表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/125

残響の家 1

1 ノイズの混入


「静かすぎるのも、考えものだな」

 佐伯隼人は、安物のデスクの前に座り、独り言を漏らした。

 一週間前、彼は都心の喧騒を逃れ、千葉県の外れにある築六十年の古民家に移り住んだ。フリーランスのライターとして、静寂は最大の武器になるはずだった。しかし、この家を支配する「静寂」には、どこか粘り気のようなものがあった。耳の奥でキーンと鳴る耳鳴りが、まるで物理的な重さを持って鼓膜を押し込んでいるような、そんな感覚だ。

 隼人の仕事は、主にポッドキャスト向けの怪談台本や、心霊スポットのルポルタージュだ。今回の引越しを機に、彼は「事故物件に住んでみた」というていで、日々の生活を録音・配信する企画を始めていた。

 彼は机の上に置いた高性能のICレコーダーのスイッチを入れた。


「……時刻は午前二時十五分。入居から七日目。相変わらず、この家は静かです。前の住人が亡くなった理由は『孤独死』と聞いていますが、特筆すべき異変はありません。ただ、さっきから二階の廊下で、ミシッ……という、家鳴りとは少し違う音が聞こえるような気がします」

 隼人はマイクに向かってささやき、ヘッドホンを深く装着した。レコーダーは微細な音まで拾い上げる。

 ヘッドホン越しに聞こえるのは、自分の心音と、衣服が擦れるわずかな音。そして、背後の暗闇から漂ってくる、古い木材の匂いが混じった空気の動悸だ。


 その時だった。

『……ケ……て……』

 ヘッドホンから、ノイズ混じりの細い声が聞こえた。

 隼人の背筋に冷たいものが走る。彼は息を止め、録音レベルのインジケーターを凝視した。緑色のバーが、微かに、しかし確実に振れている。

「……今、誰かいましたか?」

 隼人は振り返った。背後には、月明かりに照らされた六畳の和室が広がっているだけだ。襖は閉まり、影が長く伸びている。誰もいるはずがない。

 彼は震える手で録音を停止し、今撮ったばかりのデータを再生した。

『……時刻は午前二時十五分。……特筆すべき異変はありません。ただ、さっきから……』

 自分の声が流れる。そして、その合間。

 さっき聞こえたはずの声の箇所に差し掛かった。

『……ミシッ……という、家鳴りとは少し違う音が……(タスケテ)……聞こえるような気がします』

 はっきりと聞こえた。それは、掠れた女の声だった。

 しかも、ただの声ではない。まるで、隼人の耳元で直接囁かれたような、あるいは「隼人の口の中から響いてきた」ような、異様な質感を伴っていた。

 隼人はヘッドホンを投げ出し、椅子から飛び退いた。

「……なんだ、今の」

 心臓の鼓動が早鐘を打つ。

 彼は冷静になろうと努めた。古い家だ、風の音が声のように聞こえることもあるだろう。あるいは、以前の住人が残した何らかの残留思念が、磁気テープならぬデジタルデータに干渉したのか。

「……ネタとしては最高だ」

 彼は自分を鼓舞するように呟いた。恐怖よりも、これでアクセス数が稼げるという功名心が勝った。


 しかし、その夜から、音はエスカレートしていった。

 翌日の夜、隼人がキッチンで湯を沸かしていると、リビングに置いていたICレコーダーが勝手に起動する音がした。「ピッ」という、あの独特の電子音だ。

 慌ててリビングに戻ると、レコーダーの赤いランプが点滅し、録音が進行していた。

「……誰だ。そこにいるのか?」

 隼人は、誰もいない空間に向かって問いかけた。

 当然、返事はない。

 彼はレコーダーを手に取り、再生ボタンを押した。

 そこには、恐ろしい音が記録されていた。

「ズズッ……ズズッ……」という、重いものを引きずるような音。

 そして、何かが壁を爪で引っ掻く「ガリガリガリッ」という鋭い音。

 最後に、昨日と同じ女の声が、今度は笑いながらこう言った。

『……ミツケタ……ミツケタ……』

 隼人は全身の毛穴が逆立つのを感じた。

 その声は、レコーダーの中から聞こえてくるはずなのに、なぜか部屋の「四方八方」から響いているように感じられた。

 壁、天井、床下。家全体がその声を増幅させるスピーカーになったかのように。

 彼は逃げ出そうと玄関に向かった。


 しかし、玄関の引き戸に手をかけた瞬間、背後の暗闇から、無数の「音」が溢れ出した。

 ガタガタガタガタッ!

 襖が激しく震え、台所の包丁がまな板を叩く音が響く。

 そして、二階の階段を、何かが猛烈な勢いで駆け下りてくる音がした。

「ドタドタドタドタッ!」という、人間にしてはあまりに速く、重い足音。

 隼人は悲鳴を上げ、玄関を飛び出した。

 夜の冷たい空気が肺に流れ込む。彼は愛車に飛び乗り、そのまま一キロほど離れたコンビニの駐車場まで車を走らせた。

 明るい店内の光と、深夜のトラックのエンジン音に囲まれ、隼人はようやく一息ついた。

 助手席に放り出したバッグの中に、あのレコーダーが入っている。

 彼は恐る恐る、それを取り出した。

 液晶画面には、まだ「録音中」の文字が出ていた。

 彼は震える指で停止ボタンを押し、最新のファイルを再生した。

 そこには、車を走らせている間の走行音が録音されているはずだった。

 しかし、スピーカーから流れてきたのは、静かな、あまりに静かな「呼吸音」だった。

『スゥー……ハァー……スゥー……』

 そして、その呼吸の合間に、誰かがクスクスと笑う声が混じる。

 その声は、次第に大きくなり、最後には絶叫へと変わった。

『……逃ゲラレルワケナイ……アナタガ、連レテキタンダカラ……!』

 隼人は愕然とした。

「連れてきた? 俺が?」

 その時、彼は気づいた。

 自分がこの家に持ち込んだ、数々の心霊スポットの取材資料。録音したまま一度も聞き返していなかった、無数の「現場の音」たち。

 ふと、車のバックミラーに目をやった。

 後部座席には誰もいない。

 しかし、レコーダーのインジケーターは、今この瞬間も、車内の「何か」が発する巨大な音を拾って、激しく左右に振れ続けていた。


 隼人の耳に、再びあの音が聞こえ始めた。

 今度はヘッドホン越しではない。

 自分の頭蓋骨の裏側から、直接響く「ガリガリ」という、爪で何かを削る音が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