飢えの森と冷たい手
「俺は宗景への報告と、封祀寮の部隊が妙な動きをしないか後処理をしてから追いつく。お前たちは先に行け。ただし、無理はするな」
骸の柱での死闘を終え、社を立つ際、玄理はそう言って朔真たちと別れた。同行していた湊も、自分の道を歩くために別の方向へ去っていった。
結果として残されたのは、朔真と鈴の二人だけだった。
ある意味で、最もいびつで、最も危うい編成だ。
西へ向かう山道は、ひどく重かった。
歩き疲れたからではない。背負っている荷が重いわけでもない。ただ、「二人きり」という状況が落とす沈黙が、鉛のように足に絡みついていた。
先頭を朔真が歩き、その後ろを、鈴が一定の距離を保ってついてくる。
社を出てから半日以上が過ぎたが、二人の間に交わされた言葉は皆無だった。
振り返れば、そこにはあの夜、母の志乃や妹の小春を斬ったのと同じ顔がある。声も、背丈も、匂いすらも同じ。理屈では分かっている。「実際に手を下したのは姉の『令』であり、鈴ではない」と。玄理からもそう聞かされた。
だが、理屈で腹の底のどす黒い怒りが消えるなら、そもそもこんな旅はしていない。
意識から外そうとしても、背後からかすかに聞こえる衣擦れの音や、枯れ葉を踏む足音が耳に届くたび、首の後ろが粟立った。振り返って、今すぐその細い首に山鉈を突き立ててやりたいという衝動が、何度も何度も込み上げては、かろうじて理性の淵で踏みとどまる。
(……くそ)
朔真は前を見たまま、奥歯を強く噛み締めた。
鈴もまた、一切話しかけてこない。
彼女は朔真が自分をどう見ているか、完全に理解しているのだろう。足音を極力消し、気配を薄め、ただ淡々と、言われた通りに一定の距離を保ってついてくる。その「道具」に徹しようとする無機質な態度が、かえって朔真の神経を逆撫でした。
文句の一つでも言ってくれば、言い返せる。反発してくれば、怒りをぶつけられる。だが、彼女は何も返さない。ただ静かに、そこにあるだけだ。
昼を過ぎ、日が少しずつ傾き始めた頃。
朔真は、周囲の様子が少しずつおかしくなっていることに気づいた。
「……なんだ、ここ」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
いつの間にか、山の空気が変わっていた。
先ほどまで耳障りなほど鳴いていた鳥の声が、まったく聞こえない。虫の羽音一つしない。風は吹いているはずなのに、木々の葉が擦れる音がどこか遠く、分厚い壁越しに聞いているようにくぐもっている。
いや、音だけではない。
視界の端から、少しずつ「色」が奪われているような感覚があった。緑深かったはずの木々の葉は、嫌なほど水分が抜け、白茶けて丸まっている。足元の土はパサパサに乾き、踏むたびに灰のように崩れた。生命の気配が、不自然なほどに希薄なのだ。
色が抜け、音が吸い込まれる、ひどく気味の悪い空間。
さらに歩みを進めた、その時だった。
「っ……!」
唐突に、朔真の足がガクンと折れた。
地面に手をつき、慌てて立ち上がろうとする。だが、足に力が入らない。膝が笑い、そのまま前のめりに倒れ込みそうになるのを、辛うじて山鉈の柄を杖にしてこらえた。
「はっ……ぁ、が……っ」
呼吸が浅い。
腹が減っているわけではない。数刻前には握り飯を食ったばかりだ。なのに、胃の奥にぽっかりと巨大な穴が空いたような、ぞっとするほどの虚脱感が全身を駆け巡っていた。
体温が、抜けていく。
血の気が引き、指先から徐々に感覚が薄れていく。自分が生きようとする「気力」の束が、毛穴という毛穴から、見えない空間のどこかへ無理やり吸い上げられているような悪寒。
「おい……っ、何だこれ……」
声が出ない。喉をかきむしろうとした手すら、鉛のように重かった。
視界の端が黒く明滅し、意識が遠のきかけたその時。
不意に、視界の端で白い布が揺れた。
濃紺の装束。鈴だった。
彼女は朔真の横に音もなく膝をつくと、冷や汗を流して痙攣する朔真の右手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
