忘却を拒む記録者
西の山脈の奥深くは、底の抜けたような静寂に包まれていた。
泥這の宿を覆っていた、あの肺が腐るような泥と排泄物の臭いはとうにない 。代わりに鼻を突くのは、何百年も降り積もった落ち葉が発酵したような、古く湿った土の匂いだった 。
木々の背丈は異様に高く、昼間だというのに森の底は薄暗い 。まるで、ここだけが百年前から時間が止まっているかのような、濃密で閉鎖的な空気が満ちていた。
獣道すら途絶えた斜面を、朔真は黙々と進んでいた 。背中の山鉈が、歩くたびに微かな音を立てる 。
ふと振り返ると、数歩後ろを歩く鈴が、立ち止まって足元をじっと見つめていた 。
「……どうした、鈴。足でも痛めたか」
朔真が声をかけると、鈴は顔を上げ、小さく首を横に振った 。
「違う。この葉の形……初めて見たから。少し、不思議に思っただけ」
鈴が指さしたのは、シダに似た奇妙な形をした下草だった 。ひび割れたように葉脈が走り、現在の都の周辺では決して見られない、原始的な姿をした植物。
以前の彼女なら、任務の障害にならない草花になど、一瞥もくれなかっただろう 。だが、今の彼女は、ほんのわずかだが「外の世界」そのものへ視線を向けるようになっていた 。いや、それだけではない。神の作り変えた歪な生態系ではなく、この手付かずの「古い自然」に、彼女の中の何かが無意識に惹かれているようにも見えた。
朔真は何も言わず、少しだけ歩調を緩めた 。
「余裕だな、お二人さんよ」
最後尾から、短槍を杖代わりに登ってきた玄理が、呆れたように息を吐いた 。
「この山域は、もう完全に地図の外だ 。都の連中が意図的に『無かったこと』にしてる封地に近い 。神域の残骸みたいな厄介な呪いも転がってるかもしれねえ 。気は抜くなよ」
「分かってる」
朔真は前を向き直した 。「で、その物好きな書記官とやらは、本当にこんな山奥にいるのか?」
「あいつの残した暗号めいた書き置きが正しければ、な 。この山のさらに奥に、百年前に見捨てられた『夜不鳴の村』と呼ばれる廃村がある 。あいつはそこの石碑を探しに行ったはずだ」
玄理の言葉に、朔真は眉をひそめた 。百年前の廃村 。それは間違いなく、神が生まれた大飢饉の時代と符合する 。人が飢え、狂い、その絶望の底から怪物が産み落とされた原初の時代。夜に赤子が泣くことすら許されなかったという、呪われた名を持つ村。
さらに小一時間ほど歩いた頃だった 。
鬱蒼とした木々が不自然に途切れ、ぽっかりと開けた空間に出た 。
いや、開けていたのではない 。苔むした石積みの土台と、腐り落ちて骨組みだけになった家屋の残骸が、そこに並んでいたのだ 。かつて人が生きた痕跡 。それが、緑に飲み込まれかけている 。風が吹き抜けるたび、朽ちた木材が軋み、まるで無数の死者が囁いているかのような錯覚を覚える。
「……ここか」
朔真が呟いた直後、鈴がスッと身を屈め、白布の袖から短刀を滑らせた 。
「前方に、人の気配 。三、いや……四人 。殺気立ってる」
鈴の声と同時に、風に乗って微かな怒声が聞こえてきた 。
朔真と玄理は顔を見合わせ、気配を殺して廃村の奥へと足を進めた 。
崩れかけた広場のような場所 。そこには、巨大な一枚岩の石碑が半ば土に埋もれるようにして立っていた 。そして、その石碑を背にして立つ一人の女と、彼女を取り囲む三人の男たちの姿があった 。
「大人しくしろ、綴 詠 。これ以上、封祀寮の奥から持ち出した禁記を嗅ぎ回るなら、ここでお前を処分する権限を与えられている」
黒い狩衣に身を包んだ男の一人が、刀の柄に手をかけて低く凄んだ 。朝廷の暗部――利用派が放った『掃除屋』たちだ 。泥這の宿で斑目が逃亡したことで、都の上層部もいよいよ本気で証拠隠滅に動き出したらしい 。
だが、囲まれている女――詠と呼ばれたその人物の態度は、殺気を向けられている人間のそれとは決定的に違っていた 。
「……ちょっと、そこの無教養な猿」
冷たく、底冷えするような声だった 。
年の頃は二十代後半から三十路の手前 。男物の簡素な旅装束を着崩し、長い黒髪を無造作に一本に束ねた女は、男たちの抜刀に怯えるどころか、苛立たしげに眉をひそめていた 。彼女の左手には分厚い手帳が握られ、右手には墨のついた細い筆が握られている 。その手帳の表紙には、朝廷が持ち出しを固く禁じているはずの『朱印』が微かに見て取れた。
