隠された地と、歴史を掘る者
泥這の宿を背にして歩き出し、どれくらいの時間が経っただろうか。
空はどんよりとした鉛色に覆われていたが、町全体を息苦しく押し潰していた「底なしの飢餓感」と、むせ返るような泥の悪臭は、嘘のように消え去っていた。
百年間、この土地の民の生気を吸い上げ続けていた呪わしい重圧がない。ただ、初冬の刺すような冷たい風が、乾いた音を立てて荒野を吹き抜けていくだけだ。それが本来の自然の姿でありながら、朔真の肌にはひどく新鮮で、同時にどこか空虚に感じられた。
朔真は、背中に括り付けた山鉈の重みを感じながら、時折、振り返りそうになる首を必死に堪えていた。
幾度となく血を吸い、呪いを断ち切ってきた刃の重さは、もはや彼の身体の一部のように馴染んでいる。だが、今彼の背を押し潰そうとしているのは、鉄の重量だけではない。この地に残してきた者たちの、微かな希望の重さだった。
崩れかけた鳥居の向こうには、燕たち残された子どもたちの姿があるはずだ。 彼らは今、破壊された飢の柱の跡地で、誰かに生気を吸い取られることもなく、初めて「自分たちのための明日」を生きようとしている。
別れ際、泥だらけの燕が不器用に頭を下げた姿が、朔真の脳裏に焼き付いていた。
『ありがとうな、兄ちゃん。俺たち、もう喰われねえよ』
大人びた、けれど泥にまみれた年相応の少年の笑顔。その言葉は、朔真にとってわずかな救いでもあった。 自分の振るった暴力が、ただの復讐だけでなく、誰かの明日を繋ぐための鎖を断ち切ることに役立ったのだと思えたからだ。
だが、それと同じくらい、朔真の胸の奥には、前よりもずっと重くて冷たい、黒い塊が沈み込んでいた。
風が吹き抜ける。枯れた街道の両脇には、百年前からそのまま打ち捨てられているような廃屋の残骸が点在している。どこまでも続く灰色の景色の中で、朔真の歩幅は徐々に重くなっていった。
「……なぁ」
ぽつりとこぼした朔真の声は、乾いた風に吸い込まれて消えそうだった。 その声には、迷子になった子供のような、頼りない震えが混じっていた。
だが、前を歩いていた玄理が、短槍を杖代わりに突く手を止め、ゆっくりと振り返った。 激戦の疲労が色濃く滲むその顔は、無精髭に覆われ、いつにも増して険しい。 歴戦の討滅隊員である彼でさえ、今回の死闘は骨の髄まで堪えたのだろう。
その隣を歩いていた鈴も、静かに足を止めた。 薄墨色の瞳が、瞬きもせずに朔真を見つめている。 彼女の横顔には、以前のような完全な人形の無機質さはなく、どこか「待つ」ような人間らしい体温が宿り始めていた。 朔真の言葉を、ただの情報として処理するのではなく、彼の心に寄り添おうとする微かな意志が、その佇まいに表れていた。
「どうした、足が止まってるぞ」
玄理が低く枯れた声で促す。 責めるような響きはなく、むしろ朔真が何かを抱え込んでいることを見透かしたような、静かな問いかけだった。
朔真は、喉の奥にこびりついた不快な感触を飲み込むようにして、口を開いた。 それは、血の味よりもずっとおぞましい、吐き気を催すような感覚だった。
「……あの声は、なんだったんだ」
「声?」
「ああ。俺が、あんたがこじ開けた『渇餓』の腹に飛び込んで、山鉈で柱の核を断ち切った瞬間だ。頭の中に、直接流れ込んできた」
朔真は、自分の両手を見下ろした。 刃を握りしめていた掌には、まだあの時の、肉と呪縛を断ち割る生々しい感触が残っている。
あの時、膨大な死者たちの感情が、決壊したダムのように逆流してきた。 飢えて、苦しんで、理不尽に命を削られた者たちの『哭き声』。 泥をすすり、我が子の骸を抱いて泣き叫んだ無数の記憶。だが、その混濁した絶望の底から、まったく質の違う、異物のような声がはっきりと聞こえたのだ。
