討滅の矜持と、限界の代償
ズズゥンッ……!!
泥這の宿の広場を、地震のような振動が駆け抜けた。
右腕を失った『渇餓』が、苦悶に似た咆哮を上げる。だが、それは痛みによるものではない。自らの欠落を埋めようとする、底なしの飢餓感の悲鳴だった。
腹に空いた巨大な虚無の穴が、異常な脈動を始める。ドクン、ドクンという心音にも似た不気味な音が広場の空気を震わせた。同時に、先ほど朔真の山鉈によって【弔詞】を撃ち込まれ、浄化されたはずの右肩の断面から、どす黒い泥と呪力が間欠泉のように噴き出した。
メチャ、グチャリ。
泥が肉に変わり、呪力が骨を編み上げる嫌な音が響く。背中から、失った右腕を補うかのように、新たな三本の腕がねじり出されていった。それは人間の腕を無造作に繋ぎ合わせたような、いびつで冒涜的な造形をしていた。
「バケモノめ……一本解体した程度じゃ、痛痒も感じてねえか」
朔真は、肺にこびりついたような死臭を弾き出すように息を吐きながら、山鉈を構え直した。
刃を握る両手が、微かに震えている。武者震いではない。一度目の『弔詞』を使った反動で、全身の筋肉が鉛を流し込まれたように重いのだ。刃を通して直接触れた「死者たちの飢え」――腹の皮と背骨がくっつくような、内臓が自分自身を消化し始めるような錯覚が、冷たい泥のように朔真の胃の腑にへばりついていた。
(くそっ……なんて重さだ。ただ斬るのとは訳が違う)
怪物を「死んだ人間」として認識し、その怨嗟を受け止め、言葉を乗せて解体する。それはただ物理的に肉を裂くよりも、何十倍もの精神力をすり減らす行為だった。
「おい、朔真」
横に並び立った玄理が声をかけた。
その手には、使い込まれた短槍が鋭く構えられている。普段の斜に構えた皮肉げな態度は完全に消え失せ、その瞳には討滅派の歴戦の猛者としての、冷たく研ぎ澄まされた光が宿っていた。
「あいつは、ただ斬っても一瞬で再生する。だが、無から肉を作れるわけじゃねえ。再生するには必ず『泥と周囲の生気を吸い上げる隙』が生じるはずだ」
玄理は、短槍の石突で泥の地面を軽く叩いた。その視線は、渇餓の巨大な体躯の重心、関節の付き方、呪力の流れを冷徹に分析している。
「俺には、お前のような真似はできねえ。怪物を死者に戻して弔うなんて、正気の沙汰じゃない芸当はな。……だが、あのバケモノの再生速度を上回って肉を削ぎ落とし、お前が刃を届かせるための『道』を作ることはできる」
「玄理……」
「いいか。お前はただの後衛じゃない。この戦場の『要』だ」
玄理は一瞬だけ朔真を振り返り、ニヤリと笑った。
「俺が前をこじ開ける。お前は後ろで息を整え、確実に『結節点』だけを解体しろ。いいな!」
言うが早いか、玄理の姿が掻き消えた。
泥の地面を滑るような、異様なまでの踏み込み。玄理は一瞬で渇餓の懐へ飛び込み、迫り来る三本の腕を下から上へ、竜巻のように短槍で斬り払った。
ガガガガッ!!
硬い骨と肉が断たれる音が連続して響く。渇餓の巨体が、その物理的な衝撃と想定外の機動力に大きくよろめいた。
「ほらどうした! 腹が減って動きが鈍ってんじゃねえのか!」
玄理の槍術は、道場で教わるような美しさとは無縁の「殺し合いの技」だった。泥を蹴り、敵の死角へ回り込み、関節や腱といった動きの要となる部分だけを冷徹に破壊していく。
太い腕が薙ぎ払われれば、その勢いを利用して空へ跳び、上段から肩の付け根を貫く。渇餓が即座に傷を再生しようと呪力を集めるが、玄理の次の突きが、その再生箇所をさらに抉り取る。再生のための泥が集まるよりも早く、玄理の槍が物理的な崩壊を強要していた。
(すげえ……これが本気か)
朔真は目を見張った。自分のように特別な眼や術を持っているわけではない。純粋な身体能力と、死線を潜り抜けてきた経験だけで、バグのような怪物と渡り合っているのだ。
玄理の猛攻により、渇餓の防御陣形が崩れ、その巨体を支える巨大な「左脚」の関節――どす黒い呪力が集中する結節点が、完全に剥き出しになっていた。
「今だ、朔真ッ!」
玄理の怒声に弾かれ、朔真は泥を蹴った。
――二度目。
朔真は目を限界まで見開き、剥き出しになった左脚の結節点へ視線を叩きつける。血管が破裂しそうなほどに眼球に呪力を集中させる。
【閉眼】。
朔真の視線が呪力の流れを射抜く。渇餓の左脚に集まっていた再生のための泥の奔流が、ピタリと一拍だけ静止した。
朔真は泥だらけの山鉈を大きく振りかぶり、刃に鎮魂の言葉を乗せた。怒りではない。彼らへの哀れみと、終わらせるという静かな決意。
「地に還れ!!」
【弔詞】を帯びた一撃が、渇餓の左脚の関節を深々と両断する。
ズバァンッ!
