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哭血の社(こくけつのやしろ)  作者: nonon


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あの夜を見た者

目を開けた時、最初に鼻へ入ったのは薬の匂いだった。

谷を下りてから、どれだけ運ばれたのかは覚えていない。

背中の骨ばった痛みと、乾いた血の引きつれだけが全身にへばりついている。

薄暗い板間。低い天井。鼓膜を打つのは、絶え間ない雨の音だった。どこか山中の仮の詰め所らしかった。


起き上がろうとすると、脇腹が鈍く軋んだ。

「起きたか」

戸口に玄理が立っていた。無精髭の影がいつもより濃い。肩にも泥が残っている。寝ていない顔だ。

「湊は」

喉が酷く掠れていた。血の匂いと泥の味を吐き出すように問う。

「隣だ。熱はない。寝かせてる」

玄理の答えに、朔真はわずかに安堵した。あの凄惨な谷底で、湊は限界を超えていた。

悲しみと怒りで動いていた彼の糸が、今どうなっているのかは分からない。

「鈴は」

玄理は少しだけ間を置いた。

「生きてる」

それだけだった。だが、それだけで十分でもあった。彼女が生きているということは、朝廷――有雅や宗景の管理下に置かれたという証明でもある。

玄理は顎で外を示す。

「宗景が呼んでる」

朔真は小さく頷き、軋む身体を引きずって戸口を出た。



聴き取りの場は、裏手にある小さな納屋だった。

火鉢の火が小さく赤い。濡れた木の匂いがする。

宗景はすでに座っていた。痩せた長身を少しも崩さず、ただ静かにこちらを見ている。

その視線の先に、鈴がいた。

両手首を前で縛られ、柱に寄らされている。

傷の手当てはされていた。肩に新しい布が巻かれている。だが顔色は悪い。いつもの薄い温度がさらに抜け、死人じみた白さだった。

朔真が入ると、一度だけこちらへ向き、すぐに逸れた。

宗景が口を開く。

「お前も実際に見て分かっただろうが、今後、敵の動きはさらに活発になる。哭代一族だけではない。朝廷を含めたすべてが敵だと思え。その上で、対策を打たねばならない」

声はいつも通り平坦で冷たかった。

「鈴と言ったな。貴様について聞きたいことがある」

鈴は小さく息を吐いた。

「答えられることなら」

「なぜ、哭代一族を裏切ってこちら側についた」

納屋の中に、少しの沈黙が落ちた。雨音がやけに大きく聞こえる。

「私は、あなたたちの仲間になったわけじゃない。ただ……私たちの一族が正しいことをしているとは、もう思えない。だから止めたい」

「貴様のように、一族に否定的な者は他にもいるのか」

「たぶん、いないと思う」

鈴はまっすぐ前を見たまま言った。

「あなたたちが言う神は、私たちの中では御喰様みくいさまと呼ばれている。誰もあれに疑問を持たないし、あれの言うことには絶対に従うよう、できている。たぶん、生まれた時から」

そこで一度、言葉を切る。彼女の視線が、ふと自分の縛られた手首へ落ちた。

「でも、私と令が一緒に生まれた時、私は半端なものとして生まれたらしい」

「半端?」

朔真が眉を寄せる。

「私たちは双子。でも、生まれる過程で令の方に、あれの意識みたいなものが強く根付いた。私はそれが浅い……って言われてたし、なんとなく私もそう思ってた」

令の冷酷な瞳を思い出し、朔真の奥歯が鳴る。

火鉢の火が、小さく鳴る。

「私たち哭代は、死を再利用して作られる写し子と同じ。ただの兵隊。でも、今までの生き方は一族に教わったものだったから、私たちのやってることに違和感はなかった。初めて外の任務に出るまでは」

