野営の夜、焚き火と小さな棘
チロチロと爆ぜる小さな焚き火の音が、広大な地下空間の静寂に吸い込まれていく。
古き祭祀の旧街道は、地上の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
石畳の上に携帯用の小さな結界符を張り巡らせた玄理が、手早く携帯食料の干し肉を削り、小さな鍋で湯を沸かしていた。香ばしい獣肉と塩の匂いが、冷え切った空気に微かな温もりを与えている。
「痛っ……」
「動かないで。傷口が開く」
焚き火の傍らでは、鈴が朔真の太腿の傷を手当てしていた。
数時間前、朝廷の歴史隠滅部隊である斑目の強襲を退けた際、朔真が庇って受けた浅くない裂傷だ。
鈴の指先は、細く、白く、ひどく冷たい。その手は本来、標的の急所を寸分の狂いもなく断ち切るためだけに特化して作られた「神の刃」だ。だから、誰かを傷つけることには恐ろしいほど精緻だが、誰かの傷を癒やし、包帯を巻くといった行為には絶望的に不器用だった。
布を引く力が少し強すぎて、朔真がわずかに顔をしかめる。
「……ごめんなさい。力の加減が、まだうまくできない」
鈴は薄墨色の瞳を伏せ、自らの白い指先を見つめた。
人を壊す構造はすべて頭に入っているのに、人を治す構造は一族の誰からも教わらなかった。
「いいって。血が止まれば十分だ。助かったよ、鈴」
朔真は痛みを誤魔化すように笑い、鈴の頭を撫でようと手を伸ばしかけた。だが、自分の掌が敵の返り血と泥でひどく汚れていることに気づき、空中でパッと手を引っ込める。
鈴は、その引っ込められた手を見て、少しだけ残念そうに目を伏せた後、朔真の隣にちょこんと体育座りをした。
「それにしても、見事なもんだったぜ、鈴」
鍋をかき混ぜながら、玄理がニヤリと笑う。無精髭に覆われた顔には、大人としての確かな安堵が浮かんでいた。
「あの斑目の連中の奇襲を、咄嗟の結界で防ぎ切るなんてな。哭代の力ってのは神の手足として殺すための力だろうに。一体どこにそんな防御の力を隠し持ってたんだ?」
「……分からない」
鈴は、自分の両方の手のひらをじっと見つめた。
殺すための黒い泥の力ではない。あの時、彼女の身体から溢れ出したのは、純白の光だった。
「ただ、胸の奥が、すごく痛くなった。朔真が斬られると思ったら、ここが……」
鈴は自分の左胸をトントンと叩く。
「壊れそうに痛くて。息ができなくなって。そうしたら、気づいた時には力が溢れていた」
「そいつは呪力じゃない。ただの『感情』だ。お前さんも、やっと人間らしくなってきたってことさ」
玄理が木の器に温かいスープを注ぎ、三人に手渡す。
温かい器を両手で包み込みながら、朔真は少し離れた場所で岩壁に向き合っている詠に目を向けた。
彼女はスープを受け取った後も、片手にランタン、もう片手に分厚い手帳を持ち、石畳の端に刻まれた古い碑文を熱心に書き写している。
「おい、書記官殿。スープが冷めるぞ」
「後で飲むわ。この壁画の風化具合……凄まじい発見よ」
詠は手帳から目を離さずに答えた。分厚い丸眼鏡の奥の瞳が、知的な興奮で微かに揺れている。
「あなたたちも休んでばかりいないで、これを見てみなさい。この旧街道がただの地下通路じゃない証拠よ」
朔真は足を引きずりながら立ち上がり、詠の隣へと歩み寄った。
ランタンのオレンジ色の光に照らされた岩壁には、摩耗してほとんど読めなくなった文字と、不気味な絵が彫り込まれていた。
無数の小さな人型が、首に縄をかけられ、列をなして巨大な黒い穴に向かって歩かされている絵だ。人型の顔には目も鼻もないが、大きく見開かれた口だけが、何かを叫ぶように彫られている。
「なんだ、これ。人が……穴に向かって歩いてるのか?」
「そう。ここは百年前、第三の柱に『贄』となる子どもたちを運ぶためだけに使われた一本道……いわば、死への行進路よ。そして、壁の文字はそれを正当化するための祝詞。朝廷は、これを『神聖な儀式』として公式記録に塗り固めた」
詠の冷ややかな声に、朔真は眉をひそめた。
「ふざけた祝詞だ。餓死しそうなガキを寄せ集めて神の餌にしたくせに、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ」
