泥を這う者たち
枯れ果てた盆地の底にへばりつく「泥這の宿」は、遠目に見るよりもさらに凄惨な有様だった。
かつて街道の要衝として栄えたという宿場町の面影は、見る影もない。立ち並ぶ家屋はどれも屋根が重みで落ちくぼみ、土壁は黒く腐り果てている。辛うじて雨風をしのぐために、板の隙間には筵やボロ布が幾重にも詰め込まれていたが、それすらも泥にまみれて悪臭を放っていた。
町全体を覆っているのは、むせ返るような泥の匂いと、行き場のない排泄物の臭い、そして何より「死に損なっている」人間の淀んだ気配だった。空はどんよりとした鉛色に沈み、昼間だというのに日差しの温もりは一切届いてこない。
「……ひどいな」
崩れ落ちた巨大な鳥居をくぐり、かつては大通りだったはずの獣道を歩きながら、朔真は思わず顔をしかめた。
鼻を突く異臭に顔を背けたくなるが、それ以上に朔真の目を引きつけて離さないものがあった。
道端には、人が倒れている。いや、倒れているのではない。座り込んだまま、動く気力すら失って壁に寄りかかっているのだ。
骨と皮だけになり、頭髪の抜け落ちた老人。焦点の合わない目で虚空を見つめ、何事かぶつぶつと呟き続ける女。泥まみれの路地に転がるようにして蹲る男たち。彼らは朔真たちがすぐ側を通りかかっても、声を上げるどころか手を伸ばすことすらしない。
ただ、濁ったビー玉のような目で、じっとこちらを目で追うだけだ。
それは「助けてくれ」という懇願の目ではない。朔真たちが身につけている荷物や、腰の山鉈、果ては彼らの衣服の下にある「肉」そのものを値踏みするような、純粋で無機質な『飢え』の視線だった。理性を失い、ただ胃袋の底の底から湧き上がる渇望だけが、彼らの眼球を動かしている。
「立ち止まるな。目を合わせるなよ」
先頭を歩く玄理が、周囲を油断なく見回しながら低い声で警告した。歴戦の元討滅隊士である彼の横顔にも、かつてないほどの緊張が走っている。
「ここの連中は、もう半分『飢の柱』に呑まれている。お前が少しでも同情して気を緩めれば、その隙を突いて生気ごと身ぐるみ剥がされるぞ」
朔真は無言で頷き、首元に下げた玄理お手製の護符を、服の上から軽く押さえた。
先ほど森の中で倒れかけた時、この護符と、そして背後を歩く少女の力に命を救われた。もしあれがなければ、自分も今頃、彼らのように道の端で泥を啜り、干からびていたかもしれない。そう思うと、背筋に氷を滑らせたような悪寒が走った。
ふと、朔真は背後を歩く鈴を振り返った。
彼女は、この凄惨な景色の中にあっても、まったく表情を変えていなかった。
周囲の飢えた視線を向けられても、腐臭の漂う泥に塗れた道を踏んでも、彼女の歩調は一定で、薄墨色の瞳には何の感情も浮かんでいない。
だが、朔真の右手には、ほんの数刻前、彼女に握られた時の『柔らかな温度』の感触がまだ微かに残っていた。
自分が生気を吸い上げられ、意識を失いかけた時、鈴は自らの身を挺して朔真の命を塞ぎ止めてくれた。「留まれ」と呟いた彼女の唇の形と、あのぬるま湯のような優しい熱。あの夜、朔真の家族を無表情で斬ったのと同じ顔を持つ彼女が、なぜあれほどまでに『人間らしい』温もりを持っていたのか。
(こいつは、この景色を見て本当に何も思わねえのか……?)
