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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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仇を庇う背中

泥を蹴り上げ、朔真は広場へ飛び出した 。


視界を埋め尽くしたのは、圧倒的な蹂躙の光景だった。

灰色の空の中空に、数十人もの町民たちが目を見開いたまま浮かび上がっている 。彼らの口や目から、淡い燐光のような生気が糸を引いて吸い上げられていく 。

その冒涜的な光景の中心――枯れ井戸の縁に立ち、無数の呪符を宙に舞わせながら薄笑いを浮かべている男がいた 。

利用派の官僚、斑目忌郎まだらめ・きろうである 。


全身の血が、怒りでどろりと沸騰するのを感じた 。

相手は怪物ではない。ただの人間だ 。同じ人間を、意志を持たない無残な「資源」としてすり潰し、その断末魔の光景を芸術でも鑑賞するかのようにうっとりと眺めている 。

その狂信的な悪意に、朔真は考えるよりも先に真っ直ぐに山鉈を振りかぶっていた 。


「てめえええっ!!」


烈帛の気合いと共に放たれた刃が、斑目の法衣を捉える直前 。


「おや」


斑目が、扇のように広げた呪符の一枚を、指揮者のような優雅さで指先で弾いた 。


「野蛮ですねえ。討滅派の犬ですか?」


ガァン! と 。

硬い釣鐘を全力で殴りつけたような轟音が響き、朔真の腕が根元から弾き返された 。


見えない壁だった 。斑目の周囲一丈(約三メートル)の空間に、青白い呪文の文字列が幾何学的な六角形の陣を描いて浮かび上がっている 。


「なっ……」


驚愕で目を見開く間もなく、陣の一部が鋭い光の束へと変形し、朔真の腹部を容赦なく打ち据えた 。


「がはっ!」


肺の中の空気が強制的に吐き出され、朔真は泥の中を数間ほど無様に転がった 。全身を巨大な丸太で殴り飛ばされたような、骨の髄まで響く重圧 。這い上がろうと泥に指を立てるが、手足が鉛に変わったかのように重い 。


「葛城玄理の部下にしては、随分と聞き分けがない」


斑目は、足元で血を吐いて蹲る朔真を虫ケラのように見下ろし、冷ややかに笑った 。


「少し大人しくしていなさい。今、いいところなんですから」


斑目がゆっくりと印を結び直す。すると、枯れ井戸から暗雲の天へと真っ直ぐに伸びていた光の柱が、さらに強大な引力を生み出した 。


空中に浮かぶ町民たちの身体から、最後の生気が一滴残らず絞り尽くされる 。

ぱり、と。乾いた音がした。

干からびた皮袋のようになった死体が、次々と広場の泥へボトボトと落ちていく 。


「あ、あぁ……兄ちゃん……」


落下してきた死体の山の中に、朔真は見覚えのある小さな影を見つけた。

先ほど、裏路地で朔真から干し肉を奪っていった少年、燕の姿だった 。

燕はまだ辛うじて息があったが、地面を這う指先は白く枯れ木のようにひび割れている 。あんなにも泥臭く生に執着し、肉を「奪う」ように輝いていた野生の瞳からは、もう一切の光が消え失せていた 。


「やめ……ろ……」


喉の奥から絞り出すように朔真が呻くが、斑目は意に介す様子もない 。


「素晴らしい。やはり『飢え』は極限の調味料だ。生きたい、食べたい、満たされたいという強烈な執着が、地下の『飢の柱』を完璧に活性化させている」


ズズ……、ズズズ……!


狂喜する斑目の足元、井戸の底から、底冷えのする異様な音が響き始めた 。

重い泥が擦れ合うような、あるいは、無数の何かが壁を這い登ってくるような、湿った音 。


「……来ましたね。この柱を壊されまいと、防衛本能で群がってくる『神の使い』たちが」


斑目が、天の啓示を受けた狂信者のような、愉悦に満ちた声を上げた 。


井戸の縁から、どろりとした黒い塊が溢れ出した 。

いや、泥ではない 。

それは、濃紺の装束を着た、無数の少女たちだった 。


黒い髪。白い肌。薄墨色の瞳 。

鈴だ 。

朔真の背後で静かに佇む鈴と全く同じ顔をした「哭代の写し子」たちが、蟻の群れのように無機質に重なり合いながら、井戸の底から際限なく湧き出してきているのだ 。


「あれ、は……」


這い上がろうとしていた朔真の息が、完全に止まった 。


――あの夜だ。

こいつらがきっと村を焼き払い、泣き叫ぶ家族を無慈悲に斬り伏せたのだろう 。それが十、二十と群れを成して這い出てくる 。その光景の圧倒的な異様さに、朔真の脳内を激しい警鐘が駆け巡り、視界が赤く染まる 。


