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奪われる微笑

 朝の通勤電車は、いつも同じ色をしている。

 吊り革のプラスチック、揺れるスーツの肩、金属の金具がぶつかる音。

 窓に映る街も、揺れる人影も、すべて灰色のパターンの繰り返しだ。

 わたしはいつも、この雑多な風景の中で自分だけが静止しているように感じる。


 その日、向かい側のドア付近に立つ女性に気づいた。

 黒いコート、肩までの髪。普通に見えるはずなのに、視線が勝手に彼女を追う。

 理由はすぐにはわからなかった。ただ、何かが違う。整いすぎているのだ。

 左右対称の目、完璧な鼻筋、角度の揃った口角。

 肌は光を均等に反射して凹凸がほとんどない。

 人間の顔に必ずある微細な歪みが、ここには存在しない。

 胸の奥がざわつく。

 息がわずかに詰まる。

 恐怖か、好奇か、わからない感情。

 目を離せない。


 電車が駅に止まる。

 人々が動き出す。

 彼女も静かに歩き出す。

 足の運びは滑らかすぎる。

 かかとからつま先まで、まるで映像のフレームの中で制御された存在のよう。

 音がほとんどしない。

 わたしは無意識に彼女の後を追った。

 距離を保ちながら、同じ方向に歩く。

 通りを抜け、路地に入る。

 光は少なく、冷たい空気が肌に触れる。

 舗道のひび割れや壁の汚れまで、くっきり映る朝の光。


 彼女は立ち止まり、振り返った。

 目が合う。

 心臓が跳ねる。

 視線の奥に計算された正確さがある。

 こちらの輪郭、目元、口元、すべてを測るように見つめている。

 ぞわりと背筋が冷える。

「……いい」

 小さな声だが、感情の揺れはない。

 迷いもない、正確な声。

「そこ、少し歪んでる」

 指がわたしの目元を指す。

 わずかな角度の変化を捉えたかのように。

「でも、いい」

 微笑む。

 完璧すぎて、逆に恐ろしい。

「自然だから」

 一歩近づく。

 逃げたい。

 足は動かない。

 視線に吸い付けられ、体が震える。

「もらっても、いい?」

 私は瞬時に理解する。

 彼女は顔を“集める”。

 人の中から、良い部分だけを奪い、自分のものにするのだ。

 逃げるために体を動かしても、無意識に前へ引き寄せられる。

 距離が縮まり、触れそうになる。

 胸が熱く、心臓が早鐘のように打つ。

「少し、もらうね」

 微笑む口角は正確すぎ、人間のものではない。


 触れた瞬間、世界が歪む。

 光景が波打ち、街灯の光が乱れる。

 意識が浮くような感覚に包まれる。

 頬、額、顎、目元――吸い取られるように感覚が消える。

 路地に倒れ込むように、体が硬直する。

 息が荒く、視界がぼやける。街の輪郭が溶ける。


 意識が戻ると、鏡の前に立っていた。

 自分の顔を見た瞬間、愕然とする。

 目元