朔真の胸の内に、ひどくちぐはぐで、割り切れない感情が渦を巻く。仇として切り捨てるには、彼女はあまりにも静かで、不器用すぎた。
朔真が鈴から視線を外し、再び前を向こうとした、その時だった。
「――っ!」
右手の崩れかけた長屋の陰から、泥の塊のような小さな影が弾け飛んできた。
朔真が山鉈の柄に手をかけるより早く、影は獣のような跳躍力で朔真の腰に提げていた雑嚢に食らいついた。
干し肉や薬草を入れている袋だ。影は四つん這いの姿勢のまま、それを力任せに引きちぎろうと全体重をかけてくる。
「てめえっ!」
朔真は咄嗟に影の襟首を掴み、泥の地面へ強引に押さえつけた。
軽い。驚くほど軽かった。同年代の男の半分ほどしか体重がないのではないかと思うほどの細さだ。
泥だらけの襤褸を着たその影は、十五歳ほどの少年だった。髪は伸び放題で垢と泥にまみれ、頬は病的にこけている。だが、その目だけが異様なまでにギラギラと光っていた。まるで追い詰められた山犬のような、生きることへの強烈な執着。
「離せ! 離せええっ!」
少年――燕は、獣のように喉の奥で唸り声を上げ、朔真の腕に噛みつこうと牙を剥いた。その口の周りは、泥と自分の唇を切った血で汚れている。
「大人しくしろ!」
朔真がさらに強く押さえ込もうと腕に力を込めた瞬間、燕の背後の暗がりから、小さな、本当に小さな悲鳴が聞こえた。
「あ、兄ちゃん……っ!」
崩れた土壁の奥。破れた筵の陰に、燕よりもさらに幼い、六歳か七歳ほどの子どもたちが数人、身を寄せ合って震えていた。どの子も骨と皮ばかりに痩せ細り、ぽっかりと空いたような大きな目で、怯えるように朔真を見つめている。
朔真の腕から、ふっと力が抜けた。
幼い弟や妹たちを背にかばって戦おうとする、燕の泥だらけの姿。
それは、あの惨劇の夜、自分に代わって妹の小春を守ろうと立ちはだかった母・志乃の姿や、泣き叫びながら朔真に手を伸ばした小春の姿と、嫌でも重なってしまった。
(……俺は、誰から奪おうとしてるんだ)
自分は家族の復讐のために戦っている。誇りを持って、死者の無念を晴らすために刃を握っているつもりだった。だが、目の前のこの少年は違う。彼には復讐なんていう大層な目的はない。「今日、弟たちと一緒に生き延びるため」だけに、必死に自分から食い物を奪おうとしたのだ。
どちらの執着が正しいかなど、比べるべくもない。
朔真は、燕の襟首から静かに手を離した。
「……持ってけ」
朔真は雑嚢の中から、玄理に持たされていた硬い干し肉の塊を二つ取り出し、泥だらけの燕の胸に無造作に押し付けた。
「おい、朔真!」
振り返った玄理が、咎めるような厳しい声を上げたが、朔真は無視した。
燕は呆然と朔真の顔を見上げ、それから信じられないものを見るように胸の干し肉を見た。次の瞬間、喉の奥でひゅっと息を呑むと、ひったくるように肉を抱え込み、這いずるような恐ろしい速さで長屋の奥の暗がりへと逃げ込んだ。
「馬鹿が」
玄理が深い、本当に深いため息をついた。
「ここでは情けは身を滅ぼすと言ったはずだぞ。一度でも施しを与えれば、お前は『奪える獲物』として目をつけられる。あのガキだけじゃない、周囲の連中全員からだ」
「分かってる。……でも、あいつらはただ腹を空かせてただけだ。見殺しにはできねえ」
「なら、お前のその雑嚢の中身で、この町すべての腹を満たせるのか?」
玄理の冷徹な言葉に、朔真は奥歯を噛み締め、口を噤んだ。
その通りだ。自分のやったことは、ただの自己満足に過ぎない。干し肉を二つ渡したところで、明日の彼らの飢えを癒やすことはできないのだから。
「……無駄なこと」
不意に、背後からひどく平坦な声が落ちた。
鈴だった。彼女は、燕が逃げ込んだ暗がりを、相変わらずの無機質な目で見つめていた。
「どういう意味だ」
朔真が低い声で問うと、鈴は朔真の顔をまっすぐに見返した。その瞳の奥に、ほんのわずかな感情のさざ波のようなものが揺れた気がした。
「あの肉を食べても、あの子たちは助からない。ここでは、食べれば食べるほど、生きようとすればするほど『飢の柱』に縛り付けられる」
「なんだと……?」
「気がつかないの?」
鈴は、足元のどす黒い泥を真っ白な指で指し示した。
「この町全体が、巨大な『陣』になっている。普通、飢えの領域は空気中から漫然と気力を吸い上げるだけ。でも、ここの気力の流れは違う。人工的に整えられ、意図的に、効率的に……地下の柱へと『流し込まれて』いる」
朔真は息を呑んだ。
言われてみれば、先ほど森の中で倒れた時に感じた「四方八方から体温を吸い上げられる」感覚とは明らかに違う。この町に足を踏み入れてからずっと、足の裏から地面の下へ向かって、見えない太い管で気力を引っこ抜かれているような、明確な「下への引力」を感じるのだ。
