レンズの向こうの境界線
そのデジタルカメラを拾ったのは、ひどく蒸し暑い、八月の終わりのことだった。
大学生の俺――坂口健二は、趣味の廃墟巡りの最中、千葉県の山奥にある、地図から消えかけた廃村を訪れていた。崩れかけた民家、湿った畳の匂い、そして窓枠に絡みつく不気味なほど青々とした蔦。その一角、村外れの小さな祠の脇に、それは落ちていた。
黒い、型落ちの一眼レフカメラ。
泥にまみれているわけでもなく、まるで誰かに見せつけるように、真っさらな石の上に置かれている。
本来なら触れるべきではない。廃墟に残された物は、そのままにしておくのが暗黙のルールだ。だが、その時の俺は、抗いがたい誘惑に駆られていた。
ファインダーの奥から、誰かがこちらを覗き返しているような感覚。
俺はそのカメラを拾い上げてしまった。
自室に持ち帰り、丁寧に汚れを拭き取る。バッテリーを充電し、電源を入れる。
液晶がチカチカと瞬き、やがて日付が表示された。
「……二〇二四年、八月三十日」
ちょうど二年前の、今日。
保存されている画像を確認する。
一枚、二枚、三枚。
そこに映っていたのは、俺が今日見てきた廃村の風景だった。だが、どこか違う。
もっと、鮮やかだ。
道端には季節外れの向日葵が咲き乱れ、空は吸い込まれるような深い藍色をしている。まるで、あの場所がまだ「生きていた」頃のような。
そして、十枚目。
俺は息を呑んだ。
そこには、一人の女が写っていた。
白いワンピース。長い黒髪。顔の半分が影に沈んでいる。
女は祠の前に立ち、まっすぐこちらを見ていた。
その瞳には、感情がなかった。
ただ、底のない穴のような黒だけがあった。
翌日から、異変は始まった。
写真を削除しようとしても、エラーが出て消せない。
それだけではない。
夜中になると、部屋のどこかでシャッター音が鳴る。
カシャッ。
カシャッ。
カシャッ。
暗闇の中で響く乾いた音に、俺は何度も飛び起きた。
電気をつける。
カメラは机の上に置かれたまま、何も変わっていない。
だが、液晶を確認すると、新しい写真が増えている。
それは――俺だった。
眠っている俺の顔。
真上から、至近距離で撮影された寝顔。
そして、その枕元に、写り込んでいるもの。
女の手。
青白く、不自然に長い指が、俺の首筋へと伸びている。
全身の血が引いた。
俺はカメラをゴミ袋に詰め、ベランダの隅へ放り投げた。
もう関わらない。
そう決めたはずだった。
だが、その日の午後。
大学の講義中、スマホが震え続けた。
通知欄が埋め尽くされている。
『新しい写真が共有されました』
共有相手などいない。
それなのに、クラウドに次々と画像がアップロードされていく。
映っているのは、キャンパス。食堂。図書館。
すべて、今この瞬間の俺のいる場所。
どの写真にも、彼女がいた。
最初は、遠く。
小さく。
だが、更新されるたびに、一歩ずつ近づいてくる。
柱の影から。
本棚の隙間から。
そして。
今、この教室の一番後ろから。
俺は振り返った。
誰もいない。
だが、スマホの画面には、確かに写っている。
俺のすぐ後ろで。
肩に顎を乗せるようにして。
女が、こちらを覗き込んでいる。
そして、レンズを指差していた。
俺は逃げ帰った。
アパートの鍵をすべて閉め、息を切らして玄関に寄りかかる。
その時。
足元に違和感を覚えた。
ベランダに捨てたはずのゴミ袋が、玄関に置かれている。
中から、カメラが転がり出ていた。
電源は入っている。
レンズキャップは外れ、黒い筒がゆっくりとせり出している。
まるで、生き物のように。
俺はそれを掴み、窓の外へ投げようとした。
その瞬間。
液晶に文字が浮かぶ。
『美しく撮って。もっと、近くで』
声はない。
だが、脳の奥に直接響く。
冷たい爪で内側をなぞられるような、不快な感覚。
気づくと、俺はカメラを構えていた。
抗えない。
右手の指が、自分の意思を離れて動く。
ファインダーを覗く。
そこに映っていたのは、廃村の祠。
赤い夕焼けに染まるその前に、女が立っている。
ゆっくりと、髪をかき上げる。
その顔には何もなかった。
目も、鼻も、口も。
ただ一つ。
顔の中央に、巨大なレンズが埋め込まれている。
ギュルギュルと音を立て、焦点を合わせる。
その奥に、怯える俺が映っている。
『次は、貴方が向こう側に来る番よ』
女の腕が伸びる。
液晶から、手が這い出してくる。
冷たい感触が首に絡みつく。
「やめろ……!」
俺は叫び、カメラを床に叩きつけた。
ガシャン!
レンズが砕ける。
甲高い異音が響き、やがてすべてが止まった。
しばらく、動けなかった。
床には、壊れたカメラの破片が散らばっている。
もう、何も起こらない。
静寂だけがある。
俺は震える手でSDカードを拾い上げた。
これを壊せば終わる。
そう思った、その時。
壁に違和感を覚えた。
カレンダーの横。
そこに、一枚の写真が貼られている。
見覚えのない写真。
ぼやけたポラロイド。
そこに写っているのは、今、この瞬間の俺の背中。
そして、その背中に張り付く影。
無数の目。
一眼レフ。スマホ。監視カメラ。
あらゆるレンズが、俺を見ている。
その時、理解した。
もう遅いのだと。
拾った瞬間から。
俺は「撮る側」ではなく、「撮られる側」に変わっていたのだと。
それ以来、鏡を見ることができない。
映る自分の瞳が、時折カチリと絞り羽根のように閉じるからだ。
外に出れば、すべてのレンズがこちらを向く。
車。スマホ。監視カメラ。
世界中の視線が、俺にフォーカスする。
シャッター音が、頭の奥で鳴り続ける。
そして今。
俺は再び、あの廃村へ向かっている。
足が止まらない。
右手には、元通りになったあのカメラ。
村の入り口。
祠が見える。
夕焼けが赤い。
俺は石の上にカメラを置いた。
そして、その場に座り込む。
体が、変わっていく。
皮膚が硬くなる。
感覚が薄れる。
意識が暗室に閉じ込められる。
右目が、レンズになる。
世界を「記録」するための器へと。
足音が聞こえる。
新しい誰かが来る。
俺は待つ。
静かに。
次の「撮り手」を。
やがて、手が伸びる。
カメラに触れる。
指が、シャッターにかかる。
俺はピントを合わせた。
完璧に。
美しく。
逃がさないように。
カシャッ。
世界が白く反転し、記憶が更新される。
そしてまた一つ、新しい「被写体」が、この世界に追加された。




