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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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弔いの完成と、泥を払う手

解かれた死者を神へ再吸収させず、安らかなる空へと導く祈り。――【送詞そうし】。


鈴の紡ぐ青白い光が、泥這どろばいの宿の広場を照らし出していた。本来は死者を天へ送るための祈りを、暴れ狂う巨大な異形『渇餓かつが』へ直接ぶつけるという無茶な行使。鈴の口の端からは血が流れ、細い肩が小刻みに震えている。


だが、その身を挺した祈りは、確かに怪物の内側で暴れる「飢えた死者たち」の怨嗟を凪がせていた。動きを封じられ、呪力の外殻が極限まで薄らいだ渇餓。


「行けぇぇッ、朔真!!」

玄理の怒号が響く。彼は短槍を大きく振りかぶり、渇餓の巨大な腕の一つに深々と突き立て、強引にその体勢を崩させた。


開かれた死角。最も呪力が濃く集まる、渇餓の腹の巨大な「穴」。朔真は、泥を蹴り立ててその結節点へと肉薄した。


(俺一人じゃ、届かなかった)朔真の脳裏に、ここまで繋いでくれた玄理の背中と、血を流しながら祈る鈴の姿が焼き付いている。限界を迎えていたはずの四肢に、不思議と重さはなかった。刃を通して流れ込んできた死者たちの飢えや悲鳴も、今はもう恐怖の対象ではない。彼らは敵ではないのだ。ただ、腹を空かせ、誰にも看取られずに泥の中で死んでいった「人」だったのだから。


「もう……喰わなくていい!」

朔真は、渾身の力で山鉈を振りかぶった。刃に込めるのは、殺意でも怒りでもない。

彼らから飢えを切り離し、人として終わらせるための最後の言葉。怨嗟の塊から怪物の外殻を引き剥がし、本来の「人」の姿へと戻す終盤の業。


「返れ――人だったものへッ!!」――【返名へんめい】。


朔真の放った一撃が、渇餓の腹の大穴を真っ二つに切り裂いた。ズバァァァァァァンッ!!!鼓膜を破るような轟音と共に、渇餓の巨体を構成していた黒泥と怨嗟の呪力が、内側から弾け飛んだ。


泥による再生は、もう起きない。崩壊していく怪物の外殻の中から、無数の光の粒が溢れ出す。それは、頬をこけさせ、虚空に向かって手を伸ばしていた「飢えて死んだ人々」の魂の姿だった。


「……鈴!」朔真が叫ぶより早く、鈴は印を結び直し、天を仰いでいた。


『――送る。地を離れ、安らかなる空へ』

鈴の本格的な【送詞】が、解かれた死者たちを優しく包み込む。彼らの顔から、飢えの苦痛が消えていく。最後に一度だけ、食卓を囲むような穏やかな微笑みを浮かべると、光の粒は次々と夜空へ昇り、やがて星屑のように溶けて消えた。


広場を覆っていた息苦しいほどの呪力が、ふっと霧散する。怪物は消滅した。


だが、その直後。ズゴゴゴゴ……と、枯れ井戸の奥底から、一本の巨大な柱がせり上がってきた。天へ伸びる、枯れた稲穂の巨杭。


風もないのに穂先だけが不気味に揺れ、表面は乾いた皮膚のようにひび割れている。これこそが、第二の神の成立条件を固定し、この土地から生命力を吸い上げ続けていた元凶――「飢の柱」そのものだった。守り神を失い、完全に剥き出しになった大呪具。朔真は荒い息を整えながら、柱の前へ歩み寄った。そして、静かに山鉈を上段に構える。


「……こんなもんで、命を縛らせてたまるか」土地と呪いを結びつけることわりそのものを、根元から断ち切る決定打。


――【断縁だんえん】。朔真の一撃が、枯れた稲穂の柱を根本から両断した。パァン! という甲高い破裂音と共に、巨杭が粉々に砕け散る。


その瞬間だった。


『――勅文に曰く。この地の糧を絶ち、民の飢えを以て、神のにえと成せ』


「……っ!?」朔真は思わず身構えた。砕け散った柱の呪力の残滓の中から、奇妙な「声」が響いたのだ。それは、飢えて死んだ町民たちの悲鳴ではない。ひどく冷たく、事務的で、理路整然とした男の声。


『悲嘆することはない。国家の安寧のため、貴様らは誉れ高き人柱となるのだ』


声は、幻聴のように朔真の耳を撫で、やがて夜風と共に霧散した。朔真の背筋に、冷たい汗が伝う。(今の声は……なんだ?)