「おい、玄理。これはどういうことだ。自然に発生した柱の呪いじゃねえってことか」
朔真が睨みつけると、玄理は舌打ちをし、ひどく苦く、憎悪の入り混じった顔で周囲を見回した。
「……朝廷の『配給』だ」
「配給?」
「この町は、とうの昔に土地が死んでる。作物は育たず、獣も寄り付かない。本来ならとっくに全滅して廃村になっているはずの場所だ。だが、朝廷はそうさせなかった。定期的に、生かさず殺さずの最低限の泥のような粥と薬を配給し、この町の人間を生き延びさせている」
玄理は、道端でうずくまる老婆を一瞥した。
「その配給の泥薬には、人間の生命力と未練を、地下の支柱へと極端に流れやすくする『呪い』が混ぜ込まれているんだよ」
「な……に?」
朔真の頭が、カッと熱くなった。
「この町の連中は、朝廷から与えられる泥を啜ることで、強制的に『飢の柱』の養分にされている。生きたい、食べたいという極限の飢餓感が柱を刺激し、無限の呪力を生み出し続ける。……朝廷の『利用派』の連中が構築した、人間を資源として扱う狂ったシステムだ」
朔真は、呼吸を忘れたように立ち尽くした。
怪物でも、悪霊でもない。自分たちと同じ人間が、権力を持った人間が、同じ人間を「呪力の電池」としてすり潰し、生かさず殺さずの地獄に縛り付けている。
「ふざけ、るな……」
朔真の声は、地鳴りのように低く震えていた。
「配給だの、国のためだの……そんな言い訳で、あの子どもたちまで泥を啜らせて家畜みたいに扱ってるのか!」
「俺たち討滅派も、その実態を知りながら手出しできなかった。これがこの国の『平和』を裏で支える仕組みの一つだからだ」
「平和だと!? こんなもんのどこが平和だ!!」
朔真が激昂し、玄理の胸ぐらを掴もうとした、その時だった。
「……地下から、来る」
鈴の呟きと同時だった。
ズン、と。
町全体を揺るがすような、重く、悍ましい振動が、足元の泥の奥深くから響き渡った。
それまで死んだようにうずくまっていた町の住人たちが、一斉にビクッと身を跳ねさせた。
彼らの虚ろだった目が、急に異常な光を帯び、一斉に町の中心――巨大な枯れ井戸のある広場へと向けられる。
「あぁ……配給だ……」
「お薬の、時間だ……」
誰かが歓喜の混じった声で呻き、泥の中を這うようにして広場へ向かって動き出した。
それに釣られるように、長屋の陰から、瓦礫の下から、泥の底から、無数の住人たちがゾンビのように這い出してくる。彼らの口元はだらしなく緩み、ただ「与えられる泥」を求めて、おぞましい群れとなって広場へと殺到していく。
そこには、先ほど干し肉を抱えて逃げた燕と、彼が守ろうとしていた幼い子どもたちの姿すら混じっていた。
「チッ、最悪の展開だ。配給の回収が始まっちまった」
玄理が忌々しそうに舌打ちをし、短槍の柄を強く握りしめる。
朔真たちが広場の入り口まで駆けつけると、そこはすでに地獄の釜の底のような光景と化していた。
町の中心にある巨大な枯れ井戸。その縁には、薄汚れた高級な法衣を着た男――利用派の暗部・斑目忌郎が、扇のように広げた何十枚もの呪符を片手に、薄笑いを浮かべて立っていた。
彼の足元から放たれる青白い光の陣が、広場へ集まってきた町民たちの足元を取り囲んでいる。
「さあ、みなさん。この国のために、今日も素晴らしい飢えを捧げてください」
斑目が指先で陣を弾くと、青白い光が網のように町民たちを包み込んだ。
「あ、あぁぁぁっ……!」
町民たちの身体が、次々と空中へフワリと浮き上がる。
彼らは苦しむどころか、泥の配給を与えられる恍惚の表情を浮かべたまま、その身体から生命の光(生気)を煙のように吸い上げられていく。吸い上げられた生気は、斑目の呪符を経由して、枯れ井戸の奥深く――飢の柱へと滝のように流し込まれていた。
干からびていく燕の身体が、宙に浮いているのが見えた。
「あいつらは腹を空かせて、俺から肉を奪った! 泥にまみれて、弟や妹を守るために必死に俺に噛みついた! それを……!」
朔真の瞳の奥で、復讐の炎が、全く別の巨大な怒りへと反転していくのが分かった。
ただの養分として、人間を使い捨てにする朝廷のシステム。
そいつらの方が、神や哭代よりも、よっぽど救いようのない『怪物』じゃないか。
「玄理……俺は行くぞ」
朔真は、握りしめた山鉈の柄が血の滲むほど軋む音を立てながら、広場を見据えた。
「おい、待て朔真! 相手は斑目だ、今の俺たちじゃ……」
「チッ、最悪の……!」玄理の制止も、今の朔真には届かなかった。
朔真は腰の山鉈を握りしめ、泥を蹴り上げて広場へと飛び出した。
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