送る者の祈り
「……そこまで。」
凛とした、だが確かな「怒り」を孕んだ声が響いた。
これまで決して戦線の前に出ることのなかった、薄墨色の瞳の少女。
鈴が、両手を胸の前で強く組み、振り下ろされる巨腕を真っ直ぐに見据えて立っていた。
彼女の役割は、本来、朔真が解いた死者を天へ「送る」ことだけだ。外殻を解しきっていない怪物に直接触れれば、その圧倒的な怨嗟に呑み込まれてしまう。
それでも、鈴は逃げなかった。
(私はもう、ただ後ろで泣いているだけは嫌)
朔真が命を削ってまで泥に塗れる姿が、鈴の心を確かに変えていた。
彼女の唇から、透き通るような祝詞が紡がれる。
『――送る。過ぎた飢えを。満たされぬまま地に堕ちた、無数の口を』
【送詞】。
青白い清浄な光が、鈴の全身から爆発的に広がった。
それは、解かれた死者を送るためのものではない。今まさに暴れている怪物の内側にひしめく「飢えて死んだ無数の命」そのものに直接語りかけ、慰めようとする、純粋な祈りの奔流だった。
ズドォォォンッ!!
渇餓の腕が、鈴の展開した祈りの結界に激突する。
物理的な壁ではない。死者たちの狂乱を、強引に「温かな光」で包み込もうとする精神的な堰だ。
「く、う……っ!」
鈴の細い肩が軋み、その白い額から冷や汗が吹き出す。本来の用途ではない強引な術の行使により、鈴の口の端から一筋の血が流れた。
人為的に圧縮された強固な呪いの圧力に、鈴の臓腑が悲鳴を上げる。
だが、渇餓の腕はピタリと空中で停止していた。
怪物の内側で暴れていた怨嗟が、鈴の祈りに触れたことで一瞬だけ「飢え」を忘れ、温もりに戸惑ったのだ。
「す、すげえ……」
背後で子供達が呆然と呟く。
鈴は、血を流しながらも、泥の中に倒れ伏している朔真へ向かって声を張り上げた。いつもは平坦な彼女の声に、初めて痛切な感情がこもっていた。
「立って、朔真!」
その声は、広場の空気を震わせただけではない。
朔真の脳内で暴れ狂っていた死者のノイズの海に、一筋の清らかな光として突き刺さった。
『おなかがすいた』『いたい』という死者たちの絶望の叫びが、鈴の祈りの力によってスッと凪いでいく。
死者の拒絶が弱まる。
彼らは敵ではない。ただ、不条理な仕組みの中で命を搾取され、温もりを求めて泣いているだけなのだ。
(ああ……そうか)
泥に塗れた朔真の意識が、急速にクリアになっていく。
(俺は一人で、こいつらの重さを背負おうとしてた。……でも、鈴がいる。俺が解せば、あいつがちゃんと、こいつらを温かい場所へ送ってくれるんだ)
朔真は、泥を掴んだ。
鉛のように重かった四肢に、再び熱い血が巡る。
ギリリ、と奥歯を噛み締め、朔真は震える足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。
その手に握られた山鉈が、朔真の意志に呼応するように鈍い光を放つ。
「……わりぃ、待たせたな」
朔真が顔を上げる。その瞳には、限界を超えた者だけが持つ、冴え渡るような剣気が宿っていた。
「朔真っ」
駆け寄ってきた玄理が、肩を貸すようにして並び立つ。
「ああ。鈴が道を作ってくれた」
朔真は、山鉈を両手で強く握り直した。
鈴の【送詞】によって動きを封じられ、その外殻の呪力が極端に薄くなっている今の渇餓なら、完全に解体できる。
背後にある悪意の正体が何であろうと、今ここで奪い合うだけの飢えの連鎖を断ち切る。
「仕上げだ。……人として、終わらせてやる!」
朔真は泥を蹴り、巨大な怪物の懐へと、最後の一歩を踏み込んだ。




