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忌み名のトンネル 2

2 呼び声の主


 ガシャン、という無機質な金属音が、静まり返ったトンネルの内部に幾重にも反響した。


 音は壁にぶつかり、天井に弾かれ、何度も何度も繰り返される。

 まるで、ここが閉じられた空間であることを執拗に思い知らせるかのように。


 佐伯和馬は、弾かれたように振り返った。


 手にしていた懐中電灯の弱々しい光が、トンネルの入口をぼんやりと照らし出す。


 そこにあったはずの「逃げ道」は、もう存在していなかった。


 重厚な鉄柵。

 そして、それを縛り上げるように幾重にも巻き付けられた太い鎖。


 つい数分前まで、確かに開いていたはずのそれは、まるで最初から閉じられていたかのように、完全に動きを失っていた。


 誰かが閉めたのではない。

 閉じることそのものが「決まっていた」かのような、不気味な確定性がそこにあった。


「大輔! 真由!」


 和馬は叫んだ。


「冗談だろ、返事をしてくれ!」


 声は闇に吸い込まれ、どこにも届かない。


 返ってくるのは、自分の荒い呼吸と、胸を叩き続ける鼓動。

 そして、どこからともなく響く、水滴の音だけだった。


 ぽたり。

 ぽたり。


 規則的なのに、不規則に感じる。

 耳に残るたびに、時間の感覚が狂っていく。


 和馬はふと、自分の指先に痛みを感じた。


 ライターの火が、まだ灯ったままだったのだ。


「っ……!」


 慌てて火を消す。


 暗闇が一瞬、さらに濃くなった気がした。


 すぐに足元へ手を伸ばし、地面に転がっていた懐中電灯を拾い上げる。


 大輔のものだ。


 レンズはひび割れ、内部の電球が接触不良を起こしているのか、光は不規則に明滅している。


 点いては消え、消えては点く。


 その不安定な光が、トンネルの壁を断続的に浮かび上がらせた。


 ――そこに、あった。


 無数の紙片。


 壁一面に、隙間なく貼り付けられている。


 古びて茶色く変色した和紙。

 ノートから無造作に破られたような紙。

 レシートの裏に書かれたもの。


 材質も年代もバラバラ。


 だが、共通していることが一つだけあった。


 すべてに、「名前」が書かれている。


 びっしりと。

 狂気じみた筆致で。


 和馬は、自分の足元に落ちていた紙を見つめた。


 それは、さっき見たばかりのものだった。


 震える手で拾い上げる。


 紙の繊維が指にざらつく。


 インクは、まだ乾いていなかった。


 触れた指先に、黒い跡がにじむ。


「……いつの間に、こんなものを……」


 呟いた声が、自分のものとは思えないほどかすれていた。


 筆跡は自分のものではない。


 だが、その文字には、奇妙な現実感があった。


 ただの名前ではない。

 そこに書かれた瞬間、「佐伯和馬」という存在そのものが、この紙に固定されてしまったかのような感覚。


 目を逸らしたくなる。


 だが、逸らせない。


 見ているだけで、何かを奪われていく気がした。


 そのときだった。


 トンネルの奥から、かすかな声が届いた。


「……和馬くん……助けて……」


 真由の声だった。


 弱々しく、今にも消えそうな声。


 だが、確かに彼女のものだった。


「真由!」


 和馬は顔を上げた。


「今行く、そこを動くな!」


 恐怖を押し殺し、走り出す。


 逃げるという選択肢は、もう存在しない。

 出口は塞がれている。


 ならば、進むしかない。


 トンネルの奥へ。


 闇の中心へ。


 進むにつれて、周囲の様子が変わっていく。


 コンクリートの壁が、次第に崩れ始める。


 滑らかだった表面は、ざらついた土へと変わり。

 そこに、何かが混じっていることに気づく。


 骨だ。


 小動物のものではない。

 人間に近い形状をした骨片が、無造作に埋め込まれている。


 壁そのものが、何かを“混ぜて作られている”。


 吐き気が込み上げる。


 そのとき、足元がぬちゃりと音を立てた。


 嫌な感触。


 和馬は懐中電灯を下に向けた。


 そこには、衣服が散乱していた。


 ジーンズ。

 Tシャツ。

 スニーカー。