この「飢の柱」は、自然発生した災害などではない。かつて、何者かが明確な「命令」を下し、意図的にこの土地の人間を飢えさせ、神を縛り付けるための呪具として加工したのだ。先ほどの斑目のような連中が、昔から朝廷の中枢にいたということか。


カラン、と。朔真の手から山鉈が滑り落ちた。すべての力を使い果たし、朔真は泥の地面にドサリと座り込んだ。得体の知れない巨大な悪意の片鱗に触れ、心がざわついていた。だが、泥這の宿全体を覆っていた「足元から生気を引っこ抜かれるような引力」は、確かに消失していた。


「……朔真」鈴が、ふらつく足取りで歩み寄ってきた。朔真は慌てて顔を上げる。「おい、大丈夫か!? お前、血吐いて……」「平気。少し、無理をしただけ」


鈴は手首で口元の血を乱暴に拭い、朔真の隣にストンと腰を下ろした。相変わらず表情は乏しいが、その横顔には以前のような人形じみた無機質さはなく、確かな体温が宿っていた。


「無茶しやがって……。でも、お前がいなきゃ、あのまま全滅してた。ありがとうな」朔真が笑いかけると、鈴はほんの少しだけ目を伏せ、何も言わずにそっぽを向いた。だが、その耳の先がわずかに赤くなっているのを、朔真は見逃さなかった。


「いやはや、見事なもんだったぜ」

玄理が短槍を杖代わりにしながら近づいてきた。その顔も疲労困憊だが、口元には満足げな笑みが浮かんでいる。

「朝廷の裏の連中の部隊は壊滅。飢の柱も破壊。こりゃあ、上にどう報告したもんか、頭が痛いね」

「足が滑ったって書いとけよ」

朔真の軽口に、玄理は声を上げて笑った。


その時、広場の端から、泥だらけの少年が姿を現した。燕だった。彼は、自分より幼い子どもたちの手を引きながら、ゆっくりと朔真たちの前へ歩み出てきた。


燕は、泥這の宿で生きるため、誰かから奪うことしか知らなかった。生きるためには、他者を喰い物にするしかないと諦めきっていた。だが、燕は泥の中の干し肉を拾い上げなかった。代わりに、幼い子どもたちの手をしっかりと握り直し、朔真と鈴に向かって深く、深く頭を下げた。


「……ありがとう、兄ちゃん、姉ちゃん」震える声だった。「俺……もう、奪うのはやめる。こいつらと一緒に、泥水をすすってでも……自分の足で生きてみるよ」

それは「奪う者」から「与え合う者」として生きていく、一人の人間の決意の表れだった。


朔真は立ち上がり、泥だらけの手で燕の頭を乱暴に撫でた。「ああ。しっかり生きろよ」


燕たちが去っていく後ろ姿を見送りながら、玄理が懐から煙管を取り出し、火をつけた。紫煙が、夜空へ細く昇っていく。


「これで、第二の柱は終わりだ。残るは二本」

玄理の言葉に、朔真は小さく頷いた。朝廷という巨大な構造的悪意の片鱗を知り、それでもなお、己の信じる「弔い」を完遂するという静かな覚悟。朔真の瞳は、もはや復讐の怒りだけでは燃えていなかった。


「次は、第三の柱か」

朔真は、隣に立つ鈴の横顔を見た。

「……行こう」

鈴が、静かに頷いた。彼女の薄墨色の瞳の奥に、初めて、明確な「意志」の光が揺らめいていた。


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