泥の再生は起きない。切断された左脚は怨嗟の呪力を噴き出しながら崩壊し、中から「飢えて死んだ者たち」の苦悶の顔が無数に浮かび上がった。
『……送る。地に還り、眠れ』
すかさず、背後の安全圏で待機していた鈴の【送詞】が響く。
解かれた死者たちの魂が、彼女の祈りを受けて青白い光となり、次々と天へ昇っていく。渇餓の左脚は完全に消滅し、巨体がバランスを崩して泥の中へ大きく傾いた。
「よし、二つ目……!」
朔真は着地し、荒い息をついた。
だが、その直後。
ズキリ、と。頭の奥で、鋭い太い針を打ち込まれたような痛みが跳ねた。
「……ッ」
朔真は思わず顔をしかめ、こめかみを押さえた。
耳鳴りがする。いや、耳鳴りではない。頭の奥底で、直接誰かの声がしているのだ。
『いたい』『おなかがすいた』『どうして俺だけ』『泥でもいい、草の根でもいい、なにか、なにか喰わせてくれ』。
先ほど解体した死者たちの、飢えと死への恐怖。それが、刃を通して朔真の脳へ直接流れ込んできていた。暗いあばら屋の中で、干からびた子どもの死体を抱いて泣く母親のビジョンが、フラッシュバックのように脳裏に焼き付く。
(くそ……集中しろ、俺!)
朔真は頭を強く振り、胃からせり上がってくる吐き気を無理やり飲み込んだ。これは自分の記憶ではない。飲み込まれれば、自分もあの怪物と同じ「飢え」の奴隷に落ちる。
傾いた渇餓が、激しい怒りに任せて残った無数の腕を広場中へ乱打する。石畳が砕け、周囲の廃屋が次々と薙ぎ払われていく。
玄理がその暴風のような一撃を槍で捌きながら、朔真の横へ跳び退いてきた。その頬には、渇餓の爪に掠られた一筋の血が流れている。
「なぁ朔真、一つ聞いていいか?」
玄理は、前方の渇餓の暴走から目を離さないまま、ふっと息を吐いて口を開いた。
「お前は、家族の仇である哭代を皆殺しにするために旅をしてきたんだろうが」
「……ああ、そうだ」
「なら、なぜさっき、あの斑目から写し子を庇った?なぜ、泥を被ってまで、あのバケモノどもを『人として弔う』なんて面倒な道を選びやがった」
玄理の問いは、責めているわけではなかった。ただ、極限状態の中で、隣に立つ少年の「芯」が本物かどうかを確かめようとしていた。
朔真は、泥だらけの手で山鉈を強く握り直した。
ふと視線を横に向けると、広場の隅、崩れかけた長屋の陰に、燕を囲むように孤児が身を寄せ合って震えているのが見えた。彼らの瞳には、大人への不信と、死への純粋な恐怖が張り付いている。
「……俺も、最初は皆殺しにしてやるって思ってたよ」
朔真の脳裏に、先ほどの斑目の薄笑いと、道具としてすり潰されていった写し子たちの姿がよぎる。
「でも、あいつらをただの『部品』や『資源』として扱って、平気な顔をしてる連中を見た時……俺は、絶対にそっち側には行きたくないって思ったんだ」
奪う者がいて、奪われる者がいる。燕たちのように、弱い者が食い物にされる世界。あの斑目のような連中が支配する世界を肯定することは、家族を奪われた自分自身の痛みを、無意味なものへと貶めることだ。
朔真は、まっすぐに玄理の横顔を見た。
「あいつらが憎いからこそ、俺は、あいつらを『怪物』や『道具』のまま終わらせねえ。人として生きてたものを、人間のまま終わらせる。……それが、親父が最後に俺に残してくれた言葉だからだ」
――人でいろ。
その言葉が、朔真の胸の奥で熱く燃えていた。どんなに泥に塗れても、どんなに絶望しても、その一線だけは越えない。それが、生き残った者としての意地だった。
玄理は一瞬だけ目を見開き、やがて、短く息を吐いて柔らかい笑みを浮かべた。
「……そうか」
その顔は、ただの皮肉屋の討滅者ではなく、不器用な教え子の成長を眩しく見つめる「親」のような温かさを帯びていた。