「同感ね。権力者にとって、名もなき死者はただの『数字』でしかないのよ。でも、ここからが重要なの。朔真君、この祝詞の末尾の文字……読めるかしら?」
詠が指差した先には、風化し、一部が欠け落ちた見慣れない古い崩し字が並んでいた。
朔真は目を細め、記憶の底に沈む糸をたぐる。
木を削る匂い。夕暮れの縁側。自分を膝に乗せ、古い書物を指差しながら「この字だけは忘れるな」と優しく教えてくれた、不器用な父・直継の顔。
「……『星落ちる地、悲鳴の集う底にて、哭は根を下ろす』……か?」
「あら」
詠が少し驚いたように目を丸くし、手帳から顔を上げて朔真を見た。
「正解よ。あなた、ただの山猿かと思っていたけれど、第一時代の古語が読めるのね」
「親父が、古い本をたくさん持ってたんだ。俺の家……『穂積』は、元々そういう古い祭祀の記録や、弔いの作法を管理する一族だったからな。ガキの頃から無理やり読まされてただけだ」
「なるほど。流石は朝廷が最も恐れた『弔いの血筋』ね。記録から抹消された真実の歴史を、あなたの一族だけは口伝で守り続けてきたというわけだわ。話が早くて助かるわ」
詠は嬉しそうに微笑み、朔真の肩に軽く自分の肩をぶつけるようにして距離を詰めた。
「ねえ、だったらこの次の行も解読できる? ここの文脈なんだけど……」
詠が手帳を差し出し、朔真がそれを覗き込む。
二人は岩壁の前に並んで立ち、古い歴史の謎について、まるで年の離れた姉弟のように、あるいは長年の学友のように熱心に語り合い始めた。
朔真が指先で岩壁の文字をなぞり、詠がそれにうなずいて手帳に新たな書き込みをしていく。
――その様子を、少し離れた焚き火のそばから、鈴はじっと見つめていた。
朔真の横顔は、今まで鈴が見たことのないくらい真剣で、どこか楽しそうだった。
彼が背負っている「復讐」という重く血生臭い呪縛から離れ、知識と歴史という純粋な知的好奇心に触れている時間。詠の大人びた軽口に、朔真が時折「あんた、性格悪いな」と苦笑いして返す。
そのやり取りは、とても自然で、ひどく……人間らしかった。
(……わからない)
鈴は、両手で包んだ器のスープを一口飲んだ。味がしない。
岩壁に刻まれた文字は、鈴にはただの歪な記号にしか見えない。
彼女が物心ついた時から教えられたのは、人体の急所の位置、血の匂いの嗅ぎ分け方、そして、神(御喰様)の命令を完遂するための呼吸法だけだ。
母は鈴を抱きしめてはくれなかった。ただ冷たい声で「お前は不要な機能が多い」と叱責した。双子の姉である令は、完璧な器として感情を削ぎ落とし、ただ冷徹に人を狩るだけの美しい刃として完成した。
一族の誰も、鈴に「古語」や「歴史」など教えなかった。道具に過去など必要ないからだ。
詠が使っている皮肉めいた言い回しも、朔真が時折見せる懐かしそうな目も、鈴には理解できない。
朔真と詠の間に流れる、知的で穏やかで、そして人間としての「過去」を共有する空気。
自分は、そこに入っていく言葉を持たない。
自分はやはり、神に作られた空っぽの器であり、彼らのような「人間」の輪には入れないのだと、突きつけられたような気がした。
(……また、痛い)
鈴は、左胸に手を当てた。
戦闘の時に感じた「朔真を失う恐怖」とは違う。チクチクと針で内側から刺されるような、鈍くて嫌な痛みだった。
身体のどこにも異常はないはずなのに、目の奥が熱くなり、喉の奥が詰まる。
足元にあった手頃な木の枝を拾い、焚き火の縁を意味もなく突っつく。
ツン、ツン。
パチッ、と火の粉が跳ねる。燃える木が崩れ、火の形が変わる。
「……あら」
ふと、詠が手帳から顔を上げ、焚き火の方を見た。
彼女の理知的な瞳が、枝で灰をいじけている鈴の小さく丸まった背中を捉え、すぐにその痛みの正体に気づいたように、面白そうな弧を描く。
「どうした、あんた?」
朔真が首を傾げると、詠はわざとらしく大きなため息をつき、朔真の耳元でヒソヒソと囁いた。
「朔真君。あなた、戦闘の勘は鋭いくせに、女の子の心には絶望的に鈍感ね。親父さんはそういう作法は教えてくれなかったの?」