「私がいつ『大人しくしない』と言った? ただ、一つだけ条件があると言っているのよ 。お前、今すぐその右足を退けなさい」
「は……?」
「その足元の礎石は、第一時代にこの村の祭祀で使われていた神聖な供物台の欠片よ 。お前のような歴史も文字も読めない朝廷の犬が、その汚い草鞋で踏みにじっていい代物じゃない 。退けと言っているの 。言葉が理解できないなら、その足を切り落として歴史の肥やしにするわよ」
命の危機に瀕しているにも関わらず、女の関心は「己の命」ではなく、ただひたすらに「歴史の保全」に向いていた 。それは狂気にも似た、異様なまでの執着だった。
唖然とする掃除屋たち 。
草葉の陰から見ていた朔真も、思わず呆気に取られた 。
「……なんだ、あの女 。狂ってんのか?」
「あれが通常運転なんだよ、あいつは」
玄理がやれやれと頭を掻いた 。「真実を知りたがるくせに、自分の命の価値を書類の束より下に見てやがる 。手遅れになる前に出るぞ、朔真」
「言われなくても!」
掃除屋の一人が激昂し、詠に向けて刀を振り下ろそうとした瞬間――朔真は斜面を蹴って広場へ飛び出していた 。
「――そこまでだ、朝廷の犬共!」
朔真は抜刀する間も与えず、跳躍の勢いのまま、振り被った男の鳩尾に強烈な蹴りを叩き込んだ 。
「ぐはッ!?」
男がくの字に折れ曲がって吹き飛ぶ 。
残る二人が驚愕して振り返るより早く、背後に回り込んでいた鈴が、刃を峰に返した短刀で、次々と彼らの手首と膝裏を正確に打ち据えた 。
骨の軋む鈍い音 。崩れ落ちる掃除屋たち 。神に造られた殺戮の道具である鈴の動きは、人間を無力化するにはあまりにも洗練されすぎていた。
かつての朔真なら、復讐の対象である朝廷の人間を前にすれば、躊躇なく鉈を振り下ろしていただろう 。だが、今の朔真は殺気ではなく、明確な『制圧』の意志で動いていた 。無駄な死体を増やしても、何も解決しないことを知っていたからだ 。
「な、何者だ貴様ら……! その女は、国家の反逆――」
「国家が最初から腐ってんだよ 。さっさと失せろ 。それとも、ここで百年前の死体と一緒に肥やしになりたいか?」
朔真が山鉈の柄に手をかけ、地を這うような声で睨みつけると、掃除屋たちはその尋常ではない覇気に圧倒され、這うようにして森の奥へと逃げ去っていった 。
静寂が戻った広場 。
朔真は警戒を解き、大きく息を吐き出した 。
「おい、あんた 。怪我は……」
朔真が振り返って声をかけようとしたが、詠は朔真たちに見向きもしなかった 。
彼女はため息をつきながら石碑に近づくと、先ほど男が踏んでいた礎石の泥を、自分の袖で丁寧に払い落とし始めたのだ 。
「あーあ、せっかくの拓本が泥だらけじゃない 。信じられないわ、最近の暗殺者は靴の裏を綺麗にする礼儀も教わっていないのかしら」
「……いや、助けられたんだから、まずは言うことあるだろ」
朔真が呆れて口を挟むと、詠は泥を払い終え、ゆっくりと立ち上がって朔真を見た 。
分厚い手帳 。墨で汚れた指先 。そして、理知的だがどこか世を斜めに見透かしたような、冷ややかなアーモンド型の双眸 。
「……野良犬の匂いがすると思ったら、やっぱりあなたね 。葛城玄理」
詠は、朔真の後ろから悠然と歩いてきた玄理に向かって、皮肉げな笑みを向けた 。
「相変わらず、泥臭い貧乏くじばかり引いてるのね 。討滅隊の古株が、こんな山奥で何をしているの 。まさか、私を消しに来たわけじゃないでしょうね」
「お前の減らず口を縫い合わせるためなら、喜んで任務を受けたんだがな」
玄理もまた、ニヤリと笑い返した 。
「残念だが、俺も今は追われる身だ 。詠、お前が封祀寮の禁書庫から持ち出した『消し忘れの歴史』……その記録を頼りに来た」
詠の目が、わずかに細められた 。
彼女の視線は玄理から外れ、その隣に立つ朔真、そして鈴へと向けられた 。
鈴を一瞥した瞬間、詠の理知的な瞳の奥に、明確な驚きの色が走ったのが朔真にも分かった 。まるで、あり得ない造形物を見たかのような、純粋な探求者の眼差し。
「……なるほど 。驚いたわ」
詠は手帳をパタンと閉じ、自分の顎に指を当てた 。
「その顔立ち、その装束 。間違いないわね 。神の手足たる『哭代』の一族 。しかも、末端の写し子じゃなく、かなり純度の高い本流の個体…… 。でも、おかしいわね 。あなたがたは、ただの『道具』として感情を削ぎ落とされているはず 。なのに、その目は……どう見ても、人間のように戸惑っている」
「……!」
