忌み名のトンネル 3
3 剥落する記憶
「……シィーッ。名前を呼んではいけないよ、和馬くん」。
耳元で囁く声は、間違いなく真由のものだった。
しかし、目の前に立つそれは、人間の形を辛うじて保っているだけの「何か」だった。
真由の顔。
その皮一枚だけが、黒く不定形に蠢く肉塊に引き伸ばされ、「お面」のように貼り付けられている。
首は異様に長く、節のない骨のようにしなりながら、蛇のようにうねって和馬の目前へと迫ってくる。
その距離は、吐息がかかるほど近かった。
腐った紙と湿った土の匂いが、鼻腔の奥にまとわりつく。
「う、うわぁぁぁ!」
和馬は反射的に叫び、手にしていた懐中電灯を振り上げた。
恐怖に突き動かされた力のまま、それを怪物の顔面へと叩きつける。
メキリ、と湿った破裂音が響いた。
真由の顔が、裂けるように半分剥がれ落ちる。
その下から覗いたものは、皮膚でも肉でもなかった。
目も、鼻も、存在しない。
ただ、無数の「名前の紙」が幾層にも重なり合い、空洞の眼窩を形成していた。
紙と紙の隙間から、暗い闇がじっとこちらを覗いている。
怪物は低く軋むような声を上げ、首をくねらせながら後退した。
闇へと逃げるその動きは、あまりにも軽く、そして生き物のそれではなかった。
剥がれ落ちた顔の皮が、ひらひらと宙を舞う。
それは蝶の羽のように頼りなく、ゆっくりと地面に落ちた。
和馬は震える手で、それを拾い上げる。
冷たい。
血の通わない、人工物のような温度。
だが、指先に伝わる感触だけは、確かに人間の皮膚だった。
柔らかさも、微かな凹凸も、すべてが「本物」だった。
「真由……お前、どこにいるんだ……」
声が掠れる。
喉が乾き、うまく言葉が出ない。
それでも和馬は顔を上げ、怪物が消えた闇を睨みつけた。
ここで立ち止まれば、すべてが終わる。
奥へ進まなければならない。
右側の通路へと足を踏み入れる。
道はすぐに傾斜を増し、急な下り坂となった。
足元はぬめり、靴底が何度も滑る。
壁の岩肌からは、黒い粘液が絶え間なく滲み出していた。
それは水ではない。
どろりと粘り気を帯び、光を吸い込むような鈍い黒だった。
ぽたり、ぽたり、と滴る音が、やけに大きく響く。
やがて、視界が開けた。
そこには、巨大な空洞が広がっていた。
トンネルの建設途中で放棄されたのだろうか。
天井は高く、暗闇に溶けて見えない。
その中心に、それはあった。
古びた木の柵に囲まれた、小さな石造りの社。
「名剥の社……」
思わず、呟く。
周囲の壁には、びっしりと紙が貼られている。
数えきれないほどの「名前」。
古いもの、新しいもの、滲んだもの、削られたもの。
それらは無秩序に重なり合い、狂った曼荼羅のように空間を埋め尽くしていた。
見ているだけで、意識が引きずり込まれそうになる。
そして、その社の前に.一人の少女が、うずくまっていた。
「真由!?」
和馬は思わず駆け寄る。
少女はゆっくりと顔を上げた。
そこには、確かに「顔」があった。
見慣れた、あの表情。
安堵が、全身を駆け巡る。
「和馬くん……よかった。やっと来てくれたんだね」
真由は、弱々しく微笑んだ。
しかし。
その手足に目を向けた瞬間、和馬の呼吸は止まった。
無数の「空白の紙」が、皮膚に貼り付けられている。
それはまるで、何かを書き込まれるのを待つ、白紙の名札のようだった。
「ねえ、和馬くん。私のこと、好き?」
唐突な問い。
その声音は、あまりにも穏やかで、あまりにも普通だった。
「え……ああ、好きだよ。だから助けに来たんだ。行こう、大輔も探して……」
言いながら、胸の奥に微かな違和感が走る。
「ありがとう。でもね、もう遅いの」
真由はゆっくりと首を振った。
「私の『名前』、半分以上、あの子に食べられちゃったから」
真由は右腕を持ち上げる。
そこには、『真』という一文字だけが、かろうじて残っていた。
インクは薄く、今にも消えそうだった。
「ここはね、名前を剥ぎ取る場所なの。名前を失うと、記憶が消えるの」
静かな声。
「自分が誰だったか、わからなくなって……最後には、あの壁の一部になるの」
真由の瞳から、涙が零れる。
それは透明ではなかった。
黒いインクのように濁り、頬を汚しながら滴り落ちる。
「和馬くん。私の名字、何だっけ……?」
その問いに、和馬の思考が止まった。
「何を言ってるんだ、真由は真由だろ……ええと……」
言葉が続かない。
知っている。
何度も呼んだ。
それなのに。
脳の奥にあるはずの記憶が、何かに封じられている。
重い蓋で閉じられたように、取り出せない。
「……サエ……キ……?」
自分の口から漏れた名前。
その瞬間。
胸元に貼られていた紙が、音もなく剥がれ落ちた。
パサリ、と乾いた音。
「ダメだよ、和馬くん」
真由が、静かに言う。
「名前を口に出しちゃダメ。ここは『忌み名』のトンネルだから」
背後で、社が低く唸る。
ゴトリ、と重い音が響いた。
石の扉が、ゆっくりと開く。
その隙間から、無数の「手」が溢れ出した。
真っ白な手。
どれも同じ形をしている。
ペンや筆を握るように指を曲げ、空中に見えない文字を書き続けている。
さらさら、と音がする。
何もないはずの空間に、名前が刻まれているかのようだった。
「……和馬くん」
真由が、紙を差し出す。
「私の名前を、書き直して。そうじゃないと、私、消えちゃう」
和馬は、指を口に運んだ。
躊躇いはなかった。
歯を立てる。
皮膚が裂け、血が滲む。
赤い液体が、ぽたりと落ちた。
それをインク代わりに、紙へ指を伸ばす。
その瞬間。
違和感が、全身を貫いた。
真由の足元に落ちる影。
それが、二つあった。
一つは、彼女自身のもの。
もう一つは、ゆっくりと、背後の闇から伸びている。
和馬は息を呑み、視線を上げた。
そこにいた。
首の長い怪物が、音もなく真由の背後に立っている。
その体は闇と同化し、境界が曖昧だった。
そして、その手には。
巨大な鋏が握られていた。
鈍く光る刃。
それは物質を断つためのものではない。
魂から「名前」を切り離すための、呪われた刃だった。




