灰色のカーテンの向こう側 2
2 浸食する部屋
天井から滴り落ちた赤い雫は、直人の頬に触れ、そのままゆっくりと顎を伝い、首筋へと流れ込んだ。
ひやりとした感触。
しかし、それはただの冷たさではない。
ぬめりを帯びた、まとわりつくような不快な冷気だった。
次の瞬間、鉄錆のような生臭い匂いが、強烈に鼻腔を刺した。
直人は思わず息を止める。
喉の奥にこびりつくようなその匂いに、吐き気が込み上げた。
悲鳴を上げそうになるのを必死に飲み込み、よろめきながら一歩、また一歩と居間へ後ずさる。
「なんだよ、これ……」
掠れた声が、自分のものとは思えないほど遠く聞こえた。
恐る恐る天井を見上げる。
白いはずのビニールクロスには、いつの間にか巨大な染みが広がっていた。
それはただの水染みではない。
まるで皮膚の下にできた痣のように、黒ずんだ赤がじわじわと滲み、形を変えている。
それは、脈打っていた。
どくり。 どくり。
生き物のように、ゆっくりと膨らみ、広がっていく。
直人の背筋に、冷たいものが走る。
そのとき。
玄関の方から、音がした。
バサリ。
重く、湿った布が広がるような音。
直人は反射的にそちらを見る。
玄関に置いたはずの、あの和傘。
骨が歪み、泥にまみれた、あの異様な傘が……
誰も触れていないのに、ゆっくりと開いたように見えた。
暗がりの中で、濡れた布がぬらりと光る。
見てはいけない。
そう思うのに、目が逸らせない。
直人は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
指が滑る。
画面がうまく操作できない。
それでも必死に連絡先を開き、高木の名前を押す。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
やけに長く感じる沈黙の後、ようやく通話が繋がった。
『……直人か?』
聞こえてきた声は、どこか遠かった。
まるで水の中から届いているように、くぐもっている。
「高木! 助けてくれ!」
直人は叫んだ。
「例の雨だ! 変な傘を持ち帰っちまった! 天井から血みたいなのが――」
言葉がもつれる。
うまく説明できない。
『……落ち着け』
高木の声が、わずかに低くなる。
『今、どこにいる』
「アパートだ! 自分の部屋! 外はまだ土砂降りで」
『いいか、よく聞け』
その声は、これまで聞いたことがないほど真剣だった。
『その部屋から出るな』
直人は一瞬、安堵しかける。
だが、次の言葉で、その感情は凍りついた。
『だが、絶対に『水』に触れるな』
「……は?」
『雨は外だけじゃない。一度招き入れたら、境界は消える。部屋の中も全部『外』になるんだ』
意味がわからない。
「どういう意味だよ!」
『奴らは、濡れている場所ならどこにでも現れる』
高木の声が、さらに遠くなる。
『鏡、窓、コップの水……全部だ。もし部屋が浸水し始めたら……』
一瞬の間。
『もう手遅れだ』
ぷつり、と通話が途切れた。
静寂。
いや、違う。
何かが変わっていた。
直人はゆっくりと顔を上げる。
部屋の様子が、一変していた。
窓。
閉めたはずのサッシの隙間から、雨水が流れ込んでいる。
最初は細い筋だった。
それが、あっという間に勢いを増し、滝のように室内へと流れ込んでくる。
ありえない。
窓は閉まっている。
それなのに、外と内の境界が、まるで最初から存在しなかったかのように、豪雨が侵入してくる。
畳が水を吸い、黒ずんでいく。
足元が冷たい。
気づけば、水は足首まで達していた。
濁っている。
ただの雨水ではない。
泥のように、重く、暗い色をしている。
その水面に、ふと何かが映った。
窓ガラス。
そこに、自分の顔が……
違う。
直人の呼吸が止まる。
映っているのは、自分ではない。
ガラスの向こう。
雨の降りしきる暗闇の中に、ひとりの女が立っていた。
ずぶ濡れの髪が顔に貼りつき、表情は判別できない。
だが、その気配だけでわかる。
さっき、背後にいた“それ”だ。
女がゆっくりと腕を上げる。
細く、不自然に長い指。
それがガラスに触れた。
キィ……
嫌な音が鳴る。
爪が擦れるような、耳障りな音。
女はそのまま、ゆっくりと指を動かす。
その軌跡が、ガラスの内側に現れた。
ありえない。
外側から触れているのに、内側に刻まれていく。
文字が浮かび上がる。
カ サ カ エ セ
最後の一画がなぞられた瞬間、文字はじわりと赤く染まった。
血のように。
直人は息を呑み、後ずさる。
だが、逃げ場はない。
水が、さらに増えている。
玄関。
そうだ、あの傘を……
あれを外に捨てれば、終わるかもしれない。
直人は水をかき分けるようにして、玄関へと走った。
だが。
そこに、傘はなかった。
代わりに。
それは、立っていた。
水で形作られた、人の形。
輪郭は曖昧で、常に揺らいでいる。
それでも確かに「人」とわかる形をしていた。
人型は、ゆっくりと動く。
クローゼットを開け。
中から服を取り出す。
そして、自分の体に纏わせる。
濡れた水の体に、布が吸い付く。
その様子は、異様でありながら、どこか滑稽だった。
「……似合う?」
声がした。
直人の声だった。
人型が、こちらを向く。
顔には何もない。
目も鼻もない。
だが、口だけが、裂けるように開いていた。
そこから、直人の声で笑いがこぼれる。
直人はその場に崩れ落ちた。
足に力が入らない。
そのまま、水浸しの床に倒れ込む。
冷たい水が、全身を包む。
高木の言葉が、頭の中で反響する。
――水に触れるな。
遅かった。
水は、すでに自分の中に入り込んでいる。
ズボンが濡れ、皮膚に張りつく。
その感触が、徐々に消えていく。
いや、違う。
自分の体の方が、消えている。
直人は震える手を見た。
指先が透けている。
輪郭が曖昧になり、小さな水滴となって、ぽたりと落ちた。
「やめろ……」
声が震える。
「俺はここにいる……!」
存在が、崩れていく。
「溶けたくない……!」
叫びは、水音に紛れて消えていく。
そのとき。
インターホンが鳴った。
ピンポーン。
ピンポーン。
執拗に繰り返される音。
ドアの向こうから、声がする。
「直人、いるんだろ?」
聞き慣れた声。
高木。
「開けてくれよ。傘、貸してほしいんだ」
軽い調子。
いつもの、あの声。
「予報にない雨に降られちまってさ……」
直人は、必死に這いずった。
助けだ。
助かるかもしれない。
ドアへ。
ドアノブへ。
手を伸ばす。
だが、その手は。
すでに形を保っていなかった。
指は崩れ、流れ、ただの水となって、床へと落ちていく。
ドアの向こうで、チャイムが鳴り続けていた。




