軋む十三段目 2
2 鳴り止まない理科室
あの一件以来、拓海の耳には奇妙な残響がこびりついて離れなかった。
授業中、チョークが黒板を叩く音は、誰かの指の骨が折れる音のように響き、休み時間の喧騒は、水底で藻掻く人々の悲鳴のように聞こえる。
放課後、拓海は理科準備室に呼び出されていた。クラスの備品係として、明日の実験で使う顕微鏡の点検を任されたからだ。かつての北階段での恐怖を忘れようと、彼は努めて明るい中央階段を使い、三階の理科室へと向かった。
理科室の重い木の扉を開けると、夕暮れの赤い光が、標本瓶の中に満たされたホルマリンを毒々しく照らしていた。カエルの胎児、切断された肺、そして——どこか人間味を帯びた眼球。それらがガラス越しに拓海を凝視しているような気がして、彼は視線を逸らし、奥の準備室へと急いだ。
「さっさと終わらせて帰ろう」
拓海は作業机に顕微鏡を並べ、反射鏡の角度を調整した。
その時、部屋の隅に置かれた「人体模型」が、視界の端でわずかに揺れた。
ガタ、という乾いた音。
拓海は手を止め、模型を振り返った。プラスチック製の臓器が剥き出しになったその模型は、いつも通り無機質な表情で立っている。しかし、その耳の穴があるべき場所に、小さな「肉の芽」のようなものが突き出しているのが見えた。
ギチ、ギチ、ギチ。
どこからか、硬いものが擦れ合う音が聞こえ始めた。
拓海は顕微鏡の接眼レンズを覗き込み、ピントを合わせた。プレパラートの上には、植物の細胞断面があるはずだった。
だが、レンズ越しに見えたのは、細胞ではなかった。
それは、幾重にも重なり合い、蠢く「人間の鼓膜」の群れだった。
それらはレンズの向こう側で、まるで呼吸するように波打ち、微かな音を立てている。
『……きかせて……』
耳元で、湿った吐息がした。
拓海は椅子を蹴るようにして立ち上がった。背後には誰もいない。だが、理科室全体を満たす「音」が、明らかに変化していた。
水道の蛇口から滴る水の音が、メトロノームのように正確なリズムで、次第に大きくなっていく。
ポチャン。
ポチャン。
ポチャン。
その音が響くたびに、理科室の床が、壁が、そして天井が、まるで巨大な生き物の喉のように脈動を始めた。
ふと見ると、先ほどの人体模型が、数歩こちらに近づいていた。
その足取りは音もなく、ただ模型の関節が軋む「ギチッ」という音だけが、拓海の脳内に直接響く。
「くるな……」
拓海は理科室の扉へ向かって走り出した。だが、扉のノブに手をかけた瞬間、ノブがヌルリと湿った感触に変わった。
それは金属ではなかった。誰かの、切り取られたばかりの「耳」だった。
「うわあああ!」
拓海は手を引っ込め、後退した。
その時、理科室にあるすべての標本瓶が、一斉に共鳴を始めた。
キィィィィィンという、鼓膜を切り裂くような高周波。
瓶の中のホルマリンが激しく波立ち、中の標本たちが一斉にこちらを向く。
そして、人体模型の口が、蝶番が外れたような不自然な角度で開き、そこから大量の「耳栓」のような石膏の破片が溢れ出した。
『……逃げても無駄だ。お前はもう、あの階段に「聴かれた」んだから』
模型の声は、拓海の亡くなった祖父の声に似ていた。
拓海は恐怖で視界が歪む中、床に置かれた薬品瓶を手に取り、模型に向かって投げつけた。
ガシャン、と派手な音がして瓶が割れ、鼻を突くアンモニア臭が広がった。その瞬間、理科室を支配していた音の狂気が一瞬だけ凪いだ。
彼はその隙を見逃さず、今度は力任せに扉を体当たりで開けた。
廊下に飛び出し、無我夢中で走り続ける。
背後からは、何百、何千という「スリッパが床を叩く音」が追いかけてきた。だが、中央階段まで辿り着くと、その音はピタリと止んだ。
拓海は階段の手すりにしがみつき、荒い息を吐いた。
冷や汗で制服が背中に張り付いている。
ふと、自分の左耳に違和感を覚え、手をやった。
指先に、何か硬いものが触れた。
鏡を見るまでもなく、彼は察した。
左耳の穴の中に、理科室にあった顕微鏡の「接眼レンズ」が、皮膚を突き破って埋め込まれていた。
レンズの向こう側、拓海の脳内では、あの人体模型が今も静かに笑いながら、階段を一段ずつ登る音を奏で続けていた。




