残るもの、別れる道
山間の朝は、肺が痛くなるほど冷たく、そして湿っていた。
裏手にある、苔むした開けた土間。そこだけが、異様な熱気を持っていた。
「――甘い!」
裂帛の気合いと共に、空気が弾ける。
朔真は大きく踏み込み、手にした木太刀を袈裟懸けに振り下ろした。
だが、その切っ先が空を切るより早く、玄理の持つ木太刀が下から跳ね上がる。
ガァン、と硬い木と木がぶつかる音が山に響き、朔真の腕は手首から肩まで痺れに貫かれた。
「くっ……!」
「踏み込みに一瞬、躊躇ったな。その『間』で死ぬぞ」
容赦のない玄理の追撃が来る。右から左、下段から上段。息をつく暇もない連撃。朔真は防ぐだけで精一杯だった。
昨晩、骸の柱での激闘から一晩。無理やり動かしている手首が軋み、塞がりかけていた全身の傷が悲鳴を上げる。身体はまだ鉛のように重い。
だが、頭の中を渦巻く熱と焦りが、朔真を夜明け前から土間へと駆り立てていた。
自分が足を止めれば、また誰かが死ぬ。その強迫観念が彼を鞭打っている。
「ほら、どうした! その程度で令の刃が防げるか!」
玄理の木太刀が、朔真の鳩尾すれすれを薙ぐ。
風圧が肌を叩く。朔真は歯を食いしばり、泥に塗れながらも前へ出た。
骸や化け物が相手なら、迷わず振れたはずだった。あの腐肉と怨念の塊ならば、ただ壊せばよかった。
だが、生きた人間である玄理の身体を目の前にした瞬間、どうしても脳裏に「あの感触」が蘇る。
――討滅隊士の肉を断ち切り、生あたたかい血を浴びたあの夜の記憶。
刃が布を裂き、皮を破り、筋肉を断ち切って骨に当たる時の、あの不快な重み。血の匂いと手の震え。
「……っ!」
無意識のうちに、太刀筋から殺意が抜け、ただの「棒振り」に成り下がる。人を壊すことへの本能的な忌避感が、筋肉に強烈なブレーキをかけていた。
それを見逃す玄理ではない。
「死人相手の剣だ、それは!」
容赦のない一撃が朔真の足を払い、無防備になった胸板へ、木太刀の柄が叩き込まれた。
「がはっ……!」
肺から空気が搾り出され、朔真は泥の地面に仰向けに倒れ込んだ。
強烈な衝撃に目の前が明滅する。荒い息が白く立ち昇る。朝霧の向こうの空が、ぐるぐると回って見えた。
「……そこまでだ」
玄理は木太刀を肩に担ぎ、見下ろしてきた。その目は、朔真の体の傷ではなく、もっと深いところを見透かしている。歴戦の傭兵としての、死線を潜り抜けてきた者の目だった。
「人を斬った感覚が、手に残ってるか」
朔真の肩が、びくりと跳ねた。
図星だった。母娘を庇うために、同じ人間である討滅隊士を斬った。あの時の、刃が肉を裂き、骨を断つ感触。それが、いざという時の踏み込みを鈍らせている。化け物を倒す覚悟と、人間を殺す覚悟は、根本的に質が違ったのだ。
「……宗景には、言わねえのか」
朔真は咳き込みながら、泥だらけの体を起こした。
「俺が討滅隊を斬ったこと。あいつに言えば、俺はここで首を刎ねられるか、よくて縛り首だろ」
宗景という男なら、迷わずそうするはずだ。彼は目的のためならどんな冷酷な判断も下せる。
玄理は溜息をつき、傍らの手水鉢に木太刀を立てかけた。
「言ったところで、あの冷血漢はお前を使い潰すだけだ。それに、あの場でお前が斬らなきゃ、俺が斬ってたかもしれねえ」
「だったら……!」
俺が背負う必要はなかったのではないか。そう言いかけた朔真の言葉を、玄理の鋭い声が遮る。
「だがな」
玄理は手拭いで顔の汗を乱暴に拭いながら、朔真を鋭く睨みつけた。
「お前が背負ったのは、ただ仲間を切ったという罪じゃねえ。あの時、泣いてる母娘を見捨てられなかった『お前自身の甘さ』だ」
「甘さ……」
