残響の家 1
1 ノイズの混入
「静かすぎるのも、考えものだな」
佐伯隼人は、安物のデスクの前に座り、独り言を漏らした。
一週間前、彼は都心の喧騒を逃れ、千葉県の外れにある築六十年の古民家に移り住んだ。フリーランスのライターとして、静寂は最大の武器になるはずだった。しかし、この家を支配する「静寂」には、どこか粘り気のようなものがあった。耳の奥でキーンと鳴る耳鳴りが、まるで物理的な重さを持って鼓膜を押し込んでいるような、そんな感覚だ。
隼人の仕事は、主にポッドキャスト向けの怪談台本や、心霊スポットのルポルタージュだ。今回の引越しを機に、彼は「事故物件に住んでみた」という体で、日々の生活を録音・配信する企画を始めていた。
彼は机の上に置いた高性能のICレコーダーのスイッチを入れた。
「……時刻は午前二時十五分。入居から七日目。相変わらず、この家は静かです。前の住人が亡くなった理由は『孤独死』と聞いていますが、特筆すべき異変はありません。ただ、さっきから二階の廊下で、ミシッ……という、家鳴りとは少し違う音が聞こえるような気がします」
隼人はマイクに向かってささやき、ヘッドホンを深く装着した。レコーダーは微細な音まで拾い上げる。
ヘッドホン越しに聞こえるのは、自分の心音と、衣服が擦れるわずかな音。そして、背後の暗闇から漂ってくる、古い木材の匂いが混じった空気の動悸だ。
その時だった。
『……ケ……て……』
ヘッドホンから、ノイズ混じりの細い声が聞こえた。
隼人の背筋に冷たいものが走る。彼は息を止め、録音レベルのインジケーターを凝視した。緑色のバーが、微かに、しかし確実に振れている。
「……今、誰かいましたか?」
隼人は振り返った。背後には、月明かりに照らされた六畳の和室が広がっているだけだ。襖は閉まり、影が長く伸びている。誰もいるはずがない。
彼は震える手で録音を停止し、今撮ったばかりのデータを再生した。
『……時刻は午前二時十五分。……特筆すべき異変はありません。ただ、さっきから……』
自分の声が流れる。そして、その合間。
さっき聞こえたはずの声の箇所に差し掛かった。
『……ミシッ……という、家鳴りとは少し違う音が……(タスケテ)……聞こえるような気がします』
はっきりと聞こえた。それは、掠れた女の声だった。
しかも、ただの声ではない。まるで、隼人の耳元で直接囁かれたような、あるいは「隼人の口の中から響いてきた」ような、異様な質感を伴っていた。
隼人はヘッドホンを投げ出し、椅子から飛び退いた。
「……なんだ、今の」
心臓の鼓動が早鐘を打つ。
彼は冷静になろうと努めた。古い家だ、風の音が声のように聞こえることもあるだろう。あるいは、以前の住人が残した何らかの残留思念が、磁気テープならぬデジタルデータに干渉したのか。
「……ネタとしては最高だ」
彼は自分を鼓舞するように呟いた。恐怖よりも、これでアクセス数が稼げるという功名心が勝った。
しかし、その夜から、音はエスカレートしていった。
翌日の夜、隼人がキッチンで湯を沸かしていると、リビングに置いていたICレコーダーが勝手に起動する音がした。「ピッ」という、あの独特の電子音だ。
慌ててリビングに戻ると、レコーダーの赤いランプが点滅し、録音が進行していた。
「……誰だ。そこにいるのか?」
隼人は、誰もいない空間に向かって問いかけた。
当然、返事はない。
彼はレコーダーを手に取り、再生ボタンを押した。
そこには、恐ろしい音が記録されていた。
「ズズッ……ズズッ……」という、重いものを引きずるような音。
そして、何かが壁を爪で引っ掻く「ガリガリガリッ」という鋭い音。
最後に、昨日と同じ女の声が、今度は笑いながらこう言った。
『……ミツケタ……ミツケタ……』
隼人は全身の毛穴が逆立つのを感じた。
その声は、レコーダーの中から聞こえてくるはずなのに、なぜか部屋の「四方八方」から響いているように感じられた。
壁、天井、床下。家全体がその声を増幅させるスピーカーになったかのように。
彼は逃げ出そうと玄関に向かった。
しかし、玄関の引き戸に手をかけた瞬間、背後の暗闇から、無数の「音」が溢れ出した。
ガタガタガタガタッ!
襖が激しく震え、台所の包丁がまな板を叩く音が響く。
そして、二階の階段を、何かが猛烈な勢いで駆け下りてくる音がした。
「ドタドタドタドタッ!」という、人間にしてはあまりに速く、重い足音。
隼人は悲鳴を上げ、玄関を飛び出した。
夜の冷たい空気が肺に流れ込む。彼は愛車に飛び乗り、そのまま一キロほど離れたコンビニの駐車場まで車を走らせた。
明るい店内の光と、深夜のトラックのエンジン音に囲まれ、隼人はようやく一息ついた。
助手席に放り出したバッグの中に、あのレコーダーが入っている。
彼は恐る恐る、それを取り出した。
液晶画面には、まだ「録音中」の文字が出ていた。
彼は震える指で停止ボタンを押し、最新のファイルを再生した。
そこには、車を走らせている間の走行音が録音されているはずだった。
しかし、スピーカーから流れてきたのは、静かな、あまりに静かな「呼吸音」だった。
『スゥー……ハァー……スゥー……』
そして、その呼吸の合間に、誰かがクスクスと笑う声が混じる。
その声は、次第に大きくなり、最後には絶叫へと変わった。
『……逃ゲラレルワケナイ……アナタガ、連レテキタンダカラ……!』
隼人は愕然とした。
「連れてきた? 俺が?」
その時、彼は気づいた。
自分がこの家に持ち込んだ、数々の心霊スポットの取材資料。録音したまま一度も聞き返していなかった、無数の「現場の音」たち。
ふと、車のバックミラーに目をやった。
後部座席には誰もいない。
しかし、レコーダーのインジケーターは、今この瞬間も、車内の「何か」が発する巨大な音を拾って、激しく左右に振れ続けていた。
隼人の耳に、再びあの音が聞こえ始めた。
今度はヘッドホン越しではない。
自分の頭蓋骨の裏側から、直接響く「ガリガリ」という、爪で何かを削る音が。




