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裏アカウント『影踏み』

 ねっとりとした熱気が、古い校舎の裏側に滞留していた。

 九月も半ばを過ぎたというのに、暴力的な日差しは衰えを知らず、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。

 蝉の声はすでに力尽き、代わりに遠くで鳴り響く吹奏楽部の不協和音が、かえってこの静寂を不気味なものに仕立て上げていた。

「なあ……悠真。お前、『影踏み』って知ってるか?」

 前を歩いていた翔太が、不意に立ち止まって振り返った。

 指先に挟んだタバコから、細い煙が糸のように立ち昇る。校則違反だという自覚はあるのだろうが、今の彼の顔には、それ以上に深刻な――何かに追い詰められたような、奇妙な陰影が張り付いていた。

「……また都市伝説かよ。お前、本当に好きだな」

 俺、悠真は、わざと大袈裟に鼻で笑ってみせた。

 そうでもしなければ、彼の瞳の奥にある「本物の怯え」に飲み込まれてしまいそうだったからだ。

 だが、翔太はいつものように「へへっ、バレた?」と茶化すことはなかった。彼は視線を足元に落とし、自分の影を見つめたまま、声を潜めて続けた。

「これ、ガチでヤバいやつなんだよ……本当は、お前には言わない方がよかったのかもしれない。でも、もう誰かに話さないと、俺……」

 彼の手が、わずかに震えている。

 タバコの灰が、風もないのにハラリと落ちて、彼の靴の先に重なる影へと吸い込まれていった。

「『影踏み』ってのはな、SNSにある裏アカウントの名前だ。表向きはどこにでもある、ただの鍵付きアカウントだよ。プロフィールも空欄。投稿も少なけりゃ、フォロワーもごく数人……ただの問題は、そのアカウントに“触れて”しまった人間に、何かが付きまとうようになるってことだ」

「何かって、何だよ。ストーカーか?」

「……影だよ」

 翔太は短くなった吸い殻を地面に叩きつけ、執拗に靴底で踏み潰した。まるで、地面に張り付いた自分自身の影を殺そうとしているかのように。

「最初は、誰かの裏垢を特定したって喜ぶんだ。ネットの掲示板や、知り合いの噂を頼りにな。で、興味本位で見に行く。だがな、フォローもしてない、検索しただけのはずなのに……次の日から、タイムラインに勝手に流れてくるようになるんだ。その『影踏み』の投稿が」

「バグか、精巧なAI広告だろ。最近のアルゴリズムは怖いからな」

「そんな生易しいもんじゃねえ!」

 翔太が突然声を荒らげた。剥き出しになった白目が、西日に照らされてぎらりと光る。

「投稿の内容が、おかしいんだよ……そいつがその時、何をしていたか。どこの部屋で、どんな服を着て、どんな気分でいたか……まるで、そいつの背中に張り付いてる“影”が、そのまま言葉を吐き出してるみたいな内容なんだ。そして、最後には必ずこう締めくくられる」

 翔太の声が、湿り気を帯びた重苦しいトーンに変わる。


『影を踏んだね。もう逃げられない』


 その言葉が耳に触れた瞬間、真夏のような熱気の中にいたはずの俺の背中に、一筋の冷たい氷水が流れたような感覚が走った。

 翔太は冗談めかした口調を装おうとしたが、その頬は引き攣り、額からは嫌な汗が滴っている。

「……ま、信じる信じないは、お前次第だけどな」

 彼はそれだけ言うと、逃げるように校舎の角へと消えていった。

 後に残されたのは、踏み潰された吸い殻と、どこまでも長く伸びた俺自身の影だけだった。


 その晩。

 自室のベッドに寝転びながら、俺の指先は無意識にスマートフォンの画面をなぞっていた。

 窓の外からは秋の虫の声が聞こえ、液晶の青白い光が天井をぼんやりと照らしている。

(……影踏み、か)

 翔太のあの怯えようが、どうしても頭から離れなかった。

 あいつは昔からビビりなところはあったが、嘘をつくときは決まって目が泳ぐ癖がある。だが今日の放課後、あいつの目は真っ直ぐに俺を見ていた。いや、正確には俺の背後を見ていたような気がしてならない。

 検索欄に、漢字で「影踏み」と打ち込む。

 予想通り、子供の遊びや昔の童謡に関する投稿がいくつかヒットするだけだ。

 少し拍子抜けして、俺は鼻で笑った。

(やっぱり、あいつもネットの怪談に踊らされてるだけだ)

