灰色のカーテンの向こう側 4
4 水没する街角
目を開けたとき、直人は冷たいアスファルトの上に倒れていた。
頬を打つ雨粒が、じりじりとした熱を伴って肌に触れる。 焼けるような感覚に、思わず顔をしかめる。
雨が熱いわけではない。
自分のほうが、変わってしまっているのだ。
もはや冷たさを受け止めるだけの「身体」ではなく、同質のものへと近づきつつある。
境界が曖昧になり、触れられるたびに混ざり合いそうになる。
「……っ、ここは……」
直人は腕をつき、ゆっくりと身を起こした。
視界は灰色に煙っている。
濃い霧のように、雨が空間そのものを覆い尽くしていた。
五メートル先ですら、形が判別できない。
「大学の近く……か?」
かすかな記憶を手繰り寄せる。
見覚えのある標識。
歪んだ電柱。
だが、それらはどこか現実から乖離しているようにも感じられた。
直人はふらつきながら立ち上がる。
足元が不安定だ。
地面にしっかりと立っている感覚がない。
自分の右腕に目をやる。
肘から先が、半透明に透けていた。
雨粒が当たるたび、その部分が波紋のように揺らぎ、形を変える。
輪郭が保てない。
このままでは――
直人は慌てて視線を逸らした。
街の様子が、おかしい。
昼のはずなのに、ビルの窓は、濁りきったガラスの向こうで光を失い、まるで死んだ魚の眼のようだった。
そして何より。
音がない。
これほど激しい雨が降っているのに、雨音が聞こえない。
ただ、重苦しい静寂だけが、街全体を覆い尽くしている。
音を吸い込むような、異様な無音。
自分の呼吸すら遠い。
世界から切り離されたような感覚に、直人の胸がざわめいた。
そのとき。
視界の端に、人影が揺れた。
路地裏。
ぼんやりとした輪郭の中に、誰かが立っている。
「おい……誰か……」
声をかけようとして、言葉が途切れた。
違和感。
いや――本能的な拒絶。
直人は、息を呑む。
街角に立つ人々。
彼らは、同じ動作を繰り返していた。
傘もささず。
ただ空を見上げ。
口を、大きく開けている。
雨を飲んでいる。
喉が上下に動くたび、水が体内へと流れ込む。
皮膚はぶよぶよと膨れ、形を失いかけている。
目からは涙ではなく、水が絶え間なく溢れ出していた。
人ではない。
すでに、「器」だけが残っている状態だった。
「傘……」
低い声がした。
「傘を……」
一人の老人が、ふらりと直人に近づいてくる。
その足取りは不自然に重く、しかし止まることがない。
直人は後ずさる。
だが、足が思うように動かない。
老人が手を伸ばす。
その指先が、直人の肌に触れた。
ぬるり、とした感触。
粘り気のある水が、皮膚を伝い、内側へと侵入してくる。
ぞわりとした悪寒が背筋を走る。
「これを持ってろ……」
老人が差し出したもの。
それはあの和傘だった。
骨が歪み、泥にまみれ、禍々しい気配を放つ傘。
「さもないと……あんたも『流される』ぞ」
直人の喉から、かすれた悲鳴が漏れた。
「いらない!」
反射的に腕を振るう。
「そんなもの……!」
傘を払いのける。
その瞬間。
老人の顔が、崩れた。
どろり、と。
皮膚が溶け落ちる。
その奥から無数の小さな影が現れた。
魚のようなもの。
透明で、ひらひらとしたそれらが、溶けた顔の奥から溢れ出し、空へと泳ぎ上がる。
雨粒に紛れ、どこかへ消えていく。
直人は言葉を失った。
街全体が、異様だった。
まるで巨大な濾過装置。
人間という形を崩し、水へと変え、記憶すら洗い流していく。
そして最終的には、ただの「雨」として還元される。
この街そのものが、一つの装置になっている。
理解した瞬間、全身に寒気が走った。
直人は駆け出した。
どこへ向かえばいいのかもわからない。
ただ、本能が「ここにいてはいけない」と叫んでいた。
まだ形を保っている左手で、胸元を強く押さえる。
そこに、異物がある。
鏡の破片。
まだ刺さったままだった。
痛みはない。
だが、その存在だけが、かろうじて自分を繋ぎ止めている。
破片に映る自分の顔。
歪み、崩れかけている。
それでも。
その中だけは雨が降っていなかった。
静止した世界。
濡れていない領域。
「……鏡だ」
かすれた声で呟く。
「鏡の中なら……濡れない」
直人の思考が、わずかに戻る。
断片的な記憶。
オカルト研究会の部室。
高木が集めていた資料。
三年前の事件。
あの偽物が口にした言葉。
もし、あの雨の正体に辿り着ければ。
止める方法が見つかるかもしれない。
直人は、大学へ向かって走り出した。
足元が揺らぐ。
形が崩れる。
それでも、止まらない。
駅前の広場に差し掛かったとき。
突然、巨大な電光掲示板がノイズを発して点灯した。
砂嵐のような映像。
その中から、ゆっくりと人影が浮かび上がる。
天気予報士。
見慣れたはずの姿。
だが、その顔はのっぺらぼうだった。
目も鼻もない。
ただ、平坦な皮膚だけが広がっている。
そして。
そこから聞こえてきた声は。
直人の母親の声だった。
『今日の天気は……永遠の雨です』
優しく、穏やかな声。
だが、その内容はあまりにも異様だった。
『みなさん、早く溶けてしまいましょう』
街中のスピーカーが、一斉に同じ声を響かせる。
『形があるのは、不自由なことですから』
その言葉が、頭の奥に染み込んでくる。
抗えない何か。
思考を溶かし、受け入れさせようとする圧力。
直人の足元が、ぐにゃりと歪んだ。
アスファルトが、水へと変わる。
固さが失われ、沈み込む。
底なしの沼のように、足を引きずり込んでいく。
「やめろ……!」
必死に足を引き抜こうとする。
「俺はまだ……消えたくない!」
叫びが、空気に吸い込まれる。
そのとき。
目の前に、影が現れた。
傘を差した人影。
透明なビニール傘。
その下にいる存在が、ゆっくりと顔を上げる。
それは、本物の高木によく似た顔をしていた。
だが、その中身は違う。
水でできた、歪な何か。
表情が揺らぎ、定まらない。
それでも、笑っているのがわかる。
「直人」
優しい声。
かつて聞いた、あの声。
「お前も『予報』の一部になれよ」
怪物が、傘を差し出す。
その影が、ゆっくりと広がる。
黒い水のように。
直人の足元から這い上がり、体を包み込む。
抗う暇もない。
視界が暗転する。
意識が引きずり込まれる。
どこまでも深い、闇の底へ。
直人は再び、沈んでいった。