「さあ、おいでなさい」


斑目が歓迎するように両手を広げた 。

写し子たちは一切の表情を変えぬまま、機械的な動作で刃を抜き放ち、斑目へ向かって一斉に飛びかかった 。


だが、斑目は慌てる素振りすら見せない 。


「『ばく』」


短く唱えられた言葉と共に、空中に幾重にも重なる呪符の陣が展開された 。

飛びかかった写し子たちが、まるで見えないガラス張りの箱にでも閉じ込められたかのように、空中でピタリと停止する 。


「『あつ』」


無機質な宣告。直後、陣が極限まで収縮した 。


メチャ、という生々しくも残酷な水音が広場に響く 。


「――っ!」


朔真は思わず目を背けそうになった 。

陣に捕らえられた写し子たちの身体が、見えない巨大な万力で四方から容赦なく押し潰されていく 。骨が砕ける嫌な音が連鎖し、肉がねじ切れ、黒い装束が瞬く間に赤黒い血に染まる 。

だが、彼女たちは一切の悲鳴を上げない 。痛覚すら機能していないのか、ただ無表情のまま、物言わぬ工業部品のようにすり潰されていく 。


斑目の陣の底に、どろどろになった彼女たちの残骸が溜まる。そこから、青黒い呪力の玉がぽろぽろと抽出され、用意された盆の上へ乾いた音を立てて落ちていく 。


「見事。これほど純度の高い呪力の結晶は、討滅派のやり方では絶対に手に入りませんよ」


斑目は、血だまりの中に転がる呪力の玉を恭しく拾い上げ、恍惚と息を吐いた 。


「この町は、飢の柱を刺激するためのただの撒き餌。そして、群がってきた写し子をこうして捕獲し、国の兵器として抽出する。この国は、これでもっと強くなる」


狂っている。

朔真は、こみ上げてくる強い吐き気を無理やり飲み込んだ 。


井戸から湧く写し子たちは、家族を奪った憎い仇だ 。自分の手で皆殺しにすると、血の涙を流して誓った相手だ 。

だが、今目の前で行われているのは、もはや「戦い」ですらない 。命に対する最低限の尊厳すら欠落した、ただの凄惨な「搾取」だ 。


感情を持たない精巧な人形として造られ、神の命令だけで動き、最後は人間の都合のいい兵器としてすり潰される 。


(……あいつらは、何のために生まれてきたんだ)


答えの出ない問いが脳裏をよぎったその時、朔真の横を、ふわりと白い影がすり抜けた 。


「……鈴?」


朔真は泥だらけの顔を上げ、目を見張った 。

ずっと背後で無表情を貫いていたはずの鈴が、ふらつくような、糸の切れた操り人形のような足取りで、前へ出ている 。


彼女の様子が、明らかにおかしい 。

いつもは底知れず冷たく澄んでいる薄墨色の瞳が、小刻みに、ひどく揺れている 。その視線は、憎悪すべき斑目ではなく、陣の中で無惨に潰されていく「自分と同じ顔の写し子たち」に向けられていた 。


「痛、い」


鈴の血の気の引いた唇から、微かな、だが確かな声が漏れた 。


「助けて、って……言ってる」


朔真には何も聞こえない。だが、鈴にははっきりと聞こえていた 。

感情を剥がされ、痛覚すら封じられたはずの写し子たちが、すり潰される瞬間に発している微弱な「ノイズ」を 。オリジナルにして同位体である彼女の死への共感性が、その声なき断末魔を、魂の奥底で受信してしまっていたのだ 。


鈴が、ギリッと白波が立つほど唇を噛み締める 。

それは朔真がこれまで一度も見たことのない、彼女の痛切で、あまりにも人間くさい表情だった 。


次の瞬間、鈴は泥を強く蹴り、斑目の陣へ向かって真っ直ぐに跳躍した 。手にした短刀を抜き放ち、陣の要石となっている空中の護符へ突き立てようとする 。


「鈴、駄目だ!」


後方から駆けつけた玄理の切羽詰まった声が響いた。だが、遅い 。


「おお……こんなところにオリジナルが」


斑目が、予定外の極上素材を見つけた商人のように、驚きと喜悦を混ぜた薄笑いを深めた 。


「歓迎しますよ。あなたなら、さぞ良質な呪力が抽出できるでしょう」


斑目の指が踊るように動き、鈴の周囲に新たな陣が瞬時に展開される 。

六角形の光の檻が、空中の鈴を完全に捕らえた 。


「しまっ――」


鈴が身をよじって逃れようとするが、見えない絶対的な重圧が彼女の細い手足を空中に縛り付ける 。


「『圧』」


斑目が無慈悲に宣告した 。


ミシッ、と。鈴の肩の細い骨が軋む音が、朔真の耳に生々しく届いた 。


鈴の顔が苦痛に歪む 。それは、あの夜、小春たちを無表情で見下ろしていた怪物の顔ではなかった 。ただの、痛みに怯え、苦しむ一人の少女の顔だった 。


(……人でいろ)


