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常盤木の檻 3

3 腐葉土の遺言


 二階の角部屋。


 唯一の退路であった窓の外さえも、巨大な枝葉によって編み上げられた緑の壁に閉ざされていた。


 秋山蓮は、暗転した室内でカッターナイフを構え、床板を突き破って現れた「口」を見据えていた。


 それは蕾が開いたものだった。


 だが、その内側にあるのは花ではない。


 同心円状に並ぶ無数の鋭い牙と、絶えず粘液を溢れさせる肥大した舌。


 呼吸をするように、ゆっくりと開閉を繰り返している。


「蓮くん……寂しいよ……」


 その口が、亡き父の声で鳴いた。


 耳の奥に染み込むような、懐かしい声。


 それがかえって、現実を歪ませる。


「黙れ! お前なんか、父さんじゃない!」


 蓮は叫びながら、手近にあった厚手の植物図鑑を掴み、全力でその口へ叩き込んだ。


 バリバリ、と凄まじい音が響く。


 硬いハードカバーが一瞬で裂け、紙片となり、緑の粘液に塗れて飲み込まれていく。


 その様子は、まるで本が生き物に喰われているようだった。


 その隙を逃さず、蓮は部屋を飛び出した。


 廊下にはすでに蔓が這い回り、足元を絡め取ろうとしてくる。


 滑るようにそれを避けながら、蓮は階段を駆け下りた。


 一段踏み外せば、そのまま飲み込まれる。


 そんな確信めいた恐怖が、足を速めた。


 一階に降りた瞬間、空気が変わる。


 湿り気を帯びた重い空気が、肺の奥にまとわりつく。


 かつての家の面影は、もはやどこにもなかった。


 天井からは肉厚な根が無数に垂れ下がり、血管のように脈打っている。


 壁一面を覆う葉の裏側には、何百もの「目」が浮かび上がっていた。


 それらが一斉に、蓮を見ている。


 視線が絡みつく。


 逃げ場がない。


「……逃げなきゃ……どこかに、出口が……」


 息を荒げながら、蓮は必死に視線を彷徨わせた。


 そして、かつてキッチンだった場所へと転がり込む。


 そこは、他の場所よりもさらに異様だった。


 空気は濃く淀み、甘ったるい腐敗臭が鼻腔を焼く。


 床一面が、黒ずんだ泥のようなもので覆われている。


 それはただの土ではない。


 腐葉土だった。


 ズブッ、と音を立てて、右足が深く沈み込む。


「うわっ!」


 バランスを崩し、思わず手をついた。


 その瞬間、掌に伝わる硬い感触。


 泥の中に、何かがある。


 恐る恐る掻き分ける。


 白いものが現れる。


 骨だった。


 人間の骨。


 さらに掘る。


 また骨。


 いくつも、いくつも。


 絡みつく根に絡め取られ、逃げ場を失ったまま、ここで朽ち果てた者たち。


 蓮の呼吸が乱れる。


 吐き気がこみ上げる。


 だが、目を逸らすことはできなかった。


 その中の一体が、何かを抱えている。


 古びた、防水加工のビニール袋。


 骨ばった指が、それを守るように握りしめていた。


 蓮は歯を食いしばり、それを引き剥がす。


 袋の中には、一冊のボロボロの日記帳と、数枚のポラロイド写真。


 震える手で日記を開く。


 紙は湿気を吸い、ところどころ波打っている。


 それでも、文字は読めた。


『六月十日。娘が、庭に見たこともない芽を見つけたと言って喜んでいる。赤い筋が入った、珍しい芽だ』


『六月十五日。芽の成長が異常に早い。一晩で一メートルも伸びた。娘がその木と会話をしている。気味が悪い』


 ページをめくるたびに、文字が荒れていく。


 筆圧が強くなり、線が歪む。


 恐怖がそのまま刻まれている。


『六月二十日。妻が消えた。家中を探したがどこにもいない。庭の木が、妻の形をした花を咲かせている。あれは妻だ。間違いない』


 インクが滲み、ところどころ判読できない。


 だが、意味は十分に伝わる。


『妻が笑いながら、私を根の下へ誘っている』


 蓮の喉が乾く。


 ページをめくる指が震える。


 後半になると、文章はほとんど崩壊していた。


『奴は「常盤」ではない。絶え間なく生贄を喰らい、その記憶をコピーして増殖する、知性を持った菌糸の集合体だ』


『弱点は、心臓部にある「核」』


『それは、最初の一人が埋められた場所に――』


 そこで文章は途切れていた。


 最後のページは、赤黒い液体で塗り潰されている。


 だが、袋に残されていた写真が、続きを語っていた。


 幼い少女が、裏庭にしゃがみ込み、小さな苗木に何かを与えている。


 よく見ると、それは水ではない。


 指先から滴る、赤い液体。


 血だった。


「……水じゃないなら、何を食ってるんだ……」


 蓮は、あの手紙の言葉を思い出す。


 答えは、もう目の前にあった。


 この植物が欲しているのは、ただの栄養ではない。


 人間の血。


 そして、その中に含まれる記憶や感情。


 絶望。


 愛着。


 そうしたものすべてを取り込み、増殖している。


 そのとき、キッチンの床が大きく盛り上がった。


 腐葉土が波打つ。


 骨が軋む。


「……日記、読んでくれた?」


 背後から声がした。


 少女の声。


 振り返る。


 床下収納の扉が内側から弾け飛ぶ。


 そこから這い出してきたのは、上半身だけが人の形をした異形だった。


 顔は、写真の少女と同じ。


 だが、皮膚は木の皮のようにひび割れ、隙間から緑が覗いている。


 髪は一本一本が蔓となり、ゆっくりと空中を這うように動いていた。


 目は濁り、しかし確かに蓮を見ている。


「お父さんも、あそこにいるよ」


 少女は微笑む。


 その笑みは、あまりにも無邪気だった。


 「蓮くんも、いっしょに寝よう?」


 差し出された手。


 その掌から、無数の細い根が伸びる。


 針のように鋭く、わずかに震えている。


 蓮は後ずさる。


 だが、足元は腐葉土。


 逃げ場は限られている。


 日記を抱きしめる。


 これが唯一の手がかりだと、本能が告げていた。


 蓮は踵を返し、キッチンの裏手にある勝手口へと走った。


 勢いのまま、体当たりする。


 扉が軋み、開く。


 外へ……


 だが、その先に広がっていたのは、夜ではなかった。


 無数の花。


 びっしりと咲き誇るそれらが、すべてこちらを向いている。


 その中心にあるのは、見覚えのある顔。


 自分の顔だった。


 蓮の顔をした花々が、一斉に口を開く。


「帰ってきたね」


 囁きが重なり、空間を満たす。


 その声は、確かに蓮自身のものだった。


 背後では、少女がゆっくりと這い寄ってくる気配。


 前方には、自分の顔をした花の群れ。


 蓮はその場に立ち尽くした。


 逃げ場は、もうどこにもなかった。

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