軋む十三段目 1
1 噂の十三段目
校舎の最北端、夕闇に沈むその場所だけは、昼間であっても空気が淀んでいた。
私立聖蓮高校の旧校舎は、その役目を終えて久しいが、音楽室や図書室の一部がまだ現役であるために、生徒たちの足跡が途切れることはない。しかし、三階へと続く「北階段」だけは別だった。
そこには、古くから伝わる「十三段目の怪」があった。
高校二年生の結城 拓海は、放課後の図書室で借りたばかりの古い文献を抱え、薄暗い廊下を歩いていた。西日はすでに地平線の彼方へ没し、窓の外は群青色と墨色が混じり合う不気味な階調を帯びている。
「……あそこを通るしかないのか」
拓海は北階段の前に立ち、喉を鳴らした。普段なら遠回りをして中央階段を使うところだが、あいにく中央廊下はワックスがけの最中で立ち入り禁止になっている。
目の前の階段は、使い古されたリノリウムが剥げ落ち、コンクリートの地肌が剥き出しになっていた。天井の蛍光灯は寿命が近いのか、ジッ、ジッ、という耳障りな音を立てながら、不規則に明滅を繰り返している。
一段、足を踏み出す。
ひんやりとした冷気が、ローファーの底を抜けて足首まで這い上がってきた。
一段、二段。
拓海は、心臓の鼓動を鎮めるように深く息を吸い込んだ。鼻腔を突くのは、埃の匂いと、雨漏りが放置された後に残る特有のカビ臭さ、そして——なぜか、微かな「沈丁花」の香りだった。季節外れの、どこか甘ったるく、吐き気を催すような香り。
「五、六、七……」
声に出して数えることで、恐怖を紛らわせようとした。
踊り場に着く。そこには、歴代の校長たちの肖像画が並んでいた。煤けた額縁の中で、彼らの瞳は一様に虚空を見つめている。しかし、明滅する光の中で、一瞬だけ、その瞳が自分を追っているような錯覚に陥った。
拓海は視線を足元に戻し、再び登り始めた。
この階段は、本来は十二段しかないはずだった。
だが、午後六時を過ぎて一人で登るとき、存在しないはずの「十三段目」が現れるという。そして、その段を踏み抜いてしまった者は、二度と踊り場へは戻れない。
「九、十、十一……」
次が最後だ。十二段目を踏み、三階の廊下に足を乗せれば終わりだ。
拓海は、目の前の一段に右足を乗せた。
みしっ。
乾いた音が響いた。古い建物特有の軋み。しかし、その感触がおかしかった。
硬いコンクリートの感触ではない。まるで、何層にも重なった濡れた布、あるいは「肉」を踏みしめたような、弾力のある、ぬちゃりとした手応え。
拓海は凍りついた。
視線をゆっくりと下に向ける。
そこには、あるはずのない段差があった。
十二段目の先、三階の床面との間に、歪な、腐った木材のような質感の「十三段目」が、口を開けるようにして存在していた。
拓海が踏みしめているのは、まさにその場所だった。
「……ぁ」
声が出ない。
逃げようと足を引き抜こうとしたが、靴の裏が何かに張り付いているように離れない。
よく見ると、十三段目の表面から、無数の細い「糸」のようなものが伸びていた。いや、それは糸ではない。湿った、長い黒髪だ。それが拓海のローファーを幾重にも巻き込み、階段の奥へと引きずり込もうとしている。
その時、踊り場の肖像画が一斉にガタガタと震え始めた。
肖像画の老人たちの口が、絵の具のひび割れを広げるようにして開き、そこからどろりとした黒い液体が溢れ出す。
『……たりない……』
誰の耳にも届かないはずの低い声が、階段の空間全体に反響した。
『……まだ、たりない……』
拓海は必死に図書の角を階段の隙間に突き立て、テコの原理で足を引き剥がそうとした。
「う、うあああああ!」
渾身の力を込めた瞬間、ブチブチという嫌な音がして髪の毛が千切れた。拓海はそのまま後ろの踊り場へ転げ落ちた。
手に持っていた本がバラバラと散らばり、床に叩きつけられる。
彼は息を切らしながら、三階へと続く階段を見上げた。
そこには、もう「十三段目」はなかった。
あるのは、見慣れた十二段の、ただの古びた階段だけだ。
しかし、拓海が今踏んでいた場所には、べっとりと、赤黒い、粘り気のある液体がこびりついていた。
そして、闇の中から——階段の影の、さらに深い場所から。
白い、節くれ立った「指」が、ゆっくりと十二段目の縁を掴むのが見えた。
指先には爪がなく、代わりに小さな「耳」がいくつも芽吹いていた。
拓海は本を拾うことも忘れ、一階へと駆け下りた。
背後で、あの「沈丁花」の香りが、爆発的に強まったのを感じながら。
一階のホールに辿り着き、外の冷たい空気に触れたとき、彼は自分の右足に違和感を覚えた。
ローファーの踵の部分に、小さな、しかし鋭い「歯形」が刻まれていた。
まるで、階段そのものが彼を食べようとしたかのように。
校舎の窓に目をやると、北階段の踊り場の明かりが、一度だけ強く瞬いて消えた。
闇に沈んだその窓に、誰かが貼り付いている。
それは、自分と同じ制服を着た、しかし「顔の中身がすべて耳」で埋め尽くされた何かだった。




