軋む十三段目 3
3 図書室の無声悲鳴
学校の中で最も「静寂」が尊ばれる場所。それが、旧校舎の隅に位置する第二図書室だった。
左耳のレンズが捉える視界は、常にセピア色に濁り、音の強弱が空気の揺らぎとして可視化されている。拓海はその異常な感覚を抑え込むため、静まり返った図書室の奥、背の高い書架の間に身を潜めていた。
「静かにしなきゃ……音が、見えてしまう」
拓海は机に突っ伏し、右耳を強く押し当てた。しかし、静寂であればあるほど、左耳のレンズは鋭敏に反応する。
本棚の隙間を抜ける微風が、鋭い「線」となって視界を横切る。古い紙が湿気を吸って膨らむ音が、重苦しい「斑点」となって床を埋め尽くす。
その時、誰もいないはずの閲覧席の向こうから、カサリ、と乾いた音が響いた。
左耳の視界の中で、その音は漆黒の「棘」となって立ち上がった。
拓海は恐る恐る顔を上げ、書架の隙間から覗き込んだ。
そこには、一人の女子生徒が座っていた。
彼女は古い革装丁の本を広げ、指先で熱心に文字をなぞっている。だが、その指先が紙に触れるたび、図書室の空気が悲鳴を上げるように歪むのが見えた。
彼女がページをめくる。
バリッ。
それは紙のめくれる音ではなく、乾燥した皮膚が剥がれるような、生々しく不快な響きだった。
「ねえ、君……」
拓海が声をかけると、彼女はゆっくりと首を巡らせた。
その顔を見た瞬間、拓海は肺の中の空気が凍りつくのを感じた。
彼女には「目」がなかった。両目の眼窩には、びっしりと古びた「辞書のページ」が詰め込まれ、そこには「沈黙」「絶命」「埋葬」といった不吉な語句が黒々と印字されていた。
『……しずかに。言葉が、こぼれてしまうから……』
彼女が口を開くと、声として発せられるはずの振動は、無数の「活字」となって彼女の口から溢れ出した。
金属製の活字が床に落ち、カチカチと硬い音を立てて拓海の足元まで転がってくる。
拓海は後退したが、背後の書架が生き物のようにせり出し、彼の逃げ道を塞いだ。
図書室のすべての本が、一斉に羽ばたきを始めた。
数千冊という本のページが猛烈な勢いでめくれ、そこから「声」が解き放たれる。
それは、かつてこの場所で本を読んだ人々が、心の中で呟いた無数の雑念。嫉妬、悩み、呪い、そして死への憧憬。
音のない悲鳴が図書室を埋め尽くし、拓海の左耳のレンズは、その「音の暴力」を真っ赤な閃光として映し出した。
『聴いて。私たちの、綴られなかった最期を』
女子生徒が立ち上がり、拓海に歩み寄る。彼女の体からは、皮膚の代わりに薄い紙が剥がれ落ち、その下には血管のように張り巡らされた「文章」が蠢いていた。
彼女が拓海の左耳に手を伸ばす。その指先は、細長く尖った「万年筆のペン先」に変化していた。
「やめろ、来ないでくれ!」
拓海は近くにあった重厚な百科事典を掴み、彼女に向けて振り回した。事典が彼女の顔に当たると、紙の束が飛び散るような音がして、彼女の輪郭が一時的に崩れた。
しかし、飛び散った紙の一片一片が、拓海の喉や腕に吸い付いた。
紙が肌に触れた場所から、墨汁のような冷たさが染み込み、彼の肉体に「文字」が刻まれていく。
拓海は激痛に喘ぎながら、出口へと這いずった。
図書室の床はいつの間にか、底なしの「インクの沼」へと変貌していた。
沈み込む体。視界を埋め尽くす文字。
耳元のレンズが、最後にある言葉を映し出した。
【第十三段目は、まだ、開いている】
その文字が網膜に焼き付いた瞬間、拓海は図書室の重い扉を突き破って廊下へと転がり出た。
廊下の冷たいタイルの感触に、彼はようやく自分を取り戻した。
自分の腕を見ると、そこには決して消えないであろう、青黒い文字の列が、刺青のように刻まれていた。
それは、彼が北階段で踏み抜いた「十三段目」の、詳細な設計図だった。




