喰らう者、送る者
泥這の宿の広場が、一瞬にして底なしの胃袋へと変わった。
ゴアァァァァァァッ……!!
枯れ井戸の奥底から噴き出したのは、音の形をした「飢え」だった。
長年踏み固められてきた泥の地面が、まるで薄い皮のように波打ち、枯れ井戸の石積みが内側からの異常な圧力で弾け飛ぶ。噴き上がるどす黒い泥の飛沫の中から、巨大な異形がゆっくりと這い出した。
痩せこけた四肢。極端に長い多腕。そして、顔には口がなく、代わりに大きく裂けた腹部に虚無のような穴がぽっかりと空いている。
第二の支柱、飢の柱の防衛機構――『渇餓』。
「ひ、ひぃぃっ……!」
「ああ、配給が……お薬が……!」
広場に集まっていた町民たちが、本能的な恐怖に急激に後ずさる。泥に塗れ、生気を吸い取られながらも生き延びようとする。
だが、這い出した渇餓は彼らには目もくれなかった。その巨大な腹の穴が向いたのは、広場に展開されていた最も高密度の呪力、すなわち封祀寮の暗部――斑目忌郎が敷いた呪符の陣だった。
「おや……随分と大物が釣れましたねぇ」
斑目は、空中の陣を維持したまま、薄笑いを浮かべて渇餓を見上げた。その目には、目の前の異形が「数多の命の成れの果て」であるという畏怖など微塵もない。彼にとって、それは国家のシステムを潤すための巨大な資源でしかなかった。
「暴走した防衛機構ですか。ちょうどいい、この巨体ならどれほどの呪力が抽出できるか――」
斑目の長い指が優雅に動き、無数の呪符が青白い光の矢となって渇餓の巨体へ突き刺さる。
ボギュッ、と。
生々しい肉の破裂音が響き、渇餓の長い腕の一本が根元から吹き飛んだ。
「脆いものですね。さあ、大人しく兵器の贄とな――」
斑目の言葉が、途切れた。
吹き飛んだはずの渇餓の腕が、地面の泥と、周囲に漂う死臭を一瞬で「吸い上げ」、泥土と混ざり合って瞬きする間に元の形へと再生したのだ。
「……何?」
斑目の顔から、初めて余裕が剥がれ落ちた。
物理的な破壊は無意味。それが渇餓という存在の性質だった。斬られれば斬られるほど、壊されれば壊されるほど、その欠落を埋めるために周囲の「命」を無差別に喰らい、即座に再生する。
ズズン! と渇餓が地を踏み鳴らし、腹の大穴から強烈な吸引力を発生させた。
「が、あ……ッ!?」
斑目の足元で陣を維持していた封祀寮の裏の者たちが、次々と宙に浮き上がり、悲鳴を上げる間もなく渇餓の腹の穴へと吸い込まれていく。
メチャ、メチャクチャ……と、骨と肉がすり潰される不快な咀嚼音が、腹の中から響いた。彼らもまた、自らが数字として処理してきた民と同じように、ただの「肉」として消費されていく。
「チィッ……化け物め!」
斑目が舌打ちをし、慌てて印を結び直す。幾重もの強力な防御陣を展開しようとした、その時だ。
ガァン!
