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残響の家 5

5 静寂の終焉


 意識の境界線が、墨汁を垂らした水のように、暗闇の中へと溶け出していく。

 隼人はもはや、自分の肉体の輪郭を保つことができなかった。

 手足の感覚は、遠い昔に聞いた古い旋律のように曖昧になり、代わりに「自分」という存在そのものが一つの微弱な電気信号、あるいは一定の周波数へと変換されていく感覚があった。

 壁の中。そこは、この世のあらゆる「忘れ去られた音」が堆積するゴミ捨て場であり、同時に荘厳な聖域でもあった。

 崩壊したはずの隙間廊下は、隼人の意識を飲み込むことで再びその構造を再構築していた。壁一面にびっしりと敷き詰められた補聴器、錆びた集音ラッパ、そして人間の耳を模した土くれ。それらが一斉に、隼人の侵入を祝うように「カチ、カチ」と乾いた音を立てて脈動している。

『……お前も、ようやく理解しただろう』

 あの老人の声が、地底から響く地鳴りのように脳内に直接流し込まれた。

 老人は、もはや人の形を留めてはいなかった。無数の耳が折り重なり、一つの巨大な肉塊となって壁に張り付いている。

『人は死ねば、肉体は土に還る。だが、その者が発した「声」や、その者が聞いた「最期の記憶」は、行き場を失って空を彷徨う。この家は、それらを集めて繋ぎ止めるための、巨大な蓄音機なのだ』

 老人の肉塊から、一つの「音」が溢れ出した。

 それは、隼人がかつて心霊スポットで録音した、正体不明の呻き声だった。

『……ああ、苦しい……寒い……』

 続いて、別の音が重なる。それは彼が金のために、さも真実であるかのように捏造した、嘘の怪談のナレーションだ。

 それらの音が、隼人の魂に容赦なくこびりつき、重りとなって彼を暗闇の底へと引きずり込んでいく。

「……これが、俺の正体か」

 隼人は、自嘲気味に思った。

 自分は真実を伝えるライターなどではなかった。

 他人の不幸や死者の叫びを「コンテンツ」として消費し、再生数や報酬という快楽に変えてきた「音の盗人」に過ぎない。

 この家の怪異は、彼がこれまでに奪ってきた音たちの復讐でもあった。

 壁が、じわじわと隼人の「心」を圧迫してくる。

 意識が完全に消滅し、ただの「記録データ」として壁の一部になるまで、あと数分もないだろう。

 その時、極限まで研ぎ澄まされた隼人の意識が、ある異質な音を捉えた。


 ピッ。


 それは、彼が床に落としたはずの、ICレコーダーの電子音だった。

 静寂を貫くその音は、これまでに聞いたどんな怪異の音よりも鋭く、そして現実的だった。

「……そうだ。俺は、まだ録音している」

 隼人は、自分が最後の力を振り絞って、レコーダーの「録音」ボタンを押しっぱなしにしていたことを思い出した。

 彼のライターとしての本能。

 それは、どんなに醜い自分であっても、どんなに恐ろしい結末であっても、それを「記録」し、形に残すという、祈りにも似た執着だった。

「俺自身を、上書きしてやる」

 隼人は、自分という「音の波形」を、死者たちの怨念に合わせて同調させるのをやめた。

 代わりに、彼は自分自身の「鼓動」にすべての意識を集中させた。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 それは、まだ生きている人間だけが発することができる、力強い低周波の振動だ。

 彼はその鼓動を、ICレコーダーのデジタル回路に流し込むイメージを持った。

 生きた人間の、生の執着というノイズ。

 それは、死者の声を蒐集するこの屋敷にとって、もっとも猛毒となる「異物」だった。

「消えろ! 俺の音は、俺だけのものだ!」

 隼人の叫びが、屋敷全体の周波数と激しく干渉し、凄まじいハウリングを引き起こした。

 ギィィィィィィィィィィィン!

 壁に打ち付けられた補聴器が、一斉に高熱を発して発火し始める。

 蓄音機のホーンがねじ切れ、隙間廊下の構造そのものが、音圧によって内側から爆発するように粉砕されていった。

 光。

 真っ白な、何も聞こえないほどの白い光が、隼人の意識を包み込んだ。


 目が覚めると、隼人は庭の冷たい土の上に倒れていた。

 頬を撫でる風の音。

 遠くで聞こえる、夜明けを告げるカラスの声。

 近くの道路を走る、新聞配達のバイクのエンジン音。

 それは、かつて彼が「うるさい」と忌み嫌った、ありふれた、そして愛おしい世界の音だった。

 隼人はよろよろと立ち上がり、家を見上げた。

 朝日を浴びた古民家は、どこにでもある、ただの古びた空き家に見えた。

 剥がしたはずの壁も、血塗れになったはずの洗面所も、そこにはなかった。

 まるで、最初から何も起きていなかったかのように、家は沈黙を守っていた。

 隼人は震える足でリビングに入り、机の上に置かれたICレコーダーを手に取った。

 バッテリーは残りわずかで、液晶が点滅している。

 そこには、昨夜の惨劇の間、ずっと録音され続けていたはずのデータが残されていた。

 彼は、再生ボタンを押すのを躊躇った。

 もし、そこにあの老人の声や、自分の悲鳴が入っていたら。

 あるいは、自分が「音」に変えられていく過程が記録されていたら。

 しかし、彼は意を決してボタンを押した。


「…………」

 スピーカーからは、何の音も聞こえなかった。

 ただの、無音だ。

 背景のノイズすら入っていない、真空のような、完璧な静寂。

「……やっぱり、全部夢だったのか」

 隼人は力なく笑い、レコーダーを置こうとした。

 その時、レコーダーの画面に表示されている「ファイル名」が、ノイズのように歪んだ。

『REC_20260415_HAYATO.wav』

 そのファイル名が、ゆっくりと、まるで目に見えない誰かが文字を書き換えているかのように変形していく。

『……アリガトウ……ゴチソウサマ……』

 隼人の背筋を、氷のような寒気が走った。

 ふと見ると、レコーダーの底面に、小さな、しかし深い「引っ掻き傷」がついていた。

 それは、あの壁の中にいた老人が、指先で何かを刻んだ跡のようにも見えた。


 隼人はその日のうちに、必要最小限の荷物だけをまとめて家を飛び出した。

 ライターの仕事も、ポッドキャストの企画も、すべてを捨てた。

 彼は今、都心のど真ん中、二十四時間絶え間なく喧騒が鳴り響く、防音性の低い安アパートに住んでいる。

 静寂は、もう二度と欲しくなかった。

 静寂の中にこそ、奴らは潜んでいる。


 夜、寝る前に彼は必ず、大音量でテレビをつけ、換気扇を回し、ノイズに身を委ねる。

 それでも、眠りに落ちる直前、自分の鼓動の合間に、ふと聞こえることがある。


 カチッ。


 それは、自分自身の人生が、今も誰かによって、どこかの壁の内側で「録音」され続けている音。

 そして、その録音が終わったとき、自分は再びあの場所へ連れ戻されるのだということを、彼は本能で理解していた。

 隼人は耳を塞ぎ、テレビの音量をさらに上げた。


 その震える指先は、今や、音を蒐集していたあの老人のものと同じように、白く細く、枯れ果てていた。

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