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忌み名のトンネル 1

1 誘いの地図


 その夜、大学生の佐伯和馬は、じっとりと肌にまとわりつくような夏の湿気の中にいた。

 アスファルトに残った昼間の熱気が、夜になっても逃げ場を失ったまま地面から立ち上り、息苦しさを増幅させている。

 そんな中で、彼は大学の友人である大輔と真由の三人で、地元でも有名な心霊スポットへと向かっていた。


 その名は、旧・鳴神トンネル。


 名前を口にするだけで、どこか喉の奥がざらつくような、不吉な響きを持っている場所だった。


 発端は、大輔が数日前に見つけてきた一枚の画像だった。


「見てくれよ、これ。普通の地図には載ってないんだけど、このトンネルの先には“地図から消された村”があるらしいんだ」


 大輔は、助手席越しに身を乗り出すようにしてスマートフォンの画面を差し出してきた。


「そこで自分の名前を書いた紙を燃やすと、願いが叶うっていう噂。やばくね?」


 画面には、まるで古い和紙のように黄ばんだ質感の地図が映し出されていた。

 現代の整然とした地図とはまるで違い、線は歪み、距離感も曖昧で、見る者の感覚を狂わせるような不気味さがある。


 山道を示す細い線の先。

 ぽつんと打たれた、黒い点。


 その横に、崩れかけた文字でこう記されていた。


 ――忌み名。


 その言葉を見た瞬間、和馬の胸の奥で何かがざわりと揺れた。

 理由のわからない不快感。

 言葉そのものが、意味を持つ前に“嫌なもの”として脳に届く感覚。


 だが、その違和感を口にすることはなかった。


 夏休み最後の夜。

 どこか浮ついた空気。

 そして何より、密かに想いを寄せている真由が、楽しそうに笑っていたからだ。


「面白そうじゃん。ちょっとくらい行ってみようよ」


 その一言で、和馬は引き返す理由を完全に失ってしまった。


 ――そして今に至る。


 山道へと入った瞬間、世界は一変した。


 麓の街灯が途切れた途端、車の外はまるで別の場所のように暗く沈み込んだ。

 光そのものが存在しないかのような、重たい闇。


 大輔の運転する軽自動車が、砂利道を跳ねながら進んでいく。

 タイヤが石を噛むたびに、車体が不規則に揺れる。


 ヘッドライトが照らし出すのは、異様にねじれた杉の木々。

 まるで何かから逃げようとして途中で固まったような、不自然な形をしている。


 時折、闇の奥で光る点。

 野生動物の目だろう。


 だが、その光はあまりにもじっとこちらを見すぎているように感じられた。


「ねえ、大輔。本当にこの道で合ってるの?」


 助手席の真由が、不安そうに窓の外を覗きながら言った。


「さっきから、同じ場所をぐるぐるしてる気がするんだけど……」


 和馬も、同じ違和感を覚えていた。

 似たような曲がり方の木。

 同じ位置に見える岩。

 まるで道そのものが閉じているような感覚。


「大丈夫だって」


 大輔は軽く笑い飛ばしたが、その声にはわずかな硬さが混じっていた。


「ナビはもう役に立たないけど、この地図通りに進めばいいんだよ。ほら――」


 そのときだった。


 前方の闇の中に、ぽっかりと“穴”が現れた。


 コンクリートがむき出しになった、巨大な口。

 周囲の闇よりもさらに濃い黒が、そこに凝縮している。


 旧・鳴神トンネル。


 かつて崩落事故が起き、多くの作業員が中に取り残されたままになったという噂が絶えない場所。

 本来ならば、頑丈な鉄柵で封鎖されているはずだった。


 だが――。


「……あれ、開いてる」


 真由が呟いた。


 鉄柵は確かに存在していた。

 しかしそれは内側から歪められたかのように、無理やりこじ開けられていた。


 人が通れるほどの隙間。


 まるで、誰かが“入るため”ではなく、“出てくるため”に開けたような形だった。


 車を降りた瞬間、空気が変わった。


 肌に触れる温度が、明らかに低い。

 湿り気を帯びた空気が、肺の奥に重く沈む。


 懐中電灯のスイッチを入れると、白い光が細く闇を切り裂いた。


 トンネルの内部は、静かすぎた。

 虫の声すら届かない。


 ただ、水滴が遠くで落ちる音だけが、ぽたり、ぽたりと響いている。