 そう思ってブラウザを閉じようとした、その時だった。

 画面の隅に、候補として表示された一つのIDが目に留まった。


 @kagefumi_000


 指が勝手に動いた。

 表示されたのは、アイコンもヘッダーも初期設定のままの、殺風景なプロフィール画面。

 フォロー数「0」、フォロワー数「0」。

 投稿数は、わずかに「3」。

 非公開を示す錠前のアイコンが、静かにそこにあった。

「……これか」

 心臓の鼓動が、トクン、と少しだけ早くなる。

 プロフィールには一行の説明もない。ただ、無機質な文字列が並んでいるだけだ。

 だが、その沈黙がかえって不気味な圧迫感を持って迫ってくる。

 俺は妙な高揚感に突き動かされ、その画面をスクリーンショットに収めた。

 そして、それを翔太へのメッセージに添付し、送信した。

『お前の言ってたやつ、これか? 案外すぐ見つかったぞ』

 送信。

 既読はつかない。

 あいつ、もう寝たのか? それとも、あまりに怖くてスマホを触っていないのか。

 半笑いでスマホをサイドテーブルに置こうとした、その瞬間。

 ――チリン。

 通知音が、静まり返った部屋に鋭く響いた。

 翔太からの返信ではない。

 それは、SNSのアプリからの通知だった。

『@kagefumi_000 さんが新しい投稿をしました』

 嫌な予感がした。

 フォローしていないアカウントの通知が届くはずがない。

 ましてや、あのアカウントは「鍵」がかかっていたはずだ。

 震える指でアプリを開く。

 タイムラインの最上部に、その投稿は鎮座していた。


【#影踏み】

 見つけてくれたんだね。

 今、黒いTシャツにグレーの短パン。

 部屋のカーテンは閉まってるけど、テレビの光が漏れてるよ。

 お気に入りのスポーツ番組の再放送かな?

『影を踏んだね。もう逃げられない』


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 喉の奥が瞬時に乾き、指先から血の気が引いていくのがわかった。

 俺は今、確かに黒いTシャツを着ている。下はグレーのスウェット短パンだ。

 テレビは音を消して、プロ野球のハイライトを流しっぱなしにしていた。

「……偶然、だよな」

 自分に言い聞かせる声が、掠れて震えている。

 だが、確信があった。これは偶然ではない。

 俺は慌てて部屋を見回した。

 ドアは閉まっている。クローゼットも閉まっている。

 そして、目の前の窓――カーテンは、しっかりと閉められている。

 いや。

 わずかに、数ミリだけ。

 カーテンの隙間が開いている。

 そこから、外の闇がこちらを覗き込んでいるように見えた。

(……動いた?)

