灰色のカーテンの向こう側 3
3 鏡面の境界
ドアの向こう側で、高木の声が繰り返される。
「直人、いるんだろ? 雨がひどいんだ、入れてくれよ」
その声音は、あまりにも自然だった。
聞き慣れた調子、わずかな癖、息継ぎの間。
すべてが、直人の知る高木そのものだった。
だが、直人は、ドアを開けることができなかった。
ノブを掴もうと伸ばした右手は、すでに「手」としての形を失い始めている。
指先から輪郭がほどけ、透明な水滴となって床へと落ちていく。
ぽたり。
ぽたり。
その一滴一滴が、濁った水溜まりに溶け込み、どこが自分だったのかさえ曖昧にしていく。
痛みはない。
だがそれが、かえって恐ろしかった。
代わりに全身を満たしているのは、言いようのない虚脱感。
自分という存在が、少しずつ薄められ、引き延ばされ、世界のどこにでもありふれた「水」へと還元されていくような感覚だった。
「……た、すけて……」
喉が震える。
だが、こぼれたのは言葉ではなかった。
ごぼり。
水泡が弾ける音だけが、空虚に響いた。
その瞬間。
ドアを叩く音が、ぴたりと止んだ。
訪れた沈黙は、不気味なほど重い。
次いで。
カチャリ。
鍵の回る音がした。
直人の心臓が、強く跳ねる。
鍵は、確かに自分でかけたはずだった。
だが、この部屋はもう「閉じられた空間」ではない。
境界は、すでに侵されている。
内と外の区別は、雨によって溶かされてしまったのだ。
ゆっくりと、ドアが開く。
そこに立っていたのは高木だった。
だが、それは「知っている高木」ではない。
その身体は、まるで濡れたガラス細工のように光を反射していた。
輪郭は揺らぎ、細部は滲み、服の繊維すらも水で編まれているかのように絶えず形を変えている。
顔もまた曖昧だった。
目も鼻も口もあるはずなのに、どこか定まらない。
それでも「高木の形」をしているというだけで、なおさら不気味だった。
「なんだ、もう溶け始めてるのか」
それは、ひどく平坦な声だった。
「早いな」
感情のない言葉が、静かに落ちる。
『高木』は一歩、部屋の中へ踏み込んだ。
水浸しの床を、まるで抵抗を感じていないかのように歩く。
足元に波紋が広がる。
その波が、直人の溶け落ちた一部を巻き込み、取り込んでいく。
自分が削られていくのがわかる。
それでも、抗う術はない。
『高木』は直人の前にしゃがみ込んだ。
視線が合う。
いや、合っている「気がする」だけだ。
「予報にない雨の日、振り返った者は『供物』になる」
静かに、語る。
「お前、高木に聞いたのか?」
一拍の間。
「……ああ、俺のことか」
口元が歪む。
笑っているのだと、遅れて理解する。
「本物の高木は、三年前の雨の日に消えたよ」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
「俺は奴の記憶と姿を借りて、次の『傘の持ち主』を探していただけだ」
直人の思考が、凍りつく。
オカルト研究会で、熱心に語っていたあの友人。
どこか楽しげで、少し誇らしげに怪談を語っていた姿。
そのすべてが偽物だった。
自分はずっと、「雨」に話しかけられていたのだ。
胸の奥が、空洞になる。
恐怖よりも先に、理解が追いつかない。
「返して……」
背後から、声がした。
あの女の声。
振り向かなくてもわかる。
窓の外にいたはずの存在が、すぐ背後に立っている。
冷たい気配が、首筋に触れる。
そして。
肩に、手が置かれた。
氷のように冷たい。
いや、それ以上に、濡れている。
「傘を返して……」
女は囁く。
「それから、あなたの『名前』も」
その言葉と同時に。
触れられた場所から、直人の輪郭が崩れていく。
肩が溶け、腕が流れ、存在そのものが希釈される。
自分が、自分でなくなっていく。
視界が揺れる。
その先に、鏡があった。
洗面台の鏡。
そこに映っているものを見て、直人は息を呑む。
それは、もはや人ではなかった。
全身が透明に近づき、輪郭は曖昧に溶けている。
顔のパーツは崩れ、水溜まりのように広がっている。
目が合った。
いや。
「それ」と、視線が交わった気がした。
その瞬間、直人は理解する。
このままでは、自分は完全に「器」を失う。
部屋という境界から溢れ出し、ただ流れ、どこかへ消えていくだけの存在になる。
「嫌だ……」
言葉が震える。
「嫌だ……!」
残された左手を、必死に持ち上げる。
そして、鏡を強く叩いた。
パリン。
乾いた音が響く。
鏡に、ひびが走る。
細く、鋭い亀裂。
そこから。
どろり、と。
闇が、滲み出した。
それは雨ではない。
もっと深い。
もっと重い。
光を吸い込むような、底の見えない暗闇だった。
鏡の向こう側は、別の「場所」へと繋がっている。
直人は、砕けた破片を掴み取った。
鋭い縁が、手を切り裂く。
だが、流れ出たのは血ではない。
濁った灰色の泥。
自分がすでに「水」と「何か」の混ざりものになっている証だった。
「……鏡の中に、逃げるつもりか?」
『高木』が、愉快そうに首を傾げる。
「無駄だよ。鏡の向こうも、雨が降ればすぐに満たされる」
その言葉は、正しいのかもしれない。
それでも。
このまま溶けて消えるよりは、ましだった。
記憶が薄れていく。
自分の名前。
親の顔。
好きだったもの。
すべてが、水に溶けていく前に。
直人は、腕を振り上げた。
そして。
自分を掴む女の腕へ、鏡の破片を突き立てた。
瞬間。
女が悲鳴を上げた。
それは人の声ではなかった。
雷鳴のように轟き、空間そのものを震わせる。
衝撃が走る。
窓ガラスが、一斉に砕け散る。
外の豪雨が、濁流となって室内へと雪崩れ込んだ。
すべてが水に呑まれる。
『高木』の姿も。
女の影も。
そして、直人自身も。
強烈な流れに引きずられ、体がばらばらにほどけていく。
上下の感覚が消える。
光が遠ざかる。
意識が沈んでいく。
深く。
暗く。
底のない闇の中へ。
直人は、そのまま飲み込まれていった。




