「私には、何もないから。 命令がなくなったら……どうやって息をすればいいのかも、わからない」
その痛々しくも空虚な言葉に、朔真は胸が締め付けられるような思いがした。
かつての自分もそうだった。親父を殺され、復讐という「命令」を自分に課すことでしか、息をすることができなかったからだ。
彼は鈴の前に立ち、その華奢な両肩にそっと手を置いた。
「なら、一緒に探そう」
「……探す?」
「ああ。急いで決める必要なんてねえよ。 美味しいものを食べるとか、綺麗な花を見るとか、そんなちっぽけなことからでいい。 俺も、親父たちを殺されて復讐ばかり考えてたけど……今は、お前たちと一緒に笑える明日が来ればいいなって、少しだけ思ってる」
朔真が真っ直ぐな目で笑いかけると、鈴の瞳からポロリと、一粒の涙がこぼれ落ちた。
悲しいわけではない。 ただ、その言葉が胸の奥の一番柔らかい場所を、ぎゅっと温かく包み込んでくれたからだ。 与えられた「一緒に」という未来の約束が、彼女の心を激しく揺さぶった。
「……うん。探す」
鈴は手で涙を乱暴に拭い、小さく微笑んだ。
「朔真と、一緒に」
二人がそんな言葉を交わしていると、前方を歩いていた玄理が鋭い声を上げた。
「おい、お前ら! 前を見ろ!」
朔真と鈴が顔を上げる。
街道の先、葦原の町があるはずの深い谷底に、異様な光景が広がっていた。
季節は初夏だというのに、谷底の町だけが、薄暗く淀んだ『灰色の霧』にすっぽりと覆われていたのだ。
霧の中では、ドクン、ドクンと、巨大な心臓が脈打つような不気味な呪力の波動が渦巻いている。 ただの霧ではない。それは無数の糸が絡み合ったような粘着質を持ち、遠目に見るだけで吐き気をもよおすような、純度の高い『絶望』の塊だった。
「……遅かったか」
詠が手帳を握りしめ、忌々しそうに舌打ちをした。
「あれは第三の柱が根を下ろし、神域を展開し始めている証拠よ。 町の孤児たちの哀しみを養分にして、急速に成長しているんだわ」
その時だった。
ガサガサッ、と街道脇の茂みが大きく揺れた。
「誰だ!」
朔真が山鉈に手をかける。
茂みから転がり出てきたのは、ボロボロの衣服を身に纏い、裸足のまま血を流している小さな少女だった。 年の頃は八歳か九歳くらいだろうか。
少女は泥だらけの顔を涙で濡らし、虚ろな目で宙を見つめながら、うわ言のように繰り返していた。
「いやだ……もう、糸、紡げない……。 お母ちゃん、痛いよ……喰われる、黒いお山に、喰われる……」
少女の細い腕には、地下で見た第三の柱から滲み出ていたのと同じ、どす黒い『呪いの泥』がべっとりと付着し、皮膚を無残に腐らせ始めていた。 泥はまるで生き物のように蠢き、少女の体液を啜っている。
「この子、葦原の町から逃げてきたのね……!」
詠が駆け寄り、少女を抱き起そうとするが、呪いの泥が熱を帯びて威嚇するように蠢く。
「詠、離れて!」
鈴が前に出た。 彼女は迷うことなく少女の泥まみれの腕を自らの両手で包み込み、純白の呪力を流し込む。
――【還れ】。
静かな祈りと共に、少女を蝕んでいた泥が嘘のように浄化され、黒い蒸気となって消え去った。 その瞬間、鈴の顔が微かに苦痛に歪む。泥の持つ底知れぬ憎悪と呪詛が、浄化の代償として鈴の身の内を駆け巡ったのだ。それでも、彼女は決して手を離さなかった。
痛みが引いたのか、少女はホゥと小さな息を吐き、そのまま詠の腕の中で気絶した。
「……助かったわ、鈴ちゃん」
詠が少女を抱き抱えながら、谷底の町を鋭い眼光で睨みつけた。
「利用派の悪趣味な施設に、最悪の化け物が居着いたってわけだ」
玄理が短槍をくるりと回し、臨戦態勢をとる。
「行くぞ」
朔真は、気絶した少女の小さな手を見て、静かに、だが確かな怒りを込めて言った。
「朝廷の連中も、柱の化け物も……これ以上、誰かの明日を奪わせるわけにはいかねえ」
四人は、灰色の霧が立ち込める谷底の町――絶望が紡がれる葦原へと、静かに足を踏み出していった。