 見間違いではない。

 その隙間が、内側からではなく、外側の「何か」によって、ゆっくりと押し広げられたような気がした。

 細く白い指のようなものが、カーテンの端にかかっていたような。

「っ……!」

 俺は飛び起き、ベッドの下から中学時代に使っていた金属バットを引っ張り出した。

 心臓が耳元でうるさいほどに鳴っている。

 一歩、また一歩と窓に近づく。

 バットを握りしめる手に、じっとりと脂汗が滲む。

 意を決して、カーテンを一気に引き開けた。

 そこには、何もなかった。

 二階の窓の外には、ただ静かな住宅街の夜景が広がっているだけだ。

 風もない。木の枝が揺れた形跡すらない。

「……ビビりすぎだろ、俺も」

 膝の力が抜け、その場にへたり込んだ。

 スマホを確認するが、翔太からの返信は依然としてない。既読すらつかない。

 俺は画面をスクロールし、さっきの投稿をもう一度見た。


『影を踏んだね。もう逃げられない』


 文字が、まるで生きている虫のように蠢いて見えた。



 翌朝、学校は奇妙なざわめきに包まれていた。

 一限目が始まっても、翔太の席は空いたままだった。いつもなら遅刻してでもニヤニヤしながら現れるはずのあいつが、連絡もなしに休むなんてことは一度もなかった。

 昼休み、俺はたまらず校舎裏へ向かった。昨日の放課後、あいつがタバコを吸っていたあの場所だ。

 地面には、あいつが踏み潰したはずの吸い殻がそのまま転がっていた。だが、あいつの気配だけが、世界からごっそりと抜け落ちたような違和感がある。

 スマホを取り出し、何度も着信を鳴らす。コール音だけが虚しく響き、やがて無機質な留守電サービスへと切り替わる。

 昨夜送ったスクリーンショットのメッセージは、今も「未読」のままだ。

「……おい、翔太。冗談はやめろよ」

 呟いた声が、熱を帯びた風に流される。


 放課後、担任から翔太が行方不明になったと知らされた。

 朝、家族が部屋を覗いたときには、スマホも、財布も、いつも履いているスニーカーさえも残されたまま、本人の姿だけが消えていたという。

 警察は事件と事故の両面で捜査を始めたが、争った形跡も遺書もない。

 俺は呆然としながら帰路についた。

 夕暮れ時、街灯が灯り始める時間帯。アスファルトに伸びる自分の影が、いつもより濃く、そして少しだけ「長い」ような気がして、何度も後ろを振り返った。

 帰宅し、震える手でSNSを開く。

 見たくない。だが、見ずにはいられない。

 あのアカウント、『@kagefumi_000』のタイムラインを確認する。

 新しい投稿があった。一時間前だ。


【#影踏み】

 翔太くん、君が言いふらすからいけないんだよ。

 今は静かなところで、ちゃんと反省してる。

 壁も床も真っ暗な、影の中。

 君も、もうすぐだよ。

『次は君の影を、踏みに行く』


「ひっ……!」

 スマホを床に落とした。

 投稿には、翔太の部屋にあったはずの、あいつが大切にしていたフィギュアが、真っ黒な泥のようなものに浸かっている写真が添えられていた。

 あれは、あいつの家に上がった奴しか知らないはずのものだ。

 俺は狂ったようにアカウントをブロックし、通報ボタンを連打した。

「不適切な内容」

「嫌がらせ」

「ストーカー行為」

 考えつく限りの理由を選んで送信する。

 だが、画面が更新されるたびに、絶望が深まっていく。

 ブロックしたはずのアカウントが、消えない。

 それどころか、更新するたびに「鍵」が外れ、アイコンがゆっくりと、俺の顔に似た何かに変わっていく。


 それからの数日間、俺は「影」の恐怖に支配された。

 学校を休み、部屋に引きこもって、すべての照明を点け、影を消そうと試みた。

 だが、光が強ければ強いほど、影はその輪郭を鋭くし、濃く深まっていく。

 カーテンを閉め切り、ガムテープで隙間を塞いだ。

 それでも、スマホの通知は止まらない。

 アカウントは削除しても、初期化しても、知らないうちにホーム画面に復元されている。


『カーテン、閉めても無駄だよ』

『窓の外じゃない。今は、君の後ろ』


「……っ!」

 心臓が跳ね、振り返る。

 誰もいない。閉め切った蒸し暑い部屋。

 だが、足元を見て、俺は息が止まった。

 照明の真下に立っている俺の影。その影の「端」を、何かが踏んでいた。

 自分の影の上に、もう一つ、別の影が重なっている。

 それは天井から伸びているわけでも、家具が作っているわけでもない。

 ただ、俺の影と重なり合うように、地面に「張り付いている」のだ。

「やばい……やばいやばいやばい……!」

 パニックになり、俺は財布だけを掴んで部屋を飛び出した。

 一刻も早く、ここから離れなければ。

 階段を駆け下り、夜の街へ飛び出す。

 コンビニの明るい店内に駆け込み、雑誌棚の前に身を潜めた。

 ここなら、大勢の客がいる。監視カメラもある。

 だが、ポケットの中でスマホが震えた。

 バイブレーションの振動が、まるで俺の骨を直接叩いているように不快だ。


『影を踏んだね。もう逃げられない』

『逃げても無駄』

『光の中でも、君の影はある』

『だから、私はどこにでもいる』


 店内の陳列棚。その金属の表面に映る自分の姿を見る。

 俺の背後に、黒い「人影」が立っていた。