「……ねえ、これ見て」


 真由の声が、震えていた。


 光を向けた先。

 壁際に、誰かが置いたとしか思えない“供え物”があった。


 色褪せた花束。

 封の切られていないワンカップ。


 そして、その花束の中に混じる――白い髪の束。


 あまりにも不自然な白さ。

 人工物のように均一で、逆に生々しい。


「誰かの悪戯だろ」


 大輔が言う。


「こういうの、心霊スポットあるあるだって」


 だが、その声は明らかに乾いていた。


 三人は、無言のまま奥へと進んでいく。


 やがて、奇妙なことに気づいた。


 足音。


 自分たちの靴がコンクリートを打つ音。


 それに、ほんのわずかに遅れて――もう一つの足音が重なる。


 一歩。

 二歩。


 立ち止まる。


 音も止まる。


 振り返る。


 誰もいない。


 ただ、自分たちの影が、懐中電灯の光に引き伸ばされているだけ。


「……和馬、なんか聞こえない?」


 真由が、そっと腕を掴んできた。


 その手は、冷たく汗ばんでいた。


 和馬は耳を澄ませる。


 闇の奥から、何かが聞こえてくる。


 言葉のようで、言葉ではない。

 低く、擦れるような声。


 幾つもの声が重なり合い、一つの意味を形作っている。


『……ナマエ……ヲ……オイテ……イケ……』


 ぞくり、と背筋が粟立つ。


 言葉の意味が、頭の中に直接流れ込んでくる。


「大輔、もう戻ろう」


 和馬ははっきりと言った。


「これは、良くない」


 その瞬間だった。


 ぱちん、と音を立てるようにして、三人の懐中電灯が同時に消えた。


 完全な暗闇。


 視界が、消える。


「おい! ライトどうした!?」


 大輔の声が響く。


 だが、その声は――遠ざかっていた。


 さっきまで隣にいたはずなのに。


「大輔!? どこに行くんだ!」


 和馬は手を伸ばす。


 何も触れない。


「和馬くん、助けて!」


 真由の悲鳴が、今度は反対側から聞こえた。


「誰かに引っ張られてる!」


 方向がわからない。

 距離もわからない。


 闇の中で、空間そのものが歪んでいる。


 和馬は必死に手を伸ばした。


 何かを掴む。


 だが、それは真由の手ではなかった。


 冷たい。

 硬い。


 生き物の温度がない。


 そして――指。


 細く、異様に長い指が、何本も絡みついていた。


 人間のものではない長さ。


 それが、和馬の手首を締め上げる。


 ぎり、と骨が軋む。


 そのまま、闇の奥へと引きずり込もうとする。


「離せ!」


 和馬は叫び、ポケットを探る。


 指先に触れたのは、小さなライター。


 震える手で火をつける。


 ぼ、と小さな炎が灯る。


 そのわずかな光が、闇を押し返した。


 そして――見えた。


 トンネルの壁一面。


 びっしりと貼り付けられた紙。


 古い紙。

 新しい紙。

 破れた紙。

 血で汚れた紙。


 すべてに、名前が書かれている。


 数えきれないほどの名前。


 そして、その隙間から。


 白い顔が、無数に覗いていた。


 目だけが、ぎょろりとこちらを見ている。


 口が、ゆっくりと開く。


『……イタ……ミツケタ……アタラシイ……ナマエ……』


 笑った。


 一斉に。


 音もなく。


 大輔も、真由も、どこにもいない。


 ただ、二人の懐中電灯だけが、地面に転がり、弱々しく点滅している。


 和馬の呼吸が止まりかける。


 足が動かない。


 そのとき。


 ふと、足元に視線が落ちた。


 一枚の紙。


 真新しい紙。


 そこに、まだ乾いていない文字で書かれている。


 ――佐伯和馬。


 自分の名前だった。


 間違いようがない。


 筆跡すら、自分のものに似ている。


 背後で、重い音が響いた。


 ガシャン。


 鉄がぶつかり合う、鈍い音。


 振り返る。


 トンネルの入口。


 こじ開けられていたはずの鉄柵が、ゆっくりと閉じていく。


 光が、細くなり。


 やがて完全に、消えた。

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