「そうだ。その甘さのせいで、お前は手を汚した。人を斬った。……なら、その重さを、神を殺すまで背負い続けろ。途中で重いからって放り出すな。死んで逃げることも許さねえ」
玄理の言葉は、冷たいようでいて、不器用な許しだった。
お前は間違っていない。
だが、正しいことを貫くなら、地獄の底までその手を血で染める覚悟を持て。そういう無言の叱咤だった。
同時に、決して逃れられない呪いでもあった。
朔真は自分の両手を見つめた。泥とマメだらけの手。この手はもう、ただの村人のものではない。命を奪い、それでもなお進むことを選んだ者の手だ。
震えは、止まっていた。
「……ああ。分かってる」
玄理は朔真の決意が固まった目をみて、少しいたずらに笑った。
「あとな、あいつは死んじゃいねぇよ。だから、そこだけは安心しな」
「そうか。」朔真の表情は安堵し、また泣きそうにもなっていた。立ち上がり、もう一度木太刀を握り直した。その瞳から、迷いの色が一つ消えていた。
呼吸を整えるため縁側に腰掛けた朔真の脳裏に、昨夜の納屋での光景がフラッシュバックする。
◇
雨音の残る暗い納屋。隙間風が吹き込む中、火鉢の赤い炭だけが光源だった。
宗景が、氷のような視線で鈴に問い詰めていた。
『道中、全く同じ顔の死体がいくつか転がっていた。あれは何だ』
宗景の声には、何の感情も乗っていなかった。ただの事象の確認。まるで路傍の石の数を数えるかのような冷淡さだった。
対して、鈴もまた淡々と答えた。
『……写し子』
『写し子?』
『神が、喰らった死者の怨嗟を練り上げて作る、紛い物。哭代一族の手足として使い捨てられる兵隊。顔は同じでも、中身はない』
その言葉を聞いた時、朔真の背筋に冷たいものが走った。
無数に現れる同じ顔の敵。彼らは人間ではなく、ただの「死の再利用」だった。命を冒涜するにも程がある。死してなお、怨念だけを抽出され、神の都合の良い駒として踊らされているのだ。
『令を――姉を殺しても、写し子は補充される。いくら潰しても、神がいる限り、哭代は決して止まらない』
鈴の声は静かだったが、そこには確かな絶望の重さがあった。彼女はずっと、この終わりのない悪夢の中で生きてきたのだ。
朔真は思い知った。仇を討てば終わる。姉である令を斬れば、復讐は果たせる。そんな単純な話ではなかったのだ。
哭代というシステムそのものが、神という巨大な怨嗟の装置に組み込まれている。神を殺さなければ、第二、第三の令が生まれ、自分の家族のような悲劇が永遠に繰り返されるだけだ。
だが、その「神」と「柱」の攻略法も、昨夜の聴き取りで明確になっていた。
鈴は自身の両手を見つめながら、ぽつりと語った。
『骸の柱は、死者が怪物に縫い付けられているだけだった。顔や手足を斬っても、また骨を継ぐ。力で壊そうとしても無駄』
『ならば、どうする』
宗景の問いに、鈴は朔真の方を向いた。
『胸の継ぎ目を朔真が“解して”、中に押し込められた死者を剥がし、私がそれを“送る”。そうして初めて、怪物の芯を断つことができる』
解して、送って、断つ。
朔真はその言葉を、呪文のように口の中で反芻した。
ただ力任せに振るだけでは届かない。死者を弔うように刃を使わなければならない。それは相手の痛みを自分も味わうという、恐ろしい儀式でもあった。
『柱ごとに、縫い方は違う』
鈴の言葉が蘇る。
『骸は積まれた死。次の「飢」の柱は、喰わせる力。その次、「哭」の柱は呼び止める声。見える形が違えば、解し方も変わる。壊す前に、何が繋がっているか見極めないと駄目』
ただ斬るのではない。
相手が何を背負わされ、何に苦しんで怪物にされているのかを「見る」必要がある。
それは、相手を憎むだけでは成立しない戦い方だった。敵の絶望に寄り添い、それを引き受けなければ、神の呪縛は解けない。あまりにも酷な道のりだ。