 驚いて振り返るが、やはりそこには誰もいない。

 ただ、足元の床には、俺の影から伸びた「黒い手」のようなものが、俺の足首をじっと掴んでいるのが見えた。

「うああああああ!」

 叫び声を上げ、俺はコンビニを飛び出した。

 警察署へ駆け込み、必死に訴えた。

「誰かに追われている」

「ネットのストーカーだ」

「友達が消された」

 だが、警察官たちは困ったような顔で顔を見合わせるだけだった。

「君、落ち着きなさい。SNSの悪質ないたずらだろう。まずは家族に連絡して……」

 誰も信じてくれない。

 俺が見ているこの「影」は、俺にしか見えていない。

 俺の正気が削られていくのを、世界はただ傍観しているだけだ。

 俺は家へ帰るのをやめた。

 ネカフェを転々としながら、一睡もせずに朝を待つ。

 だが、どんなに場所を変えても、あのアカウントは俺を見つけ出す。


【#影踏み】

 君の足音が、夜に響く。

 でも大丈夫、もうすぐ静かになる。

 影は、君の外側だけじゃない。

『影は、君の中にもある』


 その投稿を見た瞬間、俺は自分の胸のあたりに、得体の知れない「冷たさ」を感じた。

 内臓が凍りつくような、あるいは、内側から真っ黒な墨を流し込まれたような感覚。

 鏡を見ると、俺の瞳の奥、黒目が少しずつ、不自然なほどに広がっていた。


 最後に翔太と話した校舎裏の風景が、何度も脳裏をよぎる。

 あの時、あいつが踏み潰していたのはタバコの火ではなく、自分を侵食しようとする「何か」だったのだ。

 俺は今、街外れの古い歩道橋の上に立っていた。

 深夜二時。車通りも絶え、街灯のオレンジ色の光が、無機質なアスファルトに俺の影を長く、歪に引き延ばしている。

 スマホの画面は、もはや操作を受け付けない。

 電源を切ろうが、バッテリーを使い果たそうが、液晶にはあのアカウントの投稿が、まるで網膜に焼き付いた残像のように浮かび上がっている。


【#影踏み】

 もう、そんなに震えなくていいよ。

 影と光が混ざり合えば、苦しみは消える。

 君が「こちら側」に来るのを、みんな待ってる。


「……みんな、だと?」

 俺は震える声で呟いた。

 画面をスクロールすると、そこには信じがたい光景が広がっていた。

 フォロワー数「0」だったはずのアカウントに、数えきれないほどのアイコンが並んでいる。

 そのどれもが、顔のない真っ黒なシルエット。

 だが、その中の一つに、見覚えのあるキーホルダーをつけた人影があった。

 翔太だ。

 あいつは、ここにいた。

 スマホの中に、あるいは影の隙間に、引きずり込まれてしまったのだ。

「終わらせてやる……こんなもの」

 俺はスマホを橋の欄干に叩きつけようとした。

 だが、腕が動かない。

 まるで目に見えない太い鎖で地面に縫い付けられたかのように、俺の身体は硬直していた。

 下を見た。

 絶望が、冷たい汗となって全身から噴き出す。

 歩道橋の床に映る俺の影が、俺の意思とは無関係に、ゆっくりと「立ち上がって」いた。

 影は平面の制約を離れ、立体的な黒い泥となって俺の足元から這い上がってくる。

 それは俺の靴を、脛を、太ももを、冷酷なまでの冷たさで包み込んでいく。

「やめろ……来るな! 離せ!」

 叫びは夜の闇に吸い込まれ、誰にも届かない。

 影が胸に達したとき、SNSの通知音が最後の一回、頭蓋骨に直接響くような音量で鳴り響いた。


【#影踏み】

『影は、君の中にもある』


 その一文の意味を、俺は最期に理解した。

 影とは光が遮られた場所にできるのではない。

 人間の心の奥底、誰にも見せたくない孤独や好奇心という 「闇」が、外側の実体と入れ替わるのを待っていたのだ。

 視界が真っ黒に染まっていく。

 俺の意識が、自分の影の中へと沈んでいく。

 入れ替わりに、俺の形をした「真っ黒な何か」が、歩道橋の欄干を掴み、ゆっくりと街の方を向いて歩き出した。

 意識が消える直前、俺は自分のアカウントから、最後の一文が投稿されるのを「内側」から見ていた。


 二〇二六年四月現在。

 SNS上では、今も特定のアカウントが話題に上ることがある。

 IDは @kagefumi_000。

 ある者は、深夜のタイムラインで偶然見つけたと言い。

 ある者は、知り合いからの不審なDMにそのIDが書かれていたと言う。

 そのアカウントは、フォローを一切受け付けない。

 だが、一度でも「検索」し、その無機質なプロフィールを覗き込んでしまった者の元には、翌日から必ず「それ」が届くようになる。

 投稿されるのは、ありふれた日常の断片だ。

「今日はコーヒーを飲んだ」

「新しい靴を買った」

「君の後ろに立っている」

 そして、どの投稿も、決まってこの言葉で締めくくられる。


『影を踏んだね。もう逃げられない』


 今、この物語を読んでいるあなたのスマホ。

 その画面の隅に、心当たりのない通知が届いてはいないだろうか。

 あるいは、足元の影が、ほんの少しだけ動いたような気がしてはいないだろうか。

 もしそうなら、どうか後ろを振り返らないでほしい。


 なぜなら、影はもう、あなたのすぐ後ろで、次の一歩を踏み出す準備を終えているのだから。

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