あの夜を見た者
目を開けた時、最初に鼻へ入ったのは薬の匂いだった。
谷を下りてから、どれだけ運ばれたのかは覚えていない。
背中の骨ばった痛みと、乾いた血の引きつれだけが全身にへばりついている。
薄暗い板間。低い天井。鼓膜を打つのは、絶え間ない雨の音だった。どこか山中の仮の詰め所らしかった。
起き上がろうとすると、脇腹が鈍く軋んだ。
「起きたか」
戸口に玄理が立っていた。無精髭の影がいつもより濃い。肩にも泥が残っている。寝ていない顔だ。
「湊は」
喉が酷く掠れていた。血の匂いと泥の味を吐き出すように問う。
「隣だ。熱はない。寝かせてる」
玄理の答えに、朔真はわずかに安堵した。あの凄惨な谷底で、湊は限界を超えていた。
悲しみと怒りで動いていた彼の糸が、今どうなっているのかは分からない。
「鈴は」
玄理は少しだけ間を置いた。
「生きてる」
それだけだった。だが、それだけで十分でもあった。彼女が生きているということは、朝廷――有雅や宗景の管理下に置かれたという証明でもある。
玄理は顎で外を示す。
「宗景が呼んでる」
朔真は小さく頷き、軋む身体を引きずって戸口を出た。
◇
聴き取りの場は、裏手にある小さな納屋だった。
火鉢の火が小さく赤い。濡れた木の匂いがする。
宗景はすでに座っていた。痩せた長身を少しも崩さず、ただ静かにこちらを見ている。
その視線の先に、鈴がいた。
両手首を前で縛られ、柱に寄らされている。
傷の手当てはされていた。肩に新しい布が巻かれている。だが顔色は悪い。いつもの薄い温度がさらに抜け、死人じみた白さだった。
朔真が入ると、一度だけこちらへ向き、すぐに逸れた。
宗景が口を開く。
「お前も実際に見て分かっただろうが、今後、敵の動きはさらに活発になる。哭代一族だけではない。朝廷を含めたすべてが敵だと思え。その上で、対策を打たねばならない」
声はいつも通り平坦で冷たかった。
「鈴と言ったな。貴様について聞きたいことがある」
鈴は小さく息を吐いた。
「答えられることなら」
「なぜ、哭代一族を裏切ってこちら側についた」
納屋の中に、少しの沈黙が落ちた。雨音がやけに大きく聞こえる。
「私は、あなたたちの仲間になったわけじゃない。ただ……私たちの一族が正しいことをしているとは、もう思えない。だから止めたい」
「貴様のように、一族に否定的な者は他にもいるのか」
「たぶん、いないと思う」
鈴はまっすぐ前を見たまま言った。
「あなたたちが言う神は、私たちの中では御喰様と呼ばれている。誰もあれに疑問を持たないし、あれの言うことには絶対に従うよう、できている。たぶん、生まれた時から」
そこで一度、言葉を切る。彼女の視線が、ふと自分の縛られた手首へ落ちた。
「でも、私と令が一緒に生まれた時、私は半端なものとして生まれたらしい」
「半端?」
朔真が眉を寄せる。
「私たちは双子。でも、生まれる過程で令の方に、あれの意識みたいなものが強く根付いた。私はそれが浅い……って言われてたし、なんとなく私もそう思ってた」
令の冷酷な瞳を思い出し、朔真の奥歯が鳴る。
火鉢の火が、小さく鳴る。
「私たち哭代は、死を再利用して作られる写し子と同じ。ただの兵隊。でも、今までの生き方は一族に教わったものだったから、私たちのやってることに違和感はなかった。初めて外の任務に出るまでは」
朔真の肩が、わずかに強張る。
「その時、一つの村を襲った。そこで、母親が自分を犠牲にしてでも娘を守ろうとしていた」
朔真の背筋が、ぞわりと粟立った。
「私たち一族は、命を取ることも、取られることも当然みたいに教えられてる。家族でも同じ。何かあれば、親が子を殺すことに躊躇しないし、逆も同じ」
鈴は伏せず、続けた。
「でも、あの時の母親は違った。娘だけでも逃がしてくれって懇願してた。少なくとも、私たちの一族なら、ああはならない。自分より先に、誰かを守ろうとするなんて」
納屋の空気が、急に狭くなった。
火鉢の赤が滲む。濡れた木の匂いが遠のいて、代わりに、あの夜の血の匂いだけが鼻の奥に戻ってきた。
それは、家族が殺された血の匂いだけではない。