「……触るなっ!」
朔真は反射的に叫ぼうとしたが、口から出たのは掠れた空気の音だけだった。
仇と同じ顔が間近に迫ったことで、朔真の脳が警鐘を鳴らす。だが、身体が動かない。
鈴は朔真の微弱な抵抗を意に介さず、ただ静かに薄墨色の瞳を伏せた。
「……留まれ」
鈴の唇が、小さく動いた。
瞬間、朔真の手の甲から、微かな、だが確かな熱が流れ込んできた。
それは、火のような熱さではない。冷え切った手に触れる、ぬるま湯のような、ひどく静かで柔らかな温度だった。
鈴の力が、朔真の身体から漏れ出そうとする生気を、薄い膜で包み込むように塞いでいく。解された死者をあの世へ「送る」祈りの力の応用。それを今、生きている朔真の命を現世に繋ぎ止めるために使っていた。
朔真の呼吸が、嘘のように楽になった。
視界の黒いノイズが消え、奪われていた体温がゆっくりと戻ってくる。心臓が正常な拍動を取り戻し、指先に感覚が蘇った。
朔真は、荒い息を吐きながら、自分の手を包み込んでいる鈴を見上げた。
「……お前、今、何をした……?」
警戒と混乱が入り混じった声で問う。
鈴はゆっくりと目を開け、だが朔真の手は握ったまま、淡々と答えた。
「塞いだ。あなたの命が、これ以上この土地に吸い上げられないように」
「吸い上げられる……?」
朔真は周囲を見回した。枯れ果てた木々。灰のような土。
「ここが、次の柱の領域なのか」
「ええ。ここは第二の支柱、『飢の柱』の影響圏。骸の柱とは性質が違う。ここにあるのは、ひたすらに『足りない』という渇望だけ。長居すれば、命そのものが干からびる」
鈴の声には抑揚がない。だが、その言葉の内容はひどく生々しかった。
「……なんで、俺だけだ」
朔真は、鈴の白い顔を睨みつけた。
「なんで俺だけがこんな目に遭う。お前は平気そうじゃないか」
「私は、哭代だから」
鈴は、自分の出自を当然のものとして口にした。
「私たちは神の側に立ち、刃として使われるために作られた。最初から、感情も、過去も、色々なものが欠落している。空っぽだから、この『飢え』の影響を受けにくい。……でも、あなたは違う」
鈴の黒い瞳が、まっすぐに朔真を射抜いた。
「あなたの血は、他者の死や痛みに寄り添いすぎる。この土地は飢えている。だから、あなたの『与えようとする気力』に過敏に反応して、強制的に吸い上げようとする。あなたが優しければ優しいほど、この土地はあなたを喰らい尽くそうとするの」
朔真は息を呑んだ。
敬愛の血。死者を弔い、他者を人として扱うための血筋。それが、この「飢え」の領域では致命的な弱点になるというのか。
同時に、朔真は鈴の言葉に、奇妙な違和感を覚えた。
鈴は「自分が空っぽだから飢えの影響を受けない」と言った。だが、彼女と触れ合っている手から伝わってくるのは、決して「空っぽ」の冷たさではない。まるで、見えない分厚い氷の下で、誰かが彼女の心を守るように、すべてのノイズを遮断してくれているかのような――そんな静寂さを感じたのだ。
「……ふざけんな」
朔真は悪態をつき、鈴の手から自分の手を引き抜こうとした。
だが、鈴は手を離さなかった。細い指のどこにそんな力があるのかと思うほど、しっかりと朔真の手をホールドしている。
「離せ。もう動ける」
「駄目。ここで私が手を離せば、あなたはまたすぐに倒れる」
「……敵に情けをかけられる筋合いはねえ」
「情けじゃない」
鈴は即座に否定した。
「あなたが死ねば、神を解す者がいなくなる。私一人では、祈りを送ることはできても、怨嗟の外殻を解けない。二つの力が重ならないと、何も終わらない。だから、あなたには生きていてもらわないと困る」
それは、完全に「道具」としての打算だった。
だが、朔真の腕からふっと力が抜けた。
振り払うのをやめたのは、彼女の論理に納得したからではない。
自分の手を包み込む、鈴の手の感触のせいだった。
彼女の手は白く、細く、そして冷たかった。
けれど、その手つきには見覚えがあった。死者を丁寧に扱い、傷を労わり、ただ「そこにいていい」と肯定する時の、あの祈りの作法。