「は? 何言って……」
「後ろ。あの子、さっきから枝で焚き火を小突いてるけど。このままだと、私たちの背中に短刀が飛んでくるかもしれないわよ」
朔真が振り返る。
鈴と目が合った。
鈴はビクッと肩を揺らし、咄嗟に持っていた枝に力を込めてしまった。
パキッ。
乾いた音を立てて、枝が真っ二つに折れた。
気まずい沈黙が旧街道の地下に落ちる。
鈴は折れた枝を見つめた後、無表情のまま、それをそっと焚き火の中に放り込んだ。
「……別に。何も、してない」
鈴がぽつりと言う。
詠はクスクスと声を殺して笑いながら、手帳を閉じて焚き火の輪に戻ってきた。
「ごめんなさいね、鈴ちゃん。私が朔真君を独り占めしていたから、つまらなかった?」
「……つまらない、という感情は、私にはわからない」
鈴は俯き、膝を抱え込むようにしてギュッと身を縮めた。
「ふふっ。それを世間一般では『嫉妬』って言うのよ。とても可愛らしい、人間としての正常な機能だわ」
「嫉妬……」
鈴は、その聞き慣れない単語を口の中で転がした。
誰かが他の誰かと親しくしているのを見て、胸が痛くなること。自分が仲間外れにされたような気がして、心が冷たくなること。彼の一番近くにいたいと、我儘に願ってしまうこと。
それが、嫉妬。
「……そんな感情、刃には不要」
鈴は顔を背けた。だが、焚き火のオレンジ色の光に照らされた彼女の耳の先が、微かに、しかし確かに赤く染まっているのを、詠は見逃さなかった。
「お前ら、何の話してんだ?」
まったく状況が分かっていない朔真が、足を引きずりながら戻ってくる。
彼は鈴の隣にどっかりと腰を下ろすと、自分の器のスープを一気に飲み干した。
「なあ、鈴。さっきの壁の文字の話なんだけどさ」
「……私には、分からないから。過去の知識なんて、持っていないから」
鈴が少しだけ拗ねたような、刺々しい声で遮ると、朔真は「あー、いや」と頭を掻いた。
「読むのは俺と詠がやる。でもな、あの祝詞の先に『呪いの仕掛け』があるかもしれないって詠が言うんだ。もし文字の謎を解けても、百年前の強固な術式が起動したら、俺の山鉈じゃどうにもならねえ」
朔真は、そこで言葉を区切り、真剣な目で鈴を見た。
「俺の血に宿る『弔詞』は、死者の怨嗟をほどくことはできる。でも、それだけじゃ足りない。ほどいた死者を、神の呪縛から完全に切り離して安らかに『送る』には……お前の一族が本来持っていた、あの白い祈りの力に頼るしかないんだ」
朔真は、鈴の小さな手を、自分の大きな手で不器用に包み込んだ。
「お前がいないと、俺はこの先には進めない。ただの人殺しの道具なんかじゃない。お前は俺にとって、この狂った連鎖を終わらせるための『相棒』なんだ。だから、力貸してくれよ」
その、裏表のない真っ直ぐな言葉。
自分を、忌まわしい哭代の刃としてでもなく、ただ庇われるだけの子供としてでもなく、「並び立つ者」として求めてくれる目。
鈴の胸の中でチクチクと刺さっていた棘が、嘘のようにスッと溶けて消えていくのを感じた。
自分には歴史の知識はない。難しい会話もできない。でも、朔真は自分を置いていく気なんて、最初から欠片もなかったのだ。
「……うん」
鈴は、小さく、だがはっきりと頷いた。
「私にできることなら、なんでもやる。……朔真の、役に立つ」
そのやり取りを見ていた詠が、やれやれと肩をすくめる。
「天然のタラシね。まあ、チームワークが戻ったなら結構なことだわ。さあ、今日はもう寝ましょう。明日はこの地下道を抜けて、いよいよ第三の柱の『移動先』を突き止めるわよ」
横になって毛布を被っていた玄理が、「やっと寝れるぜ」と大きな欠伸をした。
旧街道の夜が更けていく。
焚き火の炎は静かに小さくなり、やがて赤い熾火へと変わった。
鈴は毛布に包まりながら、隣で規則正しい寝息を立てる朔真の横顔をそっと見つめた。胸の奥は、もう痛くなかった。代わりに、焚き火の熱がそのまま移ったような、穏やかな温かさが広がっている。
(……嫉妬)
人間だけが持つ、厄介で、少しだけ恥ずかしい機能。
それを知った夜。鈴は今までで一番、深く静かな眠りにつくことができた。