それは、神と呼ばれる怪物の声ではなかった。
化け物の断末魔でもなければ、飢えた民の悲鳴でもない。
「『悲観することはない』……あの声は、そうから始まった」
朔真がその言葉を口にした瞬間、玄理の目がわずかに細められた。 空気の色が変わったのを肌で感じたが、朔真は構わず続ける。
「『この地の民を干上がらせろ。柱の贄とする』……って、そう聞こえた。 感情なんて欠片もねえ、ひどく冷たい、事務的な声だった」
思い出すだけで、全身の血が粟立つような感覚があった。 それは、圧倒的な暴力に対する恐怖ではない。机の上で、書類の数字を書き換えるような手つきで、数万の人間を地獄へ突き落とした者特有の、底知れぬ無関心への悪寒だった。
朔真は拳を強く握りしめる。
「ただの怪物の声じゃない。あれは、人間の声だ。 誰かが、何かを命令しているような……昔の誰かの記憶が、柱を通じて俺の頭に流れ込んできたみたいだった。 あれは一体、何なんだよ」
朔真の問いかけに、風の音だけが答えのように響いた。
鈴は微かに目を伏せ、自分の白布の袖をぎゅっと握りしめている。 彼女の中にも、その「声」の主が誰であるか、確固たる答えはないのだろう。だが、自分たち哭代を生み出した忌まわしい泥の根源に触れたような、本能的な恐怖を感じ取っているようだった。
玄理は、しばらくの間、無言で空を見上げていた。 鉛色の雲の向こうにある、見えない巨大な敵を睨みつけるように。やがて、短槍の柄を地面に深く突き立て、重い溜息を吐き出した。
「……朔真。それは、本物の記憶かもな」
「本物の、記憶?」
「お前は、神がどうやって生まれたか知っているか? いや、そもそも、あの『飢の柱』がなぜあんな宿場町の地下にあったのかを、考えたことがあるか」
玄理の言葉に、朔真は息を呑んだ。
「百年前の大飢饉だろ。 文献に残ってる、数え切れない人間が飢えて死んだっていう……」
「それが『表向きの歴史』だ。 だが、お前が聞いた声が真実なら……いや、俺たち討滅隊の一部で密かに囁かれていた疑惑が真実なら、話は違ってくる」
玄理は、周囲に誰もいないことを確認するように視線を巡らせてから、地を這うような低い声で言った。 まるで、この荒野の土の中にも、彼らを監視する耳が埋まっているとでも言うように。
「神は、ただの天災で生まれたわけじゃねえ。あの泥這の宿の民も、偶然飢饉に見舞われたわけじゃない。 朝廷の役人が、意図的にあの土地を干上がらせたんだ。 怪物を作り出し、そしてその怪物を土地に縫い留めて利用するために、な」
「なっ……!?」
朔真の目が見開かれた。
脳髄を直接殴られたような衝撃だった。 呼吸が止まり、視界がぐらりと揺れた。燕たちが背負っていた地獄。百年間、あの町の人々が泥を啜りながら苦しんできた理由。それが、星の巡りや天候の不順によるものではなく、明確な「誰かの意思」によるものだったというのか。
「朝廷が一枚噛んでるってことか……!? じゃあ、なんだよ。あの町の人たちは、怪物の犠牲になったんじゃない。人間の、国の上層部の連中の都合で、わざと飢えさせられて、化け物の電池みたいにされたって言うのか!」
「そうだ。そして、その『構造』は百年間、今この瞬間まで続いている。 斑目のような利用派の連中が、平然と民をすり潰して呪力に変えていたのを見ただろ。 あれは斑目個人の狂気じゃねえ。この国を裏で回している、朝廷という組織そのものの狂気だ」
玄理の言葉は、冷たく、だが確かな実感を伴って朔真の胸に突き刺さった。
朔真はギリッと奥歯を噛み締めた。 口の中に、微かな血の味が広がる。
「……親父たちは、そんな連中の都合で殺されたのかよ」