詠の言葉に、鈴はビクッと肩を震わせ、朔真の背中の後ろへ少しだけ身を隠した 。
「怖がることはないわ 。私は観察と記録をするだけ 。解剖したりはしないから」
詠は淡々と告げると、今度は真っ直ぐに朔真を見据えた 。
「そして、あなたが……例の『イレギュラー』ね 。封祀寮の報告書で読んだわ 。第一の支柱を落とし、つい先日、利用派の斑目が管理していた第二の支柱『飢の柱』をも破壊したという、謎の少年 。……顔を見せてみなさい」
詠は朔真の顔にツカツカと歩み寄り、至近距離でその瞳を覗き込んだ 。
「……なるほど 。復讐の熱だけで動いている目じゃない 。何かを背負い、迷いながら、それでも無理やり前を見ようとしている目……『穂積』の生き残り、といったところかしら」
「なっ……! あんた、なんで俺の家の名を!」
朔真は驚き、思わず半歩後ずさった 。
自分の素性を、こんな山奥にいる初対面の女が知っているはずがない 。
「私は書記官よ 。過去の記録と、現在の状況のピースを繋ぎ合わせるのが仕事なの」
詠はフッと息を吐き、石碑の土台に腰を下ろした 。
「百年前に神が生まれた大虐殺の夜 。最後まで神に抗い、死者を弔おうとした祭祀の一族がいた 。その一族の血筋は、神にとって唯一の毒になる 。……数ヶ月前、朝廷の討滅派がその末裔の居場所を突き止め、利用派がそれを神に密告した 。結果、その村は哭代の襲撃を受け、全滅した 。ただ一人の少年を残してね」
淡々と語られる事実に、朔真の胸がギリッと軋んだ 。
自分の家族が殺されたのは、単なる不運ではない 。朝廷の派閥争いと、神の保身のために、最初から『消されるべき存在』として盤上に乗せられていたのだ 。「弔い」という、人として当たり前の行為を後世に残そうとした罪によって。
「詠」
玄理が低い声で遮った 。
「こいつらは、すでにその事実の一部に気づいている 。俺たちは、神を殺す 。そして、そのために朝廷が百年間ひた隠しにしてきた『歴史の根っこ』を掘り起こす覚悟を決めた 。お前が一人で廃村を回って集めている記録……俺たちに寄越せ」
詠は、自分の膝の上に置いた分厚い手帳を撫でた 。その指先には、狂信にも似た愛着が滲んでいる。
「……百年前、朝廷は意図的に大飢饉を見捨て、民をすり潰して怪物を生み出した 。私はね、玄理 。その狂った制度を正義だと信じている宗景や有雅の顔に、この真実の記録を叩きつけてやりたくて、出世コースを蹴ってまで泥を這いずり回っているのよ」
詠は顔を上げ、朔真の目を真っ直ぐに見返した 。
「次の柱は『哭の柱』 。場所の目星はついているわ 。でも、そこへ至る道には、朝廷が仕掛けた古い防衛の呪いや、隠された迷路がある 。私の知識だけでは突破できないし、あなたたちの武力だけでも辿り着けない」
詠は立ち上がり、パンパンと狩衣の裾を払った 。
「取引しましょう、穂積の少年 。私はあなたたちを、隠された歴史の深淵へ案内する 。代わりに、あなたたちの暴力と、その哭代の娘の持つ『送る力』で、私を目的地まで護衛しなさい 。互いに利があるはずよ」
朔真は、横に立つ鈴、そして玄理と視線を交わした 。
言葉は悪く、態度は冷ややかだ 。しかし、ただ純粋に、忘れられた死者たちの歴史を書き残そうとする、強烈な執念があった 。彼女もまた、この狂った世界で戦う同志なのだ。
「……分かった」
朔真は頷き、詠に向かって手を差し出した 。
「案内を頼む 。俺は、親父たちが何のために死んだのか、本当の歴史ってやつを知りたい」
詠は差し出された手を見て、小さく鼻を鳴らした 。
「握手なんて野蛮な真似はしないわ 。手に泥がつくもの 。……まあいいわ 。私の指示には絶対に従うこと 。それと、そこのお嬢さん」
詠は鈴に向かって、少しだけ声のトーンを下げた 。
「道中、古い呪いに触れることがある 。あなたの力が必要になるわ 。無駄遣いはしないでね」
「……はい」
鈴が小さく頷くと、詠は満足そうに手帳を懐にしまい込んだ 。
「さあ、行くわよ 。この先は、ただの化け物退治じゃない 。この国が百年間ついてきた『嘘』のど真ん中を歩く旅になるわ」
苔むした石碑を背に、詠が先頭に立って歩き出す 。
怒りだけで走っていた朔真 。使われるだけの道具だった鈴 。そして、朝廷の矛盾に疲弊しきっていた玄理 。
そこに、歴史の真実を追う偏屈な記録者が加わった 。
深く静かな西の森へ向かって、四つの足音が重なり始める 。




