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残響の家 2

2 壁の中の蒐集家


 コンビニの駐車場で夜を明かした隼人は、朝日が昇るのと同時に、強引に自分を納得させた。

「……聴覚過敏か、あるいは軽いパニック障害だ。仕事のストレスが溜まっているんだろう」

 そう、自分はオカルトを「作る」側の人間だ。幽霊に怯えてどうする。

 彼は一度、馴染みのオーディオエンジニアである真壁を頼ることにした。真壁は都内のスタジオにこもり、あらゆる音のノイズ除去や修復を行う「音の職人」だ。

「このデータを見てくれ」

 スタジオに持ち込んだICレコーダーを再生する。昨夜、隼人の耳元や車内で響いたあの絶叫だ。

 真壁は波形モニターを見つめ、ヘッドホンを片耳に当てて数分間沈黙した。

「……隼人、これ、どこで録った?」

「例の家だ。やっぱり変だよな? 合成じゃない。現場で確かに鳴っていたんだ」

 真壁は難しい顔でモニターを指差した。

「変なのは声じゃない。この『背景音』だ。普通、どんなに静かな部屋でも微細な環境ノイズが入る。だが、この声の背後にある音域だけが、完全に『無』なんだ。まるで……真空の中で叫んでいるか、あるいは、音が吸い込まれる穴に向かって叫んでいるような波形だ」

「音が吸い込まれる穴?」

「それだけじゃない。この『ガリガリ』という音。これ、木材を削る音じゃないぞ。もっと硬いもの……石か、あるいは……『歯』が擦れる音に近い」

 真壁の言葉に、隼人は昨夜感じた後頭部の痛みを思い出し、無意識に首の裏をさすった。

「とにかく、このデータの出所は慎重に扱え。これ、聞いてるだけで頭の平衡感覚がおかしくなる」

 隼人はその足で、古民家の近くにある「郷土資料館」へ向かった。

 管理会社から聞いた「孤独死」という話。それが本当なのかを確かめるためだ。

 古い地図と登記簿を照らし合わせ、彼はある事実に辿り着いた。

 この屋敷、元々は一軒の家ではなかった。

 明治時代、この地域で盛んだった「音」を使った特殊な祈祷を行う家系の、離れだったのだ。

 その家系は、村のわざわいや「忌み言葉」を一つの壺に封じ込め、その壺を壁の中に塗り込めることで平穏を保っていたという。

「……壁の中に、音を閉じ込める?」

 隼人は資料を読み進める。

 昭和に入り、その家系が途絶えた後、離れを改築して一般の住居にしたのが、今のあの家だ。

 しかし、改築の際、本来壊してはならない「特定の壁」を壊してしまったという噂が残っていた。


 夕刻、隼人は再びあの家に戻った。

 逃げることも考えたが、ライターとしての執念が、そして何より、あのレコーダーに残された「続き」を聞きたいという抗いがたい誘惑が、彼を呼び戻した。

 彼は家中の壁を叩いて回った。

 コン、コン、コン……。

 リビング、キッチン、洗面所。どの壁も詰まった音がする。

 しかし、二階の突き当たりの物置。そこだけが、妙に響いた。

 コン……

 まるで、壁の向こうに広大な空間があるような、深い反響。

「ここか」

 隼人はホームセンターで買ってきたバールを手に取り、壁紙を剥がした。

 古びた石膏ボードの裏から現れたのは、真っ黒に煤けた古い板壁だった。

 その板には、無数の「文字」が刻まれていた。

 文字、というよりは、音を視覚化したような奇妙なうねり。呪文のようにも、あるいは絶叫の記録のようにも見える。

 ガリッ。

 まただ。

 今度ははっきりと、目の前の板壁の向こうから聞こえた。

 隼人はバールを隙間に差し込み、力任せに板を剥ぎ取った。

 埃が舞い、暗い空間が口を開ける。

 そこは、壁と壁の間に作られた、人一人がようやく通れるほどの狭い「隙間廊下」だった。

 家を一周するように張り巡らされたその空間には、異様なものが並んでいた。

 ……古い蓄音機のホーン、壊れたラジオ、錆びついた鈴。

 そして、それらに混じって、夥しい数の「補聴器」が、壁一面に釘で打ち付けられていた。

 戦前の古いものから、比較的新しいデジタル式のものまで。

「なんだ、これ……」

 隼人がその隙間廊下に足を踏み入れた瞬間、背後の板壁が、バタン!と閉まった。

 完全な暗闇。

 そして、一斉に音が鳴り始めた。

 カチ、カチ、カチカチカチカチッ!

 壁に打ち付けられた何百という補聴器から、一斉にスイッチが入る音がした。

 続いて、それらから漏れ出したのは、かつての持ち主たちが聞いたであろう「最期の音」だった。

『痛い、痛い……』

『助けて、開けてくれ!』

『……うるさい、静かにしろ!』

 怒号、悲鳴、すすり泣き。

 それらが反響し、重なり合い、巨大な渦となって隼人を飲み込む。

 彼は耳を塞いでうずくまったが、音は指の隙間を通り抜け、脳内に直接流し込まれる。

 その時、暗闇の奥から、ガサリと何かが動く音がした。

「……誰だ」

 隼人が震える声でスマホのライトを向ける。

 光の先にいたのは、全身に「耳」を縫い付けたような姿をした、痩せこけた老人だった。

 老人は、壁に耳を押し当て、うっとりとした表情で音を貪っている。

 その口元には、真壁が言っていた「歯が擦れる音」の正体……

 老人は自分の歯を激しく噛み合わせ、音を刻んでいた。

 老人がゆっくりと首をこちらに向けた。

 その顔には目も鼻もなく、ただ巨大な「耳」が左右に、そして額に一つ、ついていた。

「……新しい、音が……来た……」

 老人の口が、裂けるように開いた。

 そこから溢れ出したのは、隼人の「昨日までの独り言」だった。

『静かすぎるのも、考えものだな』

『……今、誰かいましたか?』

 自分の声に追い詰められ、隼人は意識を失った。


 目が覚めると、彼は物置の床に倒れていた。

 壁は元通り。板壁も、剥がしたはずの壁紙も、何事もなかったかのように修復されている。

「夢……だったのか?」

 しかし、彼の耳には、確かな違和感が残っていた。

 左耳の聴力が、完全に失われていた。

 代わりに、右耳からは、今まで聞こえなかった「音」が聞こえるようになっている。

 それは、地中深くで蠢く虫の音や、隣家の住人の血管を流れる血液の音。

 そして、自分の肺の奥で。

「……ミツケタ」


 あの女の声が、今度は肺の鼓動に合わせて囁き始めていた。

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