声が震えていた。
家族を奪ったのは、目の前にいる鈴と同じ顔をした『哭代』の一族だ。 だが、その哭代を動かしているのは神であり、その神を百年前に作り出し、今もなお生かして利用しているのは朝廷の人間なのだ。
自分が誰に復讐すべきなのか。その輪郭が、絶望的なまでに巨大に、そしておぞましく広がっていくのを感じた。
怪物を殺せば終わると思っていた。哭代を統べる元凶を絶てば、心に巣食う怨念は晴れるのだと。だが、真の敵は、化け物ですらない。豪華な衣服を身に纏い、安全な都の奥底で、地図の上で駒を動かすように人命を消費している、血の通った人間たちなのだ。
「ふざけるな……」
朔真は山鉈の柄に手を掛けたまま、地面を睨みつけた。 怒りで視界が赤く染まっていく。
「だったら、全部叩き斬ってやる。神も、そんな狂った仕組みを作った朝廷の連中も、全部だ。 ……次の柱はどこだ」
朔真は顔を上げ、玄理、そして鈴へと鋭い視線を向けた。 血走ったその目は、明確な殺意に満ちていた。
「神を殺すための四つの支柱。骸、飢、と来た。 次は『哭の柱』だって、前に言ってたよな。 それはどこにある」
当然、神の手足として使われてきた哭代の鈴なら、その場所を知っているものだと朔真は思っていた。 彼女は神域と繋がり、死者を送る術を持っている。 柱の配置についても、何らかの知識を与えられているはずだと。
だが、鈴はわずかに肩をびくつかせた後、小さく、頼りなく首を横に振った。
「……分からない」
「分からない?」
「私たちは、刃。刃は、自分がどこへ向かって振るわれるのかを、知る必要はないから」
淡々とした声だった。
だが、以前の彼女なら、それは本当にただの『事実の羅列』として発せられていただろう。 今の鈴の声には、どこか「使われるだけの道具」として生きてきた自分自身の空虚さを、自ら寂しむような響きが混じっていた。
「任務を与えられた時だけ、向かうべき方角と対象を教えられる。 柱の正確な位置や、そこに何が埋まっているのか、どんな意味があるのか…… そんな全体図を、御喰様も、朝廷の連中も、私たちに教えることはない」
鈴は、自分の足元に視線を落とした。 白い指先が、自身の衣服の裾を力なく握りしめている。
「知っていれば……教えられたのに。ごめんなさい」
その不器用な謝罪に、朔真はハッと我に返った。
己の怒りに呑まれ、あやうく彼女にまでその矛先を向けてしまうところだった。彼女を責めているわけではないのだ。 むしろ、彼女もまた、この狂った仕組みの中で何も知らされないまま手足として使役されてきた最大の被害者の一人だ。 心を持たぬ刃として作られ、今ようやくその痛みに気づき始めている、不完全で傷だらけの少女なのだ。
朔真は、山鉈から手を離し、乱れた呼吸を整えた。
「いや……お前が謝ることじゃない。 徹底してんな、本当に。手足には余計な知恵を与えず、ただ殺しと回収だけをやらせる。人間を、ただの道具としか思ってねえんだ」
朔真は吐き捨てるように言い、今度は玄理に向き直った。
「なら、どうする。玄理、あんたならどうだ? 元討滅隊で、今は封祀寮に顔が利くんだろう。朝廷の記録から、次の柱の場所を探り出せるんじゃないのか」
期待を込めた朔真の言葉に、玄理は自嘲気味に鼻を鳴らし、再び歩き出しながら言った。
「馬鹿言え。封祀寮の奥底の書庫に行けば、間違いなく記録はあるだろうさ。 だが、今、俺がそれを探りに行けばどうなるか、少しは頭を働かせろ」
「……どうなるんだよ」
「消されるに決まってるだろ」
玄理は立ち止まり、鋭い眼光で朔真を射抜いた。 その目には、長年暗部で生きてきた者特有の、冷徹な現実主義が宿っていた。
