残響の家 3
3 無音の狂気
左耳の聴力が失われた事実は、当初、隼人に絶望を与えた。
しかし、次第にそれは奇妙な安らぎへと変わっていった。
左側からくる音をすべて遮断すれば、少なくとも世界の半分は「静寂」でいられるからだ。
だが、残された右耳はそれを許さなかった。
右耳の聴力は、もはや人間の域を遥かに超えていた。
「……うるさい」
隼人は防音性の高い工業用イヤーマフを装着し、その上から毛布を何重にも被って部屋の隅にうずくまった。
それでも、音は防げなかった。
今の彼にとって、冷蔵庫のコンプレッサーの振動は巨大なハンマーで壁を叩く音に等しく、窓の外を這う羽虫の足音は、鋭い針でガラスを引っ掻く不快な音として響いた。
さらには、隣家の住人がページをめくる音、三軒先の家の水道管を流れる水の音。世界中のあらゆる「振動」が、鋭利な刃物となって右耳の鼓膜を蹂躙した。
「静かにしろ……静かにしてくれ!」
彼は半狂乱になりながら、家中の電化製品のコンセントを引き抜き、ブレーカーを落とした。
暗闇の中、ようやく訪れたはずの静寂。
しかし、そこで彼は本当の地獄を悟ることになった。
外からの音が消えたとき、内側の音が怪物となって牙を剥いたのだ。
ドクン。ドクン。ドクン。
自分の心臓の音が、まるで巨大な太鼓を至近距離で連打されているかのように鳴り響く。
シュウウゥゥ……という、血管を流れる血液の摩擦音。関節が動くたびに響く、骨と軟骨が擦れる不快な軋み。
さらには、胃が内容物を消化するドロドロとした音までもが、脳内で爆音として再生された。
「自分の体そのものが、巨大な楽器になっている……」
隼人は耐えきれず、洗面所に駆け込んだ。鏡に映る自分の顔は、わずか数日で土気色に変わり、右耳だけが異常に充血して赤黒く腫れ上がっていた。
その時、右耳の奥で「あの声」がした。
『……そんなに音が嫌い?』
それは、かつてレコーダーに紛れ込んでいた女の声だった。
『なら、もっといい場所を教えてあげる。そこは、何にも邪魔されない、完璧な静寂の世界よ』
鏡の中、隼人の背後に影が立ち上がった。
それは、壁の中にいたあの老人ではなかった。真っ黒な長い髪で顔を隠し、耳だけを露出させた女の姿。女の手には、古びた、しかし研ぎ澄まされた「裁縫用の大きな鋏」が握られていた。
「……やめろ、来るな!」
隼人の叫び声は、彼自身の右耳を破壊せんばかりの衝撃波となって跳ね返ってきた。激痛に悶絶し、彼は床に転倒した。
女はゆっくりと近づき、隼人の右耳に冷たい刃を当てた。
『外側があるから、聞こえるのよ。外側をなくせば、あなたは永遠の静寂を手に入れられる』
「……ぁ、ああ……」
『大丈夫、痛くないわ。音を消すだけだから』
チョキン、という鋭い金属音が脳を貫いた。
その瞬間、隼人の視界は真っ白に染まった。凄まじい出血が床を濡らしたが、不思議なことに痛みはなかった。
ただ、右耳を支配していた狂気じみた騒音が、一瞬にして遠のいていく感覚だけがあった。
「ああ……静かだ……」
血の海の中で、隼人は恍惚とした表情を浮かべた。ついに手に入れたのだ。完璧な、凪いだ海のような静寂を。
……しかし。
その平穏は、すぐに破られた。今度は、耳からではなかった。
「トントン」
それは、彼の「頭蓋骨」から直接響いてくる音だった。誰かが、彼の頭の内側を指先で叩いている。
「トントン、トントン」
『……ここなら、逃げられないでしょ?』
声は、彼の脳そのものが振動して発せられていた。
耳を塞いでも、鼓膜を破っても、あるいは耳そのものを切り落としても無駄だったのだ。
音は、彼の「意識」そのものに住み着いてしまった。
隼人は震える手で、近くに転がっていたICレコーダーを手に取った。
もはや視界は霞んでいたが、指の感覚だけで録音ボタンを押した。これは、彼に残された最後の抵抗であり、記録であった。
「……助けて。俺の中に、誰かが……音が、入り込んでいる。この家は、音を……人を『音』に変えて、壁に閉じ込めるための……」
そこまで言いかけた時、レコーダーからキィィィィィンという、耳を裂くようなハウリング音が鳴り響いた。
それは、隼人の声が、彼自身の脳内で増幅され、無限のループに陥った終焉の音だった。
隼人の口から、目から、そして切り落とされた耳の穴から。
黒い「ノイズ」のような液体が、静かに溢れ出した。