朔真の肩が、わずかに強張る。

「その時、一つの村を襲った。そこで、母親が自分を犠牲にしてでも娘を守ろうとしていた」

朔真の背筋が、ぞわりと粟立った。

「私たち一族は、命を取ることも、取られることも当然みたいに教えられてる。家族でも同じ。何かあれば、親が子を殺すことに躊躇しないし、逆も同じ」

鈴は伏せず、続けた。

「でも、あの時の母親は違った。娘だけでも逃がしてくれって懇願してた。少なくとも、私たちの一族なら、ああはならない。自分より先に、誰かを守ろうとするなんて」

納屋の空気が、急に狭くなった。

火鉢の赤が滲む。濡れた木の匂いが遠のいて、代わりに、あの夜の血の匂いだけが鼻の奥に戻ってきた。

それは、家族が殺された血の匂いだけではない。

――あの親子を守るために、自分が討滅隊士の肉を断ち切り、生あたたかい血を浴びたあの夜の記憶だ。

「おい」

朔真が、低く言った。

「それは、いつ頃の話だ」

「三か月くらい前」

「その母親は、花の刺繍のある赤い着物を着ていたか」

鈴は少しだけ天井を見上げ、記憶を辿るようにしてから、朔真を見た。

「……そうね。着ていたわ」

言い終えるより早く、朔真は床を蹴っていた。

殺してやりたかった。この手で、今すぐ。

だが、あと少しで手が届くというところで、玄理に力づくで押さえつけられる。

「やめろ」

静かで、冷たい声だった。

「ふざけるな! それは俺の家族だ! 黙ってられるかよ! てめぇが……てめぇが殺したのか、俺の家族を!」

喉から血が出るほどの怒声だった。だが、鈴は驚いた顔をしなかった。

彼女は朔真を見て、ただ少しだけ納得したように言った。

「……そう。あの村の生き残りだったのね」

その静かさが、朔真の怒りにさらに油を注ぐ。

「あなたの親子を殺したのは令。私は追い詰めた。でも、どうしてもとどめを刺せなかった」

玄理の手に、わずかに力が籠もる。

「でも…令が親子を斬った時、初めて思った。怖いって。ひどいって」

その瞬間、朔真の中で何かがぶつりと切れた。

「怖い、だと……?」

吐き捨てる声が震えていた。

「お前が、それを言うのか? ……殺される直前の、俺の家族がどれだけお前らを怖がったか、分かってんのか!」

叫びながら、朔真の脳裏には別の光景もフラッシュバックしていた。

自分が背後から斬り捨てた、顔も知らない討滅隊の男の痙攣する背中。

母と妹を守るためとはいえ、自分もまた「人間」を殺したのだ。

その罪の重さ、手のひらにこびりついた感触が、目の前の鈴への怒りをいっそう泥沼のように濁らせていく。

「お前が怖いなんて思う資格、ねぇんだよ!」

そこで初めて、鈴の声が荒れた。

「私だって……私だって、分からなかった!」

納屋の空気が張りつめる。

あの感情の抜け落ちたような鈴が、初めて人間らしい叫びを上げた。

「だからあの時、母親と子どもが飛び出してきた時、自分の気持ちを確かめたかった。

あの親子が斬られないように立ち回った。

あなたが朝廷側の人間を斬って、親子が助かるかもしれないと思った時――」

鈴は震える唇を強く噛み、続ける。

「初めて、助かってほしいと思った。これで怖い思いをしなくて済むって。これで生きられるって。そう思った」

声が、わずかに震えた。

「でも、また令が殺した。守れたと思ったのに」

朔真の呼吸が荒い。

怒鳴り返したいのに、喉の奥で言葉が焼ける。

鈴の言葉を否定したところで、母が死に、小春が死んだ事実は何一つ変わらない。

だからこそ余計に、腹の底が煮えた。

彼女が同情しようがしまいが、自分は家族を守れず、他人の命まで奪ったという事実は消えないのだ。

「今更なのは分かってる」

鈴はまっすぐ朔真を見た。

「でも、命を知ってしまったから、もう無差別に人を殺すことはできない。だから私は戦いたい。一族を止めたい」

まっすぐすぎる目だった。

赦しを乞う目ではない。

理解を求める目でもない。

ただ、自分の道を決めた覚悟がある目だった。


朔真はその視線を睨み返したまま、やがて怒りを、そして自分自身への嘔吐感を押し殺すように、深く、重い息を吐いた。

「……玄理。もういい。大丈夫」

玄理は少しだけ間を置いてから、押さえつけていた腕の力を緩め、朔真を解放した。

ほんの数十分のはずだった。

なのに、朝が明けるのではないかと思うほど、長く重たい時間だった。納屋の中には、ただ火鉢の炭が弾ける音と、冷たい雨音だけが残されている。

その束の間を断ち切るように、宗景が口を開く。

「そうか」

それだけ言って、一度深く息を吐く。

彼にとって、目の前で繰り広げられた感情のぶつかり合いなど、路傍の石ほどの価値もないのだろう。

理由そのものより、鈴がどこまで神と一族に刃を向けられるかを測っているだけの、底冷えのする顔だった。

宗景は感情の一切乗らない声で、淡々と告げた。

「さて、次の質問だ」


いつも読んでいただきありがとうございます!

nononです!


楽しんでいただけてますでしょうか。

今度とも暖かく見てくれると嬉しいです!


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