――あの親子を守るために、自分が討滅隊士の肉を断ち切り、生あたたかい血を浴びたあの夜の記憶だ。
「おい」
朔真が、低く言った。
「それは、いつ頃の話だ」
「三か月くらい前」
「その母親は、花の刺繍のある赤い着物を着ていたか」
鈴は少しだけ天井を見上げ、記憶を辿るようにしてから、朔真を見た。
「……そうね。着ていたわ」
言い終えるより早く、朔真は床を蹴っていた。
殺してやりたかった。この手で、今すぐ。
だが、あと少しで手が届くというところで、玄理に力づくで押さえつけられる。
「やめろ」
静かで、冷たい声だった。
「ふざけるな! それは俺の家族だ! 黙ってられるかよ! てめぇが……てめぇが殺したのか、俺の家族を!」
喉から血が出るほどの怒声だった。だが、鈴は驚いた顔をしなかった。
彼女は朔真を見て、ただ少しだけ納得したように言った。
「……そう。あの村の生き残りだったのね」
その静かさが、朔真の怒りにさらに油を注ぐ。
「あなたの親子を殺したのは令。私は追い詰めた。でも、どうしてもとどめを刺せなかった」
玄理の手に、わずかに力が籠もる。
「でも…令が親子を斬った時、初めて思った。怖いって。ひどいって」
その瞬間、朔真の中で何かがぶつりと切れた。
「怖い、だと……?」
吐き捨てる声が震えていた。
「お前が、それを言うのか? ……殺される直前の、俺の家族がどれだけお前らを怖がったか、分かってんのか!」
叫びながら、朔真の脳裏には別の光景もフラッシュバックしていた。
自分が背後から斬り捨てた、顔も知らない討滅隊の男の痙攣する背中。
母と妹を守るためとはいえ、自分もまた「人間」を殺したのだ。
その罪の重さ、手のひらにこびりついた感触が、目の前の鈴への怒りをいっそう泥沼のように濁らせていく。
「お前が怖いなんて思う資格、ねぇんだよ!」
そこで初めて、鈴の声が荒れた。
「私だって……私だって、分からなかった!」
納屋の空気が張りつめる。
あの感情の抜け落ちたような鈴が、初めて人間らしい叫びを上げた。
「だからあの時、母親と子どもが飛び出してきた時、自分の気持ちを確かめたかった。
あの親子が斬られないように立ち回った。
あなたが朝廷側の人間を斬って、親子が助かるかもしれないと思った時――」
鈴は震える唇を強く噛み、続ける。
「初めて、助かってほしいと思った。これで怖い思いをしなくて済むって。これで生きられるって。そう思った」
声が、わずかに震えた。
「でも、また令が殺した。守れたと思ったのに」
朔真の呼吸が荒い。
怒鳴り返したいのに、喉の奥で言葉が焼ける。
鈴の言葉を否定したところで、母が死に、小春が死んだ事実は何一つ変わらない。
だからこそ余計に、腹の底が煮えた。
彼女が同情しようがしまいが、自分は家族を守れず、他人の命まで奪ったという事実は消えないのだ。
「今更なのは分かってる」
鈴はまっすぐ朔真を見た。
「でも、命を知ってしまったから、もう無差別に人を殺すことはできない。だから私は戦いたい。一族を止めたい」
まっすぐすぎる目だった。
赦しを乞う目ではない。
理解を求める目でもない。
ただ、自分の道を決めた覚悟がある目だった。
朔真はその視線を睨み返したまま、やがて怒りを、そして自分自身への嘔吐感を押し殺すように、深く、重い息を吐いた。
「……玄理。もういい。大丈夫」
玄理は少しだけ間を置いてから、押さえつけていた腕の力を緩め、朔真を解放した。
ほんの数十分のはずだった。
なのに、朝が明けるのではないかと思うほど、長く重たい時間だった。納屋の中には、ただ火鉢の炭が弾ける音と、冷たい雨音だけが残されている。
その束の間を断ち切るように、宗景が口を開く。
「そうか」
それだけ言って、一度深く息を吐く。
彼にとって、目の前で繰り広げられた感情のぶつかり合いなど、路傍の石ほどの価値もないのだろう。
理由そのものより、鈴がどこまで神と一族に刃を向けられるかを測っているだけの、底冷えのする顔だった。
宗景は感情の一切乗らない声で、淡々と告げた。
「さて、次の質問だ」
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