石突による強烈な一撃が、斑目の足元にあった陣の要石を粉々に砕いた。
「……おっと。泥で足が滑っちまった」
玄理だった。短槍を肩に担ぎ、わざとらしく口笛を吹く。その瞳には、かつて朝廷の腐敗から逃げ出した男の、冷たく研ぎ澄まされた光が宿っていた。
「葛城玄理……ッ! 貴様、朝廷に叛く気ですか!」
「言ったろ。狂った野犬が勝手に噛みついただけだ。俺には何も見えねえなぁ」
玄理の意地悪な笑みと共に、斑目の防御陣が完全に瓦解した。
剥き出しになった斑目へ、渇餓の巨大な多腕が襲いかかる。
「……忌々しい討滅派の犬共が」
斑目は、迫り来る巨大な腕と、自らの部下を喰らい続ける渇餓を冷徹な目で見据えた。
呪術兵器を欲する連中は、命を資源としか見ていない。それは自分自身の命も、あるいは部下の命であっても同様だ。今の戦力でこのバグのような化け物を制圧するのは割に合わないと、彼の合理的な脳が即座に弾き出した。
「今回は、この町ごとくれてやりましょう。どうせ次も……同じように網を張るだけですから」
斑目は懐から真っ赤な血で書かれた特殊な呪符を取り出すと、それを自身の足元へ叩きつけた。
ボンッ! という目眩しの爆煙と空間の歪みが発生する。
渇餓の多腕がその空間を薙ぎ払った時には、すでに斑目の姿は跡形もなく消え去っていた。
「チッ……逃げ足の速い野郎だ」
玄理が悪態をつく。
だが、逃げた斑目を追う余裕はなかった。周囲の生気を喰らい、さらに一回り巨体を膨張させた渇餓が、今度はその空っぽの腹の穴を朔真たちへ向けたからだ。
「来るぞ、朔真!」
玄理の声に、朔真は無言で山鉈を構えた。
泥だらけの手に、柄の感触が深く馴染む。
(……ただ斬るだけじゃ、意味がない)
朔真は、渇餓の異様な姿を前にしても、不思議なほど冷静だった。
頭をよぎるのは、この泥這の宿へ辿り着くまでの道中、深い森の中での光景だ。
◇
――数日前。
森の中で、朔真たちは「飢の柱」に引き寄せられた、飢えて亡者となった死者たちの群れと遭遇した。
朔真は怒りに任せて山鉈を振り回し、彼らを幾度となく斬り捨てた。だが、腕を切り落としても、胴を両断しても、泥と怨嗟がすぐさま傷口を繋ぎ合わせ、彼らは再び立ち上がってきた。
息を切らし、絶望しかけた朔真の前に立ったのは、鈴だった。
『ただの肉として斬るな』
いつも通り感情のない声で、鈴は言った。
『あれは、終われない怨嗟の塊。敵として見る限り、どれだけ壊しても元に戻る』
『じゃあ、どうすればいいんだよ!』
『一拍、止める。視線を凝らして、暴れる怨嗟の奥を見る……それが「閉眼」。そして、、』
鈴は、朔真の握る山鉈の柄に、そっと手を添えた。その手は氷のように冷たかったが、どこか深い底から命を慰めようとする確かな「祈り」の温度があった。
『刃に言葉を乗せる。怒りじゃない。鎮めるための言葉を。その瞬間だけ、お前の武器は死者を解す「弔詞」に変わる』
道中で幾度も実践し、身体に叩き込んだその感覚。
ただ物理的に破壊するのではなく、相手の存在そのものを「死者」へと戻し、解体する戦い方。
◇
(俺はもう、ただ力任せに振るうだけのガキじゃねえ)
朔真は深く息を吸い込み、山鉈の柄を握り直した。
だが、その直後だった。
朔真の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「――っ!?」
突然、猛烈な空腹感が胃袋を激しく蹴り上げた。
三日三晩、水一滴飲まずに荒野を歩き続けたような、内臓が裏返るほどの飢え。膝の力が抜け、朔真は泥の中に手をついた。
『……お腹、空いたねぇ』
耳元で、声がした。
百年前の死者の声か、あるいは自分自身の心の奥底から響く渇望か。
顔を上げると、泥の広場が消えていた。
そこにあるのは、見慣れた囲炉裏。温かい光。鍋から立ち上る、白い米の湯気。
囲炉裏の向こうで、母の志乃が微笑んでいた。隣では、妹の小春が箸を持って「お兄ちゃん、早く!」と無邪気に笑っている。
「母、さん……小春……」
朔真の手から、山鉈が滑り落ちそうになる。
食べたい。あの食卓に戻りたい。欠けてしまった自分の心を、空っぽになった胃袋を、あの温もりで満たしたい。
あの夜に奪われたすべてが、ここにある。ここにいれば、もう血を流さなくていい。誰かの痛みを背負って、泥だらけになって戦う必要もない。
