常盤木の檻 4
4 供物の反逆
勝手口の向こう側に広がっていたのは、夜の闇ではなかった。
そこには、天井から無数の花が吊り下げられていた。
そのすべてが、秋山蓮の顔をしていた。
「……ああ、僕だ。僕がたくさんいる」
蓮は、乾いた声でそう呟いた。
現実感が剥がれ落ち、思考が遠のいていく。
花びらは人の皮膚のような質感を持ち、うっすらと血管が浮き出ている。
それらは風もないのに微かに揺れ、互いの蔓を絡ませ合いながら、くぐもった笑い声を漏らしていた。
クスクス、と。
無数の自分が、自分を嘲笑っている。
甘ったるい死臭が、むせ返るほどに濃く漂っていた。
肺に入り込むたびに、吐き気と同時に奇妙な安心感が広がる。
ここにいれば楽になれる――そんな錯覚が、思考の奥底から湧き上がってくる。
「蓮くん、こっちにおいで。もう、痛くないよ」
背後から、少女の声。
振り返らなくてもわかる。
あれはもう、人間ではない。
それでも、その声にはどこか救いの響きがあった。
蓮は歯を食いしばり、意識を引き戻す。
ここで立ち止まれば、終わる。
「……ふざけるな」
低く呟いた瞬間、身体が動いた。
咄嗟にキッチンカウンターへ手を伸ばし、業務用の漂白剤のボトルを掴む。
振り返りざまに、それを怪物へと投げつけた。
バシャリ、と液体が飛び散る。
強烈な塩素の臭いが、一気に空気を塗り替えた。
「ギィィィヤアアア!」
少女の形をしたものが、甲高い悲鳴を上げる。
その身体が、触れた部分から黒く変色し、崩れ始めた。
蔓が焼けるように縮み、肉のような部分が溶け落ちる。
だが、それは一瞬の効果に過ぎなかった。
周囲の太い根が即座に蠢き、損壊した部分を覆い隠す。
まるで修復するかのように、新しい組織が再構成されていく。
再生。
いや、再編成。
この存在は、個ではない。
ひとつの巨大な意志そのものだ。
「……だったら」
蓮は息を荒げながら、日記を強く握りしめた。
そして、キッチンへと駆け戻る。
視界の端で、少女の怪物が再び形を取り戻し、こちらへ這い寄ってくるのが見えた。
だが、もう振り返らない。
蓮は床下収納の扉を蹴り飛ばし、その穴へと身を投げ込んだ。
土の匂いが、鼻腔を満たす。
湿った空気が肌にまとわりつく。
そこは、家の下に広がる空洞だった。
完全な闇。
だが、蓮の手の中のスマートフォンが、かすかに光を取り戻していた。
壊れたはずの機械。
それでも、最後の力を振り絞るように、淡い光を放っている。
その光が、空洞の奥を照らし出した。
蓮は息を呑んだ。
そこにあったのは、この家の基礎を完全に破壊し、大地に根を下ろした「それ」だった。
巨大な心臓。
だが、人間のものではない。
植物の根と絡み合い、歪に膨れ上がった異形の心臓。
ドクン、ドクン、と低く重い鼓動が、地面を震わせる。
その振動が、蓮の身体の内側にまで響いてくる。
「これだ……これが……」
日記の言葉が蘇る。
――核。
すべての中心。
すべての始まり。
心臓の表面には、無数の導管が走っていた。
それらが家のあらゆる場所へと繋がり、血液――犠牲者の痕跡を送り出している。
蓮はカッターナイフを握り直した。
だが、近づいた瞬間に理解する。
外皮は、異様なほどに硬い。
古木の皮のように分厚く、刃を受け付ける気配がない。
そのときだった。
足元の土が動いた。
無数の細い根が、蛇のように這い上がってくる。
「っ……!」
避ける間もなく、鋭い棘が足首に突き刺さった。
焼けるような痛み。
同時に、何かを吸い上げられる感覚。
血が、流れていく。
奪われていく。
だがそれは、ただの捕食ではなかった。
蓮は直感する。
これは「育てる」ための行為だ。
自分を苗床にしようとしている。
ゆっくりと、意識を残したまま取り込むつもりだ。
「……そうかよ」
蓮は、ふっと笑った。
自嘲とも、諦めとも違う笑み。
覚悟の笑みだった。
「食いたいなら、食わせてやる」
掠れた声で呟く。
「ただし……全部だ」
蓮は、懐からいくつかのボトルを取り出した。
物置に残されていた劇物。
高濃度の除草剤、未開封の殺虫剤、そしてシンナー。
それらを、震える手で開封する。
鼻を刺す刺激臭が、空気を満たした。
意識が遠のきそうになる。
だが、構わない。
どうせ、もう戻れない。
蓮はカッターナイフを自分の腕に押し当てた。
一瞬、ためらいがよぎる。
だが、すぐに消えた。
深く、引き裂く。
血が噴き出す。
その匂いに反応し、周囲の根が一斉に蠢いた。
飢えた獣のように、蓮へと殺到する。
蓮は笑った。
狂気に満ちた笑みだった。
血に、毒を混ぜる。
ボトルの中身を、躊躇なく流し込む。
皮膚を焼く感覚。
血管が軋む。
全身の細胞が悲鳴を上げる。
それでも、手は止めない。
「食え……!」
声を張り上げる。
「俺の全部を……記憶も、感情も、全部だ!」
根が腕に絡みつき、血を吸い上げる。
毒も一緒に、流れ込んでいく。
心臓へ。
核へ。
視界が赤く染まる。
音が遠ざかる。
だが、確かに伝わっていく感覚があった。
自分という存在が、逆流していく。
その瞬間。
家全体が震えた。
ドクン、と一際大きな鼓動。
そして……
「……ギ……アア……!」
苦悶の声が、あらゆる方向から響き渡る。
壁。
天井。
床。
すべてが悲鳴を上げている。
葉に浮かんでいた顔たちが、一斉に歪む。
口を開き、声にならない声を吐き出す。
天井の花々が、急速に萎れていく。
蓮の顔をしたそれらが、黒く腐り落ちる。
毒が、巡っている。
この巨大な存在の内部を、焼き尽くしている。
蓮の意識は、闇に沈んでいく。
だが、その奥で、何かを見た。
心臓のさらに奥。
絡みついた根の中心。
そこに、小さな影があった。
幼い少女。
あの写真の少女が、そこに立っている。
もう、怪物ではない。
普通の、子供の姿で。
彼女は、微笑んでいた。
穏やかに。
解放されたように。
そして、静かに振り返ると、霧の中へと歩き出す。
その姿が、ゆっくりと消えていく。
「……これで、終わりだ」
蓮は、心の中で呟いた。
重苦しい鼓動が、次第に弱まっていく。
やがて、止まる。
完全な静寂。
その直後、何かが崩れる音がした。
家を覆っていた巨大な檻が、音を立てて崩壊していく。
光が、差し込む。
だが蓮の目は、もうそれを見ることはなかった。
彼は静かに、闇の中へと沈んでいった。