それは、父・直継が死者の棺を撫でる時の手であり、母・志乃が熱を出した小春の額に手を当ててやるときの、あの優しくて不器用な手つきと、全く同じだったのだ。
どうして、こんなにも「人間らしい」温度で人に触れられるのか。
この手は、人を殺すための手ではない。何かを労わり、静かに見送るための手だ。
理屈では割り切れない感情が、朔真の胸の奥で渦を巻く。仇と同じ顔を持つ少女が、自分の一族と同じ「弔い」の温度を持っているという事実。彼女もまた、神という理不尽に何かを奪われた被害者なのではないかという直感が、朔真の憎しみの矛先を不確かにブレさせるのが、自分でも分かった。
「……少し休む」
朔真はそれだけ言い、鈴に手を握られたまま、近くの枯れた木の根元に背を預けた。
鈴は何も言わず、朔真の隣に座ったまま、静かに目を閉じて力を送り続けていた。
気まずい沈黙。だが、先ほどまでの「殺意」に満ちた沈黙とは、明らかに質が違っていた。
どれくらいそうしていただろうか。
背後の茂みがガサリと音を立てた。
朔真が反射的に山鉈に手を伸ばし、鈴が目を開けた瞬間、見慣れた狩衣姿の男が姿を現した。
「随分と遅いと思えば……」
玄理だった。
彼は木の根元で座り込んでいる二人——正確には、鈴に手を握られている朔真——を見て、皮肉げに片眉を上げた。
「俺がいない間に、随分と仲良くなったみたいじゃないか」
「ふざけんな。そんなんじゃねえ」
朔真は慌てて鈴の手を振り払い、立ち上がった。急激に立ち上がったせいで少し眩暈がしたが、玄理に悟られないよう必死に平然を装う。
「……追手はどうだった」
「今のところは撒いた。だが、封祀寮の連中がいつ嗅ぎつけてくるか分からん。先を急ぐぞ」
玄理はそう言うと、顎で西の方角をしゃくった。
朔真は無言で頷き、山鉈を背負い直す。
鈴は空になった自分の両手をわずかに見つめた後、再び一切の表情を消し、朔真の後ろへと静かに従った。
玄理は険しい顔でそう言うと、周囲の枯れた木々を見回した。
「もう入っていたか。『飢の柱』の領域に」
「……ああ。おかげで死にかけた」
「お前のその血は、良くも悪くも『引き寄せる』からな。神の側であるその娘がいなければ、今頃干物になっていたぞ」
玄理は懐から一枚の護符を取り出し、朔真に投げ渡した。
「首に下げておけ。朝廷の術士が使う、生気を遮断する札だ。気休め程度にはなる」
朔真は無言で札を受け取り、首から下げた。確かに、札が肌に触れた瞬間、周囲からの「吸い上げられる」感覚が一段階和らいだ気がした。
「ここから先は、ただの山じゃないぞ」
玄理が、前方を顎でしゃくった。
「第二の柱の守り神、『渇餓』。奴は骸の柱のように死者を物理的に積み上げるんじゃない。生きとし生けるものから『気力』を吸い上げ、喰らい続ける怪物だ。物理的な攻撃は通じないと思った方がいい。斬っても斬っても、周囲から命を吸い上げて再生する」
「……どうやって解せばいい」
「それを探すのが、お前の役目だ。ただ斬るだけじゃ駄目だと、骸の柱で学んだだろう」
木々が完全に枯れ果てた斜面を抜ける。
その先、すり鉢状になった盆地の底に、無数の崩れかけた家屋がへばりつくように密集していた。
煙一つ上がっていない。だが、人の気配だけは異様に濃く、そして淀んでいる。
「あれが、『泥這の宿』だ」
玄理が低い声で言った。
「かつては街道沿いで栄えていたが、今は『飢の柱』の影響で土地が死んだ。朝廷からのわずかな配給だけで生き延びている、貧民と盗賊の吹き溜まりだ」
朔真は目を細めた。
入り口の崩れた鳥居の陰。
こちらを見つめる、泥だらけの少年の飢えた目玉が、薄暗がりの中でぎらりと光った。
その瞳は、何かを「奪う」ことしか知らない、獣のような色をしていた。
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nononです!
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