(そうだ。俺はずっと、腹が減っていたんだ)
復讐という名目でひたすらに走り続けてきた。だが、その本質は「失われた家族の温もり」を求める、満たされない心の飢えだった。
朔真の指が、ふらふらと囲炉裏の幻へ向かって伸びる。
その幻を掴もうとすれば、現実の朔真の手は、隣にいる鈴や玄理の肉を引き裂こうとするだろう。渇餓の領域は、戦う者の倫理を削り、獣へ引きずり下ろす。この温もりに屈すれば、朔真という個人の意志は消え去る。
「……食べるな」
凛とした声が、幻覚のベールを切り裂いた。
隣に立つ鈴だった。彼女は両手を胸の前で組み、薄墨色の瞳を静かに閉じている。
感情を持たない道具として作られたはずの彼女。だが、その胸の奥底には、百年もの間、泥に沈められていた無数の魂を抱きしめようとする、祈りが眠っていた。
彼女の唇から紡がれる、透き通るような祝詞。
『――送る。過ぎた飢えを。満たされぬまま地に堕ちた、無数の口を』
鈴の【送詞】が展開され、朔真の周囲数メートルに、青白い清浄な結界が広がった。その空間だけ、渇餓が放つ異常な「飢えの感染」が薄らぐ。
朔真の瞳に、再び理性の光が戻った。
幻の中で、志乃と小春が笑っている。手を伸ばせば届くように見える。
だが、朔真はもう前へは進まなかった。
泥だらけの手で、強く自分の腹を抑え込む。
「……分かってる」
泣きそうな声だった。だが、その声には鉄のような芯があった。
朔真は、食卓の幻に向かって、はっきりと口を開いた。
「俺は……そっちには行かねえ。俺の飢えは、誰かを喰って満たしていいもんじゃねえんだよ!!」
明確な拒絶。
あの夜、血の海の中で親父が残した「人でいろ」という言葉。それは、獣に落ちるなというだけの意味ではない。他者の痛みを踏みにじってまで、偽りの幸福にすがるなという、人間としての矜持の継承だった。
言葉にした瞬間、囲炉裏の幻がガラスのように砕け散った。
視界が現実の泥這の宿へと戻る。目の前には、腹の穴を広げて迫り来る渇餓の巨体。
「鈴、ここからは俺の番だ!」
朔真は泥を蹴り、渇餓に向かって真っ直ぐに突進した。
標的を定めた渇餓が、その長く太い「腕」を、丸太のように振り下ろしてくる。何人もの人間を一度にすり潰せる一撃。
(まずは、あの一本からだ)
朔真は逃げない。
目を限界まで見開き、振り下ろされる巨腕の奥――怨嗟の呪力が最も濃く集まっている結節点を凝視した。
「――一拍、止まれ」
朔真の【閉眼】。
視線を凝らし、呪力の奔流を一瞬だけ見切る。朔真の眼力に射すくめられ、渇餓の振り下ろした腕の動きが、ほんの半呼吸だけ空中で硬直した。
その隙に、朔真は腕の死角へと深く潜り込む。
相手はただの化け物ではない。飢饉で死んだ者たち、奪わなければ生きられなかった者たちの、悲惨な防衛本能の塊だ。
朔真は山鉈の刃に、殺意ではなく、彼らを鎮めるための「言葉」を乗せた。
「もう……誰も奪わなくていい」
【弔詞】。
刃が鈍い光を帯びる。それは命を断つための武器から、死者を弔うための葬具へと変わった。
朔真は、硬直した渇餓の腕の関節部分へ向けて、渾身の力で山鉈を振り抜いた。
「喰って終わるな! 飢えたまま、終わらせねえっ!!」
ズパァンッ!!
弔詞を乗せた山鉈が、渇餓の腕を深々と切り裂いた。
泥による再生は起きなかった。切断された巨大な腕は、地面に落ちると同時にどす黒い怨嗟の呪力を噴き出しながら、形を保てずにボロボロと崩れ去っていく。
だが、渇餓の巨体はまだ健在だった。
失った腕の代わりに、背中から新たな腕が二本、三本と気味の悪い音を立てて生え始める。腹の穴からは、底知れぬ飢えの唸り声が響き続けていた。
「一本解したくらいじゃ、止まらねえか……!」
朔真が山鉈を構え直して後退する。
「長期戦になるぞ、朔真」
玄理が短槍を回し、朔真の隣に並び立った。
「あいつの全身を構成してる『飢えの部位』を、一つ残らず解体するしかねえ。手も、足も、その忌々しい腹の口もな」
「上等だ」
朔真の額に汗が伝うが、その眼差しに迷いはない。
背後では鈴が、解かれた腕の怨嗟を静かに天へと送る祝詞を紡ぎ続けている。
喰らおうとする怪物と、それを解し、送ろうとする者たち。
泥まみれの広場で、神を終わらせるための果てしない死闘が、幕を開けた。




