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灰色のカーテンの向こう側 1

1 予報にない雨


 六月の空は、まるで感情を失った老人の眼差しのように濁っていた。

 厚く垂れこめた雲は低く、街の輪郭を鈍く押しつぶし、空気そのものが重たく沈んでいる。

 湿った風が頬を撫でるたびに、どこか粘りつくような不快さが残った。


 大学生の佐伯直人は、駅前のコンビニで安物のビニール傘を買い、思わず舌打ちを漏らした。

 スマートフォンの画面には、つい数分前まで「快晴」と表示されていたはずの予報が、いまは何事もなかったかのように雨マークへと変わっている。

 だが、その変化に納得するには、目の前の光景はあまりにも極端だった。

 街は今、まるでバケツをひっくり返したような豪雨に呑まれていた。

 舗道を叩く雨粒は、粒というより塊に近く、地面に当たるたびに鈍い音を響かせる。

 排水溝はすでに機能を失い、歩道のあちこちに濁った水が溜まり、小さな川のように流れていた。

「最悪だ……」

 思わず口からこぼれた言葉は、すぐに雨音にかき消された。

 直人はビニール傘を開き、その頼りない透明の膜越しに世界を見上げる。

 空はどこまでも灰色で、境界すら曖昧だった。

 濡れたアスファルトを踏みしめながら、直人は足早に歩き出す。

 早く帰りたい。ただそれだけの単純な願いが、なぜか今日はやけに遠く感じられた。


 この街には、奇妙な都市伝説がある。


 ――予報にない雨が降る日、視界が白く霞むほどの土砂降りの中で、決して『後ろ』を振り返ってはならない。


 そんな子供騙しの噂を、直人はずっと鼻で笑っていた。

 大学のオカルト研究会に所属する友人の高木が、あの妙に真剣な顔で語っていた時でさえ、「湿気で脳がやられたんじゃないか」と軽口を叩いたくらいだ。


 だが、今日の雨は、どこか異常だった。

 音が、重い。

 ただ降っているだけではない。

 叩きつけるような水滴が、まるで意志を持った礫のように、傘の布地を執拗に打ち据えてくる。

 びし、びし、と鈍い衝撃が手元にまで伝わり、指先がじんと痺れる。


 視界も異様だった。

 数メートル先にいるはずの通行人の背中が、灰色の幕の向こうに溶けるように消えていく。

 まるで世界そのものが、水に溶かされて輪郭を失っているかのようだった。


 ふと。


 背後に、違和感が走った。


 ピチャ。

 ピチャ。


 水を踏む音。


 自分の足音に、もうひとつの音が重なっている。

 最初は、同じように急いでいる誰かが後ろにいるのだと思った。

 だが、何かがおかしい。

 直人が歩調を早めると、背後の音もぴたりと速くなる。

 わざと速度を落とせば、今度はその音も同じように遅くなる。

 まるで、影のように。

 自分にぴったりと貼りついている。

「……おい」

 直人は立ち止まり、前を向いたまま声を絞り出した。

 喉が乾き、声はひどく掠れていた。

 返事はない。

 ただ、激しい雨音だけが、すべてを押し流すように響いている。

 振り返ってはいけない。

 その言葉が、不意に脳裏をよぎった。

 高木の、あの不気味なまでに真剣な声。


 ――あの雨の中で後ろを振り向いた奴は、雨の一部になるんだ。

 ――肉体も、記憶も、全部溶けて流されちまう。


 馬鹿馬鹿しい。

 そう思うのに、背筋にじっとりとした冷たいものが這い上がる。

 直人は無意識のうちに、傘の柄を白くなるほど握りしめていた。


 そのときだった。

 耳元で、冷たい吐息が触れた。

「ねえ……貸して……」

 女の声だった。

 湿っている。

 重たい。

 まるで泥を喉に詰めたまま話しているような、不快な響き。

 直人の心臓が、激しく跳ねた。

 反射的に振り向きそうになる。

 だが、その瞬間、必死に踏みとどまる。

「……何を、ですか」

 かろうじて言葉を絞り出す。

「傘……その、透明な……」

 声は真後ろではない。

 もっと近い。


 肩越し。


 いや、傘の内側に、入り込んでいるような距離。

 透明なビニール越しに、何かがこちらを覗き込んでいる気配がした。

 見てはいけない。

 そう思った瞬間、直人の足は勝手に動いていた。


 走る。


 ただ、前へ。


 ピチャピチャピチャピチャ!


 背後から、異様な速度で追ってくる音。

 それはもう、靴の音ではなかった。

 裸足の肉が、濡れた地面に叩きつけられる、生々しい音。

 逃げ場はない。

 振り返れば終わる。

 ただ前へ。

 やがて、見慣れたアパートの入り口が視界に飛び込んできた。

 直人は階段を二段飛ばしで駆け上がる。

 息が焼けるように熱い。

 鍵を取り出し、震える手で差し込む。

 回らない。

 焦りで指が滑る。

 背後の音が、すぐそこまで迫っている気がした。


 ようやく鍵が回る。


 ドアを開け、体をねじ込むようにして中へ滑り込み、そのまま勢いよく閉める。


 鍵をかける。


 さらにチェーンをかける。


 そのまま、ドアに背中を預けた。


 静寂。


 外の豪雨は続いているはずなのに、どこか遠い。

 分厚い壁一枚で、世界が切り離されたようだった。

「……助かった」

 直人は荒い息を吐き出した。

 全身が汗なのか雨なのか分からないほど濡れている。

 やはり、ただの気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせる。

 雨と暗闇と、くだらない噂が作り出した錯覚。

 そうだ。そうに違いない。


 そう思った、そのとき。

 何気なく、玄関のたたきに目をやった。

 そこには、自分が持ち帰った傘が置かれている。


 いや、違う。


 直人の呼吸が、止まる。


 さっきまで持っていたはずの、透明なビニール傘ではない。

 そこにあったのは。

 黒ずんだシミが無数に浮かび上がった、古びた和傘だった。

 骨は歪み、布はところどころ裂けている。

 長い年月、雨に打たれ続けたかのような、腐った匂いが漂っていた。


 そして。

 その先端から。


 ぽたり。


 ぽたり。


 赤黒い液体が、床に滴り落ちている。


 水ではない。


 もっと重く、粘り気のあるもの。

 直人は、震える手で自分の肩に触れた。

 シャツが、ぐっしょりと濡れている。


 冷たい。


 だが、それは雨の冷たさではなかった。

 ぬめり気を帯びた、不快な湿り。

 ゆっくりと、視線を上げる。


 天井。


 そこから、一滴。


 また一滴。


 赤い雫が、直人の鼻先へと落ちてくる。

 雨漏りなどするはずのない場所から。

 まるで、上に“何か”がいるかのように。


 ぽたり。


 赤が、広がる。


 外では、まだ。


 止む気配のない雨が、降り続いていた。

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