 どれも比較的新しい。


 だが、不自然だった。


 まるで、人間だけがその場で消え去り、中身だけが抜け落ちたような形で、服だけが残されている。


 袖や裾の形が、誰かが今さっきまで着ていたことを物語っている。


 その中に、見覚えのある柄があった。


 赤いチェックのシャツ。


「……これ……」


 喉がひどく乾く。


「大輔の……」


 間違いない。

 出発前、彼が得意げに見せびらかしていたお気に入りのシャツだ。


 その袖口から、透明な粘液が糸を引いている。


 まるで脱皮した抜け殻のように。


「大輔! いるんだろ!?」


 和馬が叫んだ、その直後。


 天井から、何かが落ちてきた。


 ドサリ、と重い音。


 反射的に身を引く。


 光を向ける。


 そこにいたのは――大輔だった。


 だが、それはもう“彼”ではなかった。


 全裸の身体。


 そして、その全身を覆う無数の紙。


 壁に貼られていたものと同じ「名前の紙」が、皮膚の上にびっしりと貼り付けられている。


 まるで、体そのものが紙で構成されているかのように。


「……カズ……マ……」


 大輔の口が動く。


 だが、瞳は白く濁り、焦点が合っていない。


「大輔、しっかりしろ!」


 和馬は思わず駆け寄った。


「何があったんだ。この紙を剥がして――」


 顔に貼られた紙へ手を伸ばす。


 その瞬間。


「やめろ!!」


 大輔が、異様な力で腕を振り払った。


 骨がきしむほどの衝撃。


 和馬はたたらを踏む。


 そして、ほんの一瞬、剥がれかけた紙の下を見てしまった。


 そこにあったのは、肉ではなかった。


 空洞。


 深い、底の見えない闇。


 中身が、ない。


 大輔という人間は、すでに失われている。


 無数の他人の「名前」だけが寄り集まり、かろうじて形を保っている。


「……ナマエ……タマシイ……オイテ……イケ……」


 声が重なる。


 一人ではない。


 老いた声。

 若い声。

 男。女。子供。


 何十もの声が同時に発せられている。


 それらすべてが、大輔の口から漏れている。


 和馬の背筋が凍りつく。


 次の瞬間。


 大輔の身体が、ぐにゃりと歪んだ。


 四足の獣のように床を蹴り、そのまま壁を駆け上がる。


 ありえない角度で天井へと張り付き、闇の中へと消えていった。


 音もなく。


 残されたのは、沈黙だけだった。


 和馬はその場に崩れ落ちた。


 呼吸がうまくできない。


 理解が追いつかない。


 ここにいるのは、霊ではない。


 もっと別のもの。


 名前を。

 存在を。

 集める何か。


 そのとき。


「……和馬くん……こっちだよ……」


 再び、真由の声。


 今度は、はっきりとした方向を持っていた。


 大輔が消えた闇の、さらに奥。


 トンネルが不自然に二つに分かれている。


 その右側から聞こえてくる。


 和馬はゆっくりと立ち上がった。


 逃げ場はない。


 ならば、進むしかない。


 真由を見つける。

 そして、この異常の中心を断つ。


 それしか、生き残る道はない。


 懐中電灯を握り直す。


 光が一瞬強くなり、また揺らぐ。


 その不安定な明かりを頼りに、右の通路へと足を踏み入れた。


 入口の脇に、石碑が立っていることに気づく。


 古び、ひび割れ、半ば崩れかけている。


 そこに刻まれた文字を、和馬は読み取った。


「……名剥の社……」


 口に出した瞬間だった。


 背後の壁から、無数の指が伸びた。


 冷たい感触が、口元を覆う。


 強引に、言葉を押し込める。


 息が詰まる。


「……シィーッ」


 耳元で、囁き。


「名前を呼んではいけないよ、和馬くん」


 その声は――真由だった。


 和馬はゆっくりと振り返る。


 そこにいたものを見て、思考が止まった。


 真由の顔。


 だが、それは“貼り付けられている”。


 仮面のように。


 その下から伸びるのは、異様に長い首。


 人間のものではない関節。


 ぬらりとした質感の体。


 それが、闇の中からこちらを見下ろしていた。

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