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忌み名のトンネル 5

5 名もなき傍白


 眩い朝の光が、旧・鳴神トンネルの入り口を照らし出していた。


 湿った夜の気配はすでに薄れ、山の空気はどこまでも澄んでいる。

 小鳥の鳴き声が遠くで響き、ここがただの山道の一部であるかのような錯覚を与えていた。


 無機質な鉄柵は、何年も前から変わらぬ様子で固く閉じられている。

 錆びた鎖は重く垂れ、誰かが触れた形跡すらない。


 昨夜、この場所で何が起きたのか。


 それを証明するものは、何ひとつ残されていなかった。


 警察による懸命な捜索の末、トンネル付近の茂みで一人の女子大生が発見された。


 昏睡状態のまま倒れていた彼女は、救急隊に担ぎ上げられるその時まで、自分の腕を強く抱きしめていたという。


 その唇は、かすかに動いていた。


「名前を……返して……」


 意味を持たないはずのその言葉が、妙に耳に残ったと、後に隊員は語った。


 同行していたはずの二人の男子学生は、依然として行方不明のままだった。


 痕跡はない。

 争った形跡もない。


 ただ、消えた。


 まるで最初から存在していなかったかのように。




 それから、三ヶ月が過ぎた。


 真由は、大学へと復学していた。


 日常は戻ってきたはずだった。

 講義を受け、友人と会話を交わし、当たり前の時間を過ごす。


 だが、その内側には、大きな欠落があった。


 あの夜の記憶だけが、ぽっかりと抜け落ちている。


 まるで、誰かに丁寧に切り取られたかのように。


「ねえ、真由。今日、サークルの飲み会来るでしょ?」


 友人の明るい声。


 真由は顔を上げ、わずかに笑った。


「……ごめん。今日は、ちょっと寄るところがあって」


 その笑みは、どこか曖昧だった。


 彼女の手元には、一冊の古いアルバムがある。


 何度も見返しているはずなのに、ページをめくるたびに、胸の奥がざわつく。


 そこには、自分と一緒に笑っている二人の男の姿が写っていた。


 一人は大輔。

 派手なTシャツを着て、無邪気に笑っている。


 だが。


 もう一人の男。


 その顔だけが、思い出せない。


 写真のその部分は、強い光に焼かれたように白く飛んでいる。

 輪郭すら曖昧で、視線を向けても、焦点が合わない。


 どんな声だったのか。

 どんなふうに笑っていたのか。


 そして、何という名前で呼ばれていたのか。


 何ひとつ、思い出せない。


「……誰だったっけ」


 ぽつりと呟く。


「すごく、大切な人だった気がするのに……」


 理由のわからない感情だけが、胸の奥に残っている。


 真由の頬を、一筋の涙が伝った。


 自分でも気づかないうちに、指が腕に触れる。


 そこには、薄い痣のようなものが残っていた。


 それは偶然についた傷ではない。


 何かを、必死に刻み込もうとした跡。


 文字の残骸のようにも見える。


 しかし、それが何を意味していたのか、彼女にはもう分からない。




 一方、あの山奥の旧道では、奇妙な噂が流れ始めていた。


 封鎖されたトンネルの近くに、「顔のない男」が現れるという。


 男は誰かを襲うわけではない。


 ただ、道行く車の前にふらりと現れては、消え入りそうな声で問いかける。


「……すみません。僕の名前を、知りませんか?」


 その声は、どこか幼く、どこか必死だったという。


 ある雨の夜。


 一台のトラックが、その旧道で急ブレーキをかけた。


 視界を横切った影。


 轢きそうになった何か。


 タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく揺れる。


 運転手は慌てて車を降りた。


 雨粒が強く地面を打ち、世界を白く霞ませている。


 そこに、一人の男が立っていた。


 レインコートを着た、若い男。


 ただし。


 その顔には。


 何もなかった。


 目も、鼻も、口も存在しない。


 滑らかな皮膚の上に、無数の文字が浮かんでは消えていく。


「……僕は、和馬」

「……僕は、大輔」

「……僕は、佐藤」

「……僕は……」


 声が重なる。


 一つではない。


 何百もの声が、同時に響いている。


 男の身体の内側に、無数の他人が詰め込まれているかのようだった。


「ひっ、化け物……!」


 運転手は叫び、逃げ去った。


 雨の中、男だけがその場に残る。


 やがて彼は、ゆっくりと歩き出した。


 霧の奥へ。


 どこへともなく。


 彼は、あの社を壊した時に溢れ出した、数万の名前を引き受けてしまった。


 名前を失った者たちの依代。


 その役目を背負わされている。


 他人の人生を内側に抱えたまま、終わることなく彷徨い続ける存在。


 その手の平には、一文字だけが残っていた。


 血のように濃い色で刻まれた文字。


 『真』。


 それだけが、かつて彼が一人の人間であった証だった。


 だが。


 今の彼には、それが何を意味するのか分からない。


 意味も、記憶も、名前も。


 すべてが失われている。


「……ま、ゆ……?」。


 不確かな音が、口のない顔から零れる。


 その瞬間。


 周囲の木々がざわめいた。


 風もないのに、枯れ葉が一斉に舞い落ちる。


 それは、失われた記憶への供花のようでもあり。


 あるいは、新たな怪異の産声のようでもあった。


 旧・鳴神トンネルの入り口には、今日も一枚の紙が貼られている。


 誰が貼ったのかは、誰も知らない。


 そこには、新しい「名前」が記されている。


 黒いインクで、はっきりと。


 静かに、確かに。


 呪いは終わらない。


 名前という呪縛を欲する者がいる限り。


 忌み名のトンネルは、次の供物を待ち続ける。


 闇の奥で、音もなく。

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