常盤木の檻 2
2 根を張る家
「……水じゃないなら、何を食ってるんだ」
秋山蓮は、蛇口から一定の間隔で落ちる水滴を、忌々しげに睨みつけていた。
滴るたびに、台所の静寂に小さな音が響く。
その単調なリズムが、かえって神経を逆撫でする。
郵便受けに入っていた無記名の手紙の文面が、何度も脳裏に浮かんでは消えた。
――水ではない。
ならば、あれは何を糧としているのか。
考えようとするたびに、昨日見た光景と、あの赤黒い液体の感触が蘇り、思考は不快なぬめりの中に沈み込んでいく。
植物は、日に日にその勢力を拡大していた。
一階の縁側は、すでに太い蔓によって完全に封鎖されている。
ガラス戸には内側から無数の細い根が張り付き、まるで毛細血管のようにびっしりと広がっていた。
陽光はそれらに遮られ、室内は昼間でも薄暗い。
それだけではない。
壁の隙間、畳の合わせ目、コンセントの穴。
家のあらゆる「口」から、あの青白い蔓が侵入してきていた。
壁紙の下を這い回り、ときおり内側から盛り上がるように脈打つ。
ゴリ、ゴリ、と鈍い音が壁の奥から響く。
それはまるで、この家そのものを咀嚼しているかのようだった。
蓮は歯を食いしばり、その音を意識の外へ追いやろうとした。
だが、音は消えない。
耳を塞いでも、骨を通して伝わってくるようだった。
蓮は、手元に残されたわずかな食料、コンビニのパンとペットボトルのお茶を抱え、二階の角部屋に引きこもっていた。
この部屋だけが、まだわずかに外の光を取り込める場所だった。
だがその光も、日に日に細くなっている。
まるで外界そのものが遠ざかっていくように。
バサリ、と一階で何かが倒れる音がした。
蓮の身体がびくりと跳ねる。
手にしていたカッターナイフを強く握りしめ、息を殺した。
この家には、自分以外いないはずだ。
そう何度も自分に言い聞かせる。
しかし、一階からは絶えず「生活音」が聞こえてくる。
誰かが台所で何かを刻む音。
水道をひねる音。
風呂場で水が流れる音。
そして、廊下を駆け抜ける軽い足音。
子供のものだ。
確かに、子供の足音だった。
現実と記憶が曖昧になり、蓮の中で境界が崩れていく。
「……蓮くん。お昼、できたわよ」
不意に、階段の下から声がした。
聞き覚えのある声。
忘れるはずのない声。
三ヶ月前に他界したはずの、母の声だった。
「嘘だ……そんなはず、ない……」
蓮は呟き、耳を強く塞いだ。
だが声は消えない。
外からではない。
頭の内側から響いてくる。
「何してるの? 早く降りてきなさい。冷めちゃうじゃない」
優しく、どこまでも懐かしい声。
幼い頃、何度も聞いた声音。
その温もりが、逆に蓮の理性を削っていく。
そして、その声が発せられるたびに、一階からあの甘ったるい死臭が濃く立ち上る。
匂いが、言葉と結びつく。
それが何よりも恐ろしかった。
蓮は、抗いきれない何かに引かれるように立ち上がった。
足が勝手に動く。
ドアを開け、廊下へ出る。
階段の上から、一階を見下ろした。
そこにあったのは、もはや知っている家ではなかった。
かつてリビングだった場所は、巨大な「内臓」のように変質していた。
天井からは肉厚な葉が垂れ下がり、その先端から粘液が滴り落ちる。
床は苔のようなものに覆われ、踏めば沈み込みそうなほど柔らかく見えた。
空気は湿り、重く、呼吸するたびに肺の奥まで侵されていくようだった。
その中心に、母が立っていた。
――いや、母の形をした何か。
腰から下は地面に沈み込み、太い根と一体化している。
皮膚はところどころ緑に変色し、ひび割れた隙間から細い蔓が覗いていた。
目と口からは蔓が出入りし、呼吸の代わりに蠢いている。
彼女が動くたびに、背後の壁から伸びた根が、操り人形の糸のように四肢を引いた。
「ほら、あなたの好きなハンバーグよ」
それは、かつての母と同じ調子で言った。
差し出されたのは皿ではなく、大きな葉。
その上に乗っているのは、赤黒く湿った肉の塊。
どこか見覚えのある色と質感。
それが何であるか、理解した瞬間、蓮の喉から声にならない叫びが漏れた。
「ああああああ!」
蓮は後退り、そのまま階段を駆け上がった。
部屋に飛び込み、ドアを閉め、鍵をかける。
手が震え、うまく回らない。
ようやく鍵をかけた瞬間、外からドアが揺れ始めた。
ガタガタ、と激しく震える。
母の声がする。
それに混じって、無数の声が重なっていく。
「傘、貸して……」
「おなかが、すいた……」
「ここから、出して……」
知らない声。
だが、どこかで聞いたような気がする声。
葉に浮かんでいた顔たち。
あれらが、声になっているのだと理解した瞬間、背筋が凍りついた。
この植物は、捕食した人間の記憶と声を取り込み、再現する。
そうして、新たな獲物を誘い込む。
あの手紙を書いた人間も……
そこまで考え、思考が止まった。
蓮は震える手でスマートフォンを取り出した。
助教授に連絡を取らなければならない。
誰かに、この異常を伝えなければ。
だが、画面は沈黙していた。
電源は入らない。
充電端子を覗き込んだ瞬間、息が止まる。
内部に、細い根が入り込んでいた。
基盤を食い荒らし、絡みついている。
機械すら例外ではない。
すべてが侵食されている。
パシッ、と音がした。
天井の電球が弾け、光が消える。
部屋は闇に沈んだ。
静寂。
いや、違う。
何かが、いる。
「見つけた」
足元から声がした。
ゆっくりと視線を落とす。
床板が盛り上がり、裂けている。
その隙間から、赤い蕾が現れていた。
脈打つように膨らみ、ゆっくりと開いていく。
花弁がほどける。
その内側にあったのは、花ではない。
無数の鋭い牙が並ぶ、巨大な口だった。
ぬらりと光り、粘液を滴らせながら開閉する。
「蓮くん……いっしょに、なろう?」
母の声。
父の声。
親友の声。
それらが重なり合い、不協和音のように響く。
蓮は悲鳴を飲み込み、窓へと駆け寄った。
ここから逃げるしかない。
鍵を外し、窓を開ける。
だが、その先に広がっていたのは外の世界ではなかった。
巨大な枝葉が、空を覆い尽くしている。
幾重にも絡み合い、檻のように家を包囲していた。
光はほとんど届かず、外界は完全に遮断されている。
蓮は理解した。
この家は、もう土地の上に建っているのではない。
巨大な何かの内部に取り込まれている。
ここは家ではない。
植物という怪物の、消化器官の中なのだ。
逃げ場は、どこにもなかった。




