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隙間の住人

 その「線」に気づいたのは、三日前、大掃除をしていた時のことだった。

 一人暮らしを始めて二三年になるアパートの、リビングとキッチンの境目。クッションフロアの継ぎ目に、髪の毛一本分ほどの細い、漆黒の亀裂が走っていた。

 最初は、ただの経年劣化だと思った。築二十年の木造建築だ。床の建材が乾燥で収縮し、隙間ができることくらい珍しくもない。

 会社員の亮介は、指先でその線をなぞってみた。

 ひんやりとしていた。

 床の素材であるビニールの冷たさではない。その細い亀裂から、氷穴の奥底から吹き出してくるような、刺すような冷気が漏れ出していた。

「……気持ち悪いな」

 亮介は粘着テープを上から貼り付け、その場を凌いだ。


 その夜、亮介は奇妙な物音で目を覚ました。

 ――ピチャッ。

 湿った何かが、床を叩く音。

 ――ズ、ズズ……

 重いものを引きずるような音が、キッチンのほうから聞こえてくる。

 亮介は寝室のベッドの中で、毛布を首まで引き上げた。時計を見ると午前三時。深夜特有の静寂の中に、その音だけが異様に鮮明に響く。

 泥棒か。そう思い、護身用のバットを握りしめてリビングへ向かった。

 電気をつける。

 そこには誰もいなかった。

 ただ、昼間に貼ったはずの粘着テープが、まるで内側から引き裂かれたように無残に破れていた。そして、あの亀裂は。

 ……昨日の倍以上の太さに広がっていた。

 暗黒の裂け目。その深淵を覗き込もうとしたとき、亮介は自分の足元を見て絶句した。

 床の上に、びっしりと「手形」がついていた。

 それは人間の手にしてはあまりにも指が長く、関節が数え切れないほどある。しかも、ただの手形ではない。それは濡れた泥で描かれたような黒ずんだ跡で、すべてが「あの裂け目」に向かって吸い込まれるように続いていた。


 翌日、亮介は管理会社に電話をしたが、「担当者が不在」とあしらわれた。

 仕事中も、あの裂け目のことが頭から離れない。帰宅するのが恐ろしかった。

 夜、恐る恐る玄関のドアを開ける。

 部屋の中は、異様な臭いに満ちていた。

 古い井戸の底と、死んだ魚の臓物を混ぜ合わせたような、吐き気を催す腐敗臭。

 ライトを照らすと、リビングの床はもはや原形を留めていなかった。

 あの亀裂は、今や大人の腕が一本丸ごと入るほどに広がり、そこから黒い、粘り気のある液体が溢れ出していた。

 そして、その「隙間」の中に。

 ぎょろり、と。

 巨大な、濁った白目が、亮介を見上げていた。

「うわあああ!」

 亮介は腰を抜かし、後ずさった。

 隙間の中から、ズルリと「何か」が這い出してきた。

 それは人間の顔を持っていたが、身体は蛇のように細長く、全身が濡れた髪の毛のようなもので覆われていた。骨がないかのようにぐにゃぐにゃと身を捩りながら、そいつは亮介に向かって這い寄ってくる。

「……狭い……狭い……」

 そいつの口から漏れたのは、録音された音を無理やり繋ぎ合わせたような、ガラガラと乾いた声だった。

「……お前の、中なら、広い……?」


 亮介は狂ったように部屋を飛び出し、夜の街を駆け抜けた。

 近くのビジネスホテルに駆け込み、フロントで震えながらチェックインを済ませる。

 部屋に入り、ドアの鍵を閉め、チェーンをかけ、さらに重い椅子をドアの前に置いた。

 窓も閉まっている。ここは五階だ。あの化け物が登ってこれるはずがない。

 亮介はバスルームへ向かい、顔を洗おうとして鏡の前に立った。

 鏡に映る自分の顔。

 極度の緊張と恐怖で、血の気が引いている。

 ……その時だ。

 右の目尻に、小さな、本当に小さな「線」があることに気づいた。

 ただの皺だと思おうとした。だが、その線は、亮介が見ている前で、ゆっくりと、左右に割れていった。

「あ……ああ……」

 悲鳴を上げようとしたが、声が出ない。

 口の中。奥歯と歯茎の間に、新しい「隙間」が生まれていた。

 そこから、あの氷穴のような冷気が吹き出してくる。

 ズルリ。

 目尻の裂け目から、細長い、節くれ立った「指」が一本、突き出してきた。

 続いて、口の中から。

 自分の舌の下を押し退けて、ぬるりと濡れた髪の毛の束が溢れ出してくる。

『見つけた』

 声は、自分の脳内で直接響いた。

『外は、広すぎる。お前の、骨の、隙間……そこが、一番、心地よい』


 亮介の視界が、内側から暗転していく。

 自分の肋骨が一本ずつ、内側から押し広げられる嫌な音が聞こえる。

 身体が、内側から「別の何か」に満たされていく。

 筋肉が裂け、内臓が押し潰される激痛。だが、叫ぶための喉は、すでにあの化け物の通り道となっていた。

 最後に亮介が見たのは、鏡の中の自分が、自分ではない誰かの手で、自分の顔の皮をゆっくりと剥いでいく姿だった。


 翌朝、ビジネスホテルの清掃員が部屋に入った時、そこには誰もいなかった。

 ベッドは整えられたままで、荷物一つ残っていない。

 ただ、洗面台の鏡の前に、一着のスーツが脱ぎ捨てられていた。

 そのスーツは、まるで中身が最初から存在しなかったかのように、ぺしゃんこに潰れていた。

 そして、排水口のわずかな隙間に。

 亮介のものだったはずの、茶色の瞳が一つだけ、寂しそうに転がっていたという。


 あなたの足元にある、その小さな隙間。

 あるいは、今さっき自分の腕にできた、小さな引っかき傷。

 そこを覗き込んではいけない。

 彼らは、入り口を見つけるのが、とても上手なのだから。

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