「利用派の斑目が生き延びて逃げた以上、俺たちが飢の柱を壊したこと、そしてお前が朝廷に牙を剥いたことは、すでに上層部に筒抜けだ。 討滅派のトップである宗景も、利用派の藤原有雅も、今は俺たちというイレギュラーをどう処理するか、都で腹を探り合ってるはずだ」
玄理は自身の首をトントンと指で叩いた。
「朝廷の中に、真実を知っているやつは確かにいる。 だが、迂闊に動けば一網打尽だ。俺が都に戻って怪しい動きを見せれば、次の瞬間にはお前たちの首に刺客の刃が突き立てられる。 敵はあの怪物だけじゃない。この国の構造そのものが、俺たちを監視しているんだ」
玄理の言う通りだった。
彼らは今、明確に国家権力を敵に回したのだ。 泥這の宿での戦いは、ただの怪異退治ではない。国家の裏金作りを力ずくで叩き潰すような、明白な反逆行為だったのだ。正規のルートで情報を得ることなど、不可能に等しい。
「じゃあ、足止めってことかよ……。 このまま当て所なく歩いて、追手を待つしかねえのか」
焦りを滲ませる朔真。 このままでは、敵に先手を打たれてすり潰されるだけだ。
その苛立ちを受け止めながら、玄理はニヤリと片方の口角を上げた。 それは、窮地に立たされてなお、反撃の牙を隠し持つ野獣の笑みだった。
「一つだけ、当てがある」
「当て?」
「朝廷が必死に隠蔽した歴史。その『消し忘れ』を、わざわざ拾い集めてる物好きが一人いるんだよ。 封祀寮の下級書記官でな。出世街道から完全に外れて、都を離れ、古い遺跡や廃村の石碑なんかを写して回ってる変わり者の女だ」
玄理は、西の山脈のさらに奥、地図にも載っていないような深い森の方角を顎でしゃくった。
「あいつなら、朝廷がひた隠しにする『哭の柱』の場所と、そこで百年前に何があったのか…… 歴史の裏側の記録を、独自に掴んでいるかもしれねえ」
「……その書記官を、探すのね」
鈴がぽつりと呟いた。
「ああ」玄理は頷く。 「名前は、綴詠。 だが、あいつも今頃、朝廷にとっては『知りすぎた目障りな存在』として追われる身になっている可能性が高い。 俺たちが見つけるのが先か、朝廷の掃除屋があいつの口を塞ぐのが先か、競争になるがな」
綴 詠。
朝廷に属しながらも、真実を追う者。
朔真は、まだ見ぬその人物の名を心の中で反芻した。 その名が、この閉ざされた絶望の世界に風穴を開ける鍵になるかもしれない。
家族を奪われた夜から始まった、ただ仇を殺すためだけの復讐の旅。
それがいつの間にか、鈴という数奇な運命を背負った少女と共闘し、この世界に隠された巨大な罪の跡を辿る旅へと変わっていた。 もはや、自分一人の命の清算では終わらない。燕たちのように、理由も知らされず搾取される命を、これ以上生み出させないために。
自分が向かうべき道は、まだ霧の中だ。だが、もう止まることはできない。
「行くぞ」
朔真は、前を真っ直ぐに見据えて言った。 その声には、先ほどまでの迷いは欠片もなかった。
「俺はもう、何も知らねえまま使われるのは御免だ。 親父たちが何のために死ななきゃならなかったのか、この世界の底に何が埋まってるのか。 ……全部、暴いてやる」
力強く歩き出した朔真の背中を追い、鈴が小さく、だが確かに頷いてその隣に並んだ。
玄理もまた、やれやれと肩をすくめながら、二人の後を追うように歩き出す。
空を覆っていた鉛色の雲がわずかに切れ、薄い光が枯れた街道に差し込んだ。 乾いた土を照らすその光は、彼らの行く先を指し示すように、西の山脈へと細く伸びている。
吹き抜ける風は、血と泥の匂いではなく、どこか遠い昔の、過ぎ去った歴史の匂いを運んでくるような気がした。 朽ちた遺跡と、忘れられた真実が眠る地へ向けて、三人の静かな旅が再び始まった。




