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忌み名のトンネル 4

4 朱に染まる名簿


「……ダメだ、思い出せない」


 指先を噛み切り、滲み出した鮮血を紙に押し当てようとして、和馬は絶叫に近い声を上げた。

 喉の奥が焼けつくように熱い。

 呼吸は浅く、肺がうまく空気を取り込めない。


 真由。

 大好きな彼女の名前。


 何度も呼んだはずの音。

 何度も見つめたはずの文字。


 それなのに。


 脳裏に浮かべようとした瞬間、それは霧のように拡散していく。

 形を保てないまま、崩れ、散り、消えていく。


 漢字の書き順どころではない。

 その名前が指し示していた「彼女」という存在そのものが、輪郭を失い始めていた。


 まるで砂の城が、波にさらわれるように。


 背後で、あの怪物が動いた。


 カチリ、と鋏が鳴る。


 その金属音は、空洞全体に不気味に反響し、耳の奥に直接刺さるような不快さを伴って広がった。

 神経を一本一本撫で上げられるような、耐え難い音だった。


「和馬くん、早く……私の名前を……」


 真由の声が、か細く震える。


 振り向けば、彼女の身体に貼られた「空白の紙」が、じわりと色を変えていた。

 白だったはずの紙が、内側から滲むように黒く染まっていく。


 それはまるで、彼女という存在が溶かされ、吸い上げられていく過程そのものだった。


 この場所に、喰われている。


 和馬は、自分の胸元へと視線を落とした。


 そこにあったはずの「名前」は、すでに剥がれ落ちている。

 地面に転がる紙切れ。


 それは、もはや自分のものには見えなかった。

 どこかの誰かの、忘れられた遺留品のようにしか思えない。


「……そうだ」


 掠れた声が、無意識に漏れる。


「僕が誰かなんて、どうでもいい」


 言葉にした瞬間、胸の奥に奇妙な静けさが広がった。


 恐怖ではない。

 諦めでもない。


 ただ、空白。


「今は……彼女を……」


 和馬は目を閉じた。


 残された記憶を、必死に掻き集める。


 大学の講堂。

 初めて会った日の光景。


 少し苦すぎたコーヒー。

 顔をしかめながら、それでも笑った彼女。


 右の目尻が、ほんの少しだけ下がる癖。

 その仕草が、なぜか忘れられなかったこと。


 そのすべてを。


 名前という形に、凝縮する。


 記憶が、血へと変わる。


 指先から滴る赤が、脈打つように熱を帯びた。


 和馬は、それを白紙へ叩きつける。


『真由』


 歪で、不格好な二文字。

 しかし、それは確かに彼女を指し示していた。


 書き終えた瞬間。


 空間が、わずかに軋んだ。


 真由の身体を覆っていた黒い染みが、一気に引いていく。

 紙は白さを取り戻し、皮膚の下に血の色が戻る。


「あ……和馬くん……!」


 彼女の瞳に、光が戻った。


 だが。


 その代償は、即座に訪れた。


 和馬の頭の奥で、何かが焼き切れる。


 音もなく、しかし確実に。


 幼い頃の記憶が、消えた。


 自分がどこで生まれたのか。

 誰に育てられたのか。


 名前に込められた意味。

 その一文字一文字に託された願い。


 それらすべてが、跡形もなく消失する。


 残ったのは、空白だけだった。


「ギシャアアアア!」


 怪物が絶叫した。


 怒りに満ちたその声は、空洞を震わせ、空気そのものを歪ませる。


 長い首が大きくしなり、鋏が振り上げられる。


「来るな!」


 和馬は叫び、真由を突き飛ばした。


 その勢いのまま、社から溢れ出ていた「白い手」の一本を掴み取る。


 軽い。


 驚くほどに。


 だが、その瞬間。


 流れ込んできた。


 無数の声。

 無数の感情。


 名乗れなかった者たちの、途切れた人生の断片。


 暗闇の中で終わった時間。

 呼ばれることのなかった名前。


 それらが一気に、和馬の中へと雪崩れ込んでくる。


「……これか」


 息を詰まらせながら、呟く。


「これが、お前たちの正体か……!」


 この社は墓標だった。


 名前を失った者たちの。


 事故で命を落とし、誰にも知られず、記録にも残らなかった人々。

 彼らは「存在した証」を求めて、ここに留まり続けている。


 そして、生きている者から名前を奪うことで、自らを繋ぎ止めている。


 和馬は、白い手を強く握りしめた。


「返せ!」


 叫ぶ。


「みんなの名前を、全部返せ!」


 そのまま、社の奥へと突き刺す。


 次の瞬間。


 内部で、何かが砕けた。


 それは、巨大な容器が破裂したような音だった。


 ドロリ、とした黒い液体が、扉の奥から溢れ出す。


 波のように押し寄せるそれは、地面を覆い、壁を伝い、すべてを飲み込んでいく。


 液体に触れた紙片が、一斉に震えた。


 そして。


 叫び出した。


「佐藤!」

「田中!」

「美咲!」

「健一!」


 無数の名前。


 それは風となり、嵐となり、空洞を満たす。


 音の奔流が、怪物を襲った。


 細長い首が裂ける。

 紙と闇でできた肉体が、音に引き裂かれていく。


「和馬くん、逃げて! 床が!」


 真由の悲鳴。


 我に返る。


 足元の石畳が、溶けていた。


 黒い液体が、底なしの沼を作り出している。


 和馬は真由の手を掴む。


 だが。


 感覚がない。


 指先が、自分のものではないように鈍い。


「真由……君は、先に……」


 声が遠い。


 自分のものではないように響く。


「何を言ってるの! 一緒に帰るって言ったじゃない!」


 真由が必死に引き上げようとする。


 しかし、和馬の足元には絡みついていた。


 無数の「名前」が。


 剥がされ、捨てられ、行き場を失ったものたちが、重しのように彼を引きずり込む。


「……僕は、もう……」


 言葉が途切れる。


「自分が誰か、分からないんだ」


 その顔から、輪郭が消え始めていた。


 目も。

 鼻も。


 ゆっくりと失われていく。


 のっぺらぼうのような滑らかな皮膚が、広がっていく。


 それでも。


 和馬は、最後の力を振り絞った。


 真由を、突き飛ばす。


 出口の方向へ。


「和馬くん!!」


 叫び声が、遠ざかる。


 背後で、社が崩壊した。


 黒い渦がすべてを飲み込み、空洞を呑み込んでいく。


 和馬は沈みながら、最後に一度、自分を見た。


 そこにあったはずの名前。


 もう、何も残っていない。


 文字は一つも。


 存在の証も。


 ただ、空白だけが、そこにあった。

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