頭の奥底で、血を吐きながら親父が残した最期の声が、ひどく鮮明に響いた 。


朔真は、自分の腕が痺れていることも忘れて、どろどろの泥を強く掴んで立ち上がっていた 。


「朔真!」


玄理の制止の声も、今の朔真の耳には入らない 。

足の筋肉が千切れるほどの力で地を蹴り飛ばした 。


(こいつは仇だ)


頭では分かっている。理解している。ここで鈴が斑目にすり潰されて死ねば、俺の復讐が一つ終わるだけだ 。

あの夜の絶望が、志乃の血の匂いが、小春の泣き声が、鎖となって朔真の足を止めようとする 。


(――でも、俺は!)


朔真の目に焼き付いているのは、先ほどの「飢えの森」で、自分が死にかけた時に手を重ねてくれた、鈴の不器用で温かな祈りの温度だ 。


憎しみだけに囚われた怪物に成り下がるな。目の前の命を感じて、人として生きろ。それが親父の遺した呪いであり、願いだ 。


人をただの「肉」や「資源」としてすり潰して笑う、斑目の醜悪な顔を見て、朔真の腹の底でくすぶっていた決意が、ついに強固な意志として固まった 。


「俺は……てめえらと同じ側には行かねえっ!!」


朔真は獣のように吼えた 。

陣に押し潰されようとしていた鈴の前に、強引に自らの身体を割り込ませる 。


四方から迫る見えない圧力が、朔真の全身の骨をミシミシと軋ませ、肺から空気を絞り出す 。だが、その絶望的な圧力の奔流の中で、朔真は山鉈を両手で固く握り締め、上段に構えきった 。


「――ほどけっ!!」


弔詞の叫び 。

死者を鎮め、狂った怨嗟を断ち切るための「敬愛の血」が、刃に赤黒く宿る 。


朔真が渾身の力で振り下ろした山鉈が、空中の陣の結節点となっている護符を、一寸の狂いもなく正確に叩き割った 。


パァン! という甲高い破裂音と共に、斑目の敷いた呪力の結界が、ガラス細工のように粉々に砕け散る 。


「……何?」


初めて、斑目の顔から余裕の薄笑いが消え去った 。


重圧から解放された鈴が、泥の上に力なく膝をつく 。

朔真は肩で荒い息を吐きながら、鈴を、そして井戸の底でただ倒れている写し子たちを背に庇うようにして、斑目の前に立ちはだかった 。


「……何の真似ですか、討滅派の犬」


斑目が、極上の芸術品に泥を塗られたような不快げな顔で目を細めた 。


「それは神の使い。我々の兵器であり、あなた方にとっても討ち果たすべき『敵』でしょう。なぜ、人間である我々に刃を向け、怪物を庇うのです」


朔真は、山鉈の切っ先をブレることなく斑目へ突きつけた 。


「勘違いするな」


地の底から響くような、低く、鉛のように重い声だった 。


「こいつらは、俺の家族を殺した仇だ。俺が、必ず終わらせる」


朔真は、背後の鈴や写し子に振り返りもしない 。その刃は、憎むべき過去にも向けられている 。

だが、その声は確かに、泣き声を上げることすら許されない彼女たちへ向けられていた 。


「だが、てめぇのように命を資源としか見てねぇくそったれは、俺が許さねぇ!」


人を人として扱わない理不尽 。

飢えを利用し、命を部品として消費する悪意 。

朔真が本当に憎み、断ち切るべきものが、今、明確に定まった 。


「俺の信念に従って、俺がてめぇをここで斬る」


広場に、凄まじい静寂が落ちた 。

激しい殺気と信念がぶつかり合うその静寂を破ったのは、背後から追いついた玄理の、盛大な舌打ちだった 。


「……馬鹿野郎が。一番面倒な道を選びやがって」


玄理はそう呆れたように悪態をつきながらも、手にした短槍をくるりと小粋に回し、朔真の横へ並び立った 。


「葛城玄理。……あなた、我々と事を構える気ですか」


「俺は何も見ていない。ただ、狂った野犬が勝手に噛みついただけだ」


玄理は皮肉たっぷりに口角を上げ、斑目を睨み据えた 。


「……なるほど。ならば、まとめて肥料になってもらいましょう」


斑目の顔から完全に表情が消え去った。両手を高く掲げると、先ほどとは比べ物にならない数の呪符を、空中に分厚い雲のように展開する 。


同時に。


ゴアァァァァァァッ……!!


枯れ井戸の底から、ついに「飢の柱」そのものの防衛機構が完全に目覚めた 。


巨大な多腕の餓鬼、『渇餓かつが』の気配が、地震のように泥這の宿を揺るがせた 。

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