玄理は短槍を強く握り直し、その切っ先を再び暴れ狂う渇餓へと向けた。
「いいだろう。なら、その青臭い意地、最後まで貫き通してみせろ。次で決めるぞ!」
玄理が再び前線へ飛び出す。
片脚を失い、動きが鈍りながらも手当たり次第に周囲を破壊する渇餓に対し、玄理の猛攻はさらに苛烈さを増した。彼の槍はもはや自分を守るためのものではない。朔真が最後の一撃を放つための、文字通りの「布石」だった。
渇餓が腹の穴から強烈な吸引力を発生させ、周囲の瓦礫や泥ごと玄理を飲み込もうとした瞬間。玄理はその穴の縁、分厚い肉の壁に槍を深く突き立て、自らの体重をかけて強引にその動きを封じ込めた。
「腹の横だ、朔真! そこにある呪力の塊を斬れ!」
「おおおおッ!!」
――三度目。
朔真は、玄理が命懸けでこじ開けた渇餓の横っ腹――最も巨大で、最もおぞましい呪力の結節点へ向けて飛び込んだ。
【閉眼】で敵の抵抗と再生を強引に封じ込め、【弔詞】の言葉を乗せた山鉈を深々と突き立てる。刃が呪力の核に触れた瞬間、反発する凄まじい力が朔真の腕の骨をミシミシと軋ませた。
「これで、終わらせるッ!!」
渾身の力で、すべてを断ち切るように刃を振り抜いた。
ズバァァァンッ!!
渇餓の腹部から右半身にかけて、巨大な亀裂が走る。まるでダムが決壊したかのように大量の呪力と泥が空へ向かって噴出し、怪物の巨体が大きくのけぞった。
(やった……!)
朔真が確信した、その瞬間だった。
「――が、あッ!?」
朔真の視界が、唐突に真っ暗に反転した。
山鉈を持った腕の感覚がふっと消え、膝の力が完全に抜け落ちる。
泥の中に、朔真の体がどうっと倒れ込んだ。
「朔真!?」
背後で鈴の焦燥を含んだ声が響く。だが、朔真は答えることができない。
限界だった。
一戦の間に三度。それが、今の朔真が【弔詞】を実用できる絶対的な限界値だったのだ。
巨大な渇餓の核に近い部分を解したことで、膨大な数の「飢えて死んだ死者たち」の感情が、決壊したダムのように朔真の脳内へと一気に逆流してきていた。
『おなかがすいた』『くるしい』『かあちゃん』『なんで、なんで』『にくをくれ』『はらいたい』
声、声、声。
自分の記憶なのか、死者の記憶なのか分からない。自我が濁流に飲み込まれ、ドロドロに溶けていくような強烈な吐き気と絶望感。
「あ、あぁ……ぁ……」
朔真は泥を掻きむしりながら、胃液を吐き出した。立ち上がるどころか、山鉈を握ることすらできない。脳の血管が焼き切れそうなほどのノイズの中で、彼はただ身を丸めることしかできなかった。
「チィッ、限界かよ!」
玄理が舌打ちをし、倒れ伏す朔真を庇うようにして前に出る。
だが、事態は最悪だった。
朔真の一撃は確かに深く入り、怪物の呪力の半分以上を吹き飛ばしたが、渇餓を完全に解体するには至っていなかったのだ。
半身を崩れかけさせながらも、渇餓は残った腕で泥を掴み、無理やり体勢を立て直した。
そして、その腹の虚無の穴を、倒れ伏す朔真と、彼を庇う玄理へと向ける。
「……まずいな」
玄理の顔に、明確な死の焦りが浮かんだ。
防衛線は崩壊した。
朔真は行動不能。玄理一人では、渇餓の物理攻撃を槍で凌ぐことはできても、その呪力の暴走と再生を止める決定打がない。
圧倒的な質量を持った多腕が、朔真たちをすり潰そうと天高く振り上げられた。
死者の声に苛まれる朔真の濁った視界に、絶望の影が落ちる。
その時。
朔真と玄理の前に、小さな影が一つ、音もなく滑り出た。
「……そこまで」
凛とした、だが確かな「怒り」を孕んだ声だった。
これまで決して前線に出ることはなく、後方でただ祈るだけだった存在。
薄墨色の瞳を持った少女――鈴が、両手を広げ、巨大な渇餓の前に立ちはだかっていた。