◇
「おーい、お二人さん。朝飯、できてるぞ」
のんびりとした声がして、振り返ると湊が立っていた。
手には、塩をまぶした握り飯が山と積まれた盆を持っている。昨日の死線を潜り抜けたとは思えないほど、すっきりとした、憑き物が落ちたような顔をしていた。
縁側に座り、三人で無言のまま握り飯を食う。米の甘みと、少しきつめの塩気。それだけが妙に旨く、疲労した身体の隅々に染み渡った。生きて何かを食べるという行為が、これほど尊いものだと、旅に出る前の朔真は知らなかった。
「あのな、朔真」
ふと、湊がぽつりと言った。手の中の握り飯を見つめたまま、こちらを見ようとはしない。
「俺、ここで降りるわ」
朔真の噛む動きが止まった。
驚きはなかった。薄々、そうなる気はしていた。
だが、いざ口に出されると、胸の奥に冷たい風が吹き込んだような気がした。
横を見ると、湊は無理に笑っているわけではなく、本当に穏やかな顔をしていた。
「昨日の夜、宗景って細っこいおっさんに言われたんだ。お前みたいな足手まといは、後方支援の部隊に合流しろってさ」
「……お前、それでいいのか」
朔真の声は低かった。怒りではなく、確認だった。
「最初はふざけんなって思ったけどさ。でも、よく考えたらその通りなんだよ。俺、骸の柱の時、本当に足がすくんで何にもできなかった。これ以上一緒にいても、お前らの足引っ張るだけだ」
湊の震えていた背中を、朔真は覚えている。普通の村人なら、あれが当然なのだ。
異端なのは、鉈を振るって血肉に塗れようとしている自分の方なのだ。
湊は顔を上げ、朝の光が差し込む山並みを見つめた。
「小夜の弔いは、お前がやってくれた。俺はそれだけで十分だ」
「湊……」
「俺は、お前たちみたいに強くない。でも、生きて帰って、俺たちの村の話や、お前が神を殺しに行く道中のことを、誰かに語り継ぐことはできる。……だから俺は、生き残る側になる」
それは、死と隣り合わせの旅の中で、彼が見つけた「自分の戦い方」だった。戦力外通告を突きつけられた無力感からの逃避ではない。前を向いて生きるための別れだった。
誰かが覚えていなければ、奪われた命は本当に無かったことになってしまう。湊は、その重責を担うと決めたのだ。
朔真は何も言わず、ただ最後に残った握り飯を口に放り込み、力強く噛み砕いた。塩の味が、いつもより少しだけ目に沁みた。
「……死ぬなよ、湊」
「お前もな。変なとこで死んだら、俺が語り継げなくなるだろ」
湊は初めて、悪戯っぽく笑った。故郷の村で、悪ふざけをして笑い合っていた頃と、全く同じ顔だった。
日が完全に昇り、朝霧が晴れた。
旅支度を終えた朔真が表に出ると、鈴がすでに待っていた。
白布の汚れは川の水で洗い落され、静かな面立ちで北の空を見つめている。彼女の背負う業の深さを知った今、その白い背中がひどく痛ましく、同時に恐ろしく強靭に見えた。
「待たせたな」
朔真が声をかけると、鈴は静かに振り返り、小さく頷いた。
背後から、玄理が歩み寄ってくる。
「俺と宗景たちは、後始末をしてから少し遅れて出発する。次の柱は『飢』だ。あの領域に入れば、まともな食い物は口に入らないと思え。油断するなよ」
「ああ、分かってる」
朔真は背中の山鉈を確かめるように触れた。
ただの木仕事の道具だった鉈が、今は数多の死者を解し、血を吸って重みを増している。
敵の倒し方は分かった。自分の弱さも、背負うべき罪の重さも知った。
そして、生き残って見送ってくれる友の背中もある。
「行くぞ、鈴」
「……うん」
少しだけ力を増した足取りで、朔真は次の地獄へと続く獣道へ踏み出した。
北の空には、薄暗い雲が渦を巻き始めている。




