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残響の家 4

4 反響する過去


 気がつくと、隼人は二階の物置の中に立っていた。

 手には血のついたはさみが握られ、足元には自分の右耳だったものが転がっている。

 しかし、不思議なことに痛みはすでに消え失せ、傷口は不気味なほど滑らかな皮膚に覆われていた。

 もはや、外の世界の音は一切聞こえない。

 だが、その代わりに隼人の脳内には、濁流のような「記憶の音」が流れ込んでいた。

 それは彼自身の記憶ではなく、この家の壁が、そしてあの「耳だらけの老人」が、長い年月をかけて蒐集しゅうしゅうしてきた、この土地の犠牲者たちの断末魔だった。

 隼人はふらつく足取りで、再びあの壁の隙間へと吸い込まれるように入っていった。

 もはや板壁を壊す必要もなかった。壁そのものが、彼を迎え入れるように口を開けていたからだ。

 隙間廊下の奥。そこには、以前見た光景よりもさらに凄惨な空間が広がっていた。

 壁一面に打ち付けられた補聴器や蓄音機のパーツが、まるで生き物のように脈動している。

 それらは単なる機械ではなく、人間の肉体の一部……鼓膜や耳小骨と融合し、奇怪な「音の巣」を形成していた。


 その巣の中心に、あの老人が座っていた。

 老人は隼人の姿を見ると、口の端を吊り上げて笑った。

「……聞こえるか、若いの。これは、ただの音ではない。人々の『執着』そのものだ」

 老人の声は、喉を通らずに、直接隼人の脳内で再生された。

「この家はな、かつて祈祷師たちが『聞こえすぎてしまう者』を閉じ込め、その能力を抽出するために作った装置なのだ。神の声、霊の声、死者の声……それらを聞き取れる特別な耳を持つ者を、この壁の中に塗り込み、その人生をまるごと音として精製した」

 隼人は、壁の中に埋もれている無数の骨を見た。

 それらはみな、耳のあたりを激しく損壊していた。

 自ら音を拒絶するために、あるいは強制的に音を奪われるために。

「お前も、その一人だ。お前は怪談を書き、死者の声を商売にしてきた。だから、奴らがお前を選んだ。自分たちの声を、もっとも効率よく拡散してくれるスピーカーとしてな」

 老人が指差した先。

 そこには、隼人が今まで取材してきた「心霊スポット」の音が、霧のような形をして漂っていた。

 彼が安易に録音し、コンテンツとして消費してきた音たちが、今や牙を剥いて彼自身を構成する一部になろうとしている。

「……俺は、音になるのか?」

 隼人が問いかけると、老人は満足げに頷いた。

「そうだ。肉体はやがて朽ち、お前の意識は一つの『旋律』となってこの壁に刻まれる。そして、次にこの家を訪れる者の耳を、内側から食い破るのだ」

 その時、隼人の脳裏にある記憶がフラッシュバックした。

 幼い頃、彼は一度だけ、これと同じ音を聞いたことがあった。

 入院していた祖父の病室。死の直前、祖父は隼人の耳元で何かを囁いた。

 当時は聞き取れなかったその言葉が、今、鮮明な音像となって蘇る。

『……聞くな。決して、合わせるな』

 祖父もまた、この「音」に追われていたのだ。

 佐伯の血筋に流れる、異質な聴覚。

 隼人がライターとして心霊事象に惹かれたのは、偶然ではなく、血に刻まれた呪いだった。

 隼人は残った力を振り絞り、懐のICレコーダーを握りしめた。

 このまま「音」に飲み込まれるわけにはいかない。

 もし自分自身が音になるというのなら、その波形を無理やり書き換えてやる。


 彼はレコーダーの逆転再生ボタンと、最大増幅ブーストのスイッチを同時に押し込んだ。

 物理的な音ではなく、自らの「意思」というエネルギーを、デジタルの回路に流し込む。

「……全部、消えてしまえ!」

 隼人が叫ぶと同時に、レコーダーから凄まじいハウリング音が立ち昇った。

 それは、壁の中に蓄積された数百年分の「執着の音」を打ち消す、逆位相の衝撃波だった。

 パリン、パリンと、壁の補聴器たちが次々と粉砕されていく。

 老人の顔にある「耳」が悲鳴を上げ、一つ、また一つと弾け飛んだ。


 しかし、その代償は大きかった。

 衝撃波の反動で、隼人の意識そのものが、バラバラのノイズとなって霧散し始めた。

 視界が暗転し、自分という個体の境界線が溶けていく。


 最後に聞こえたのは、あの女の声だった。

 だが、その声はもはや呪いではなく、どこか哀れみに満ちた響きを帯びていた。


『……静かに、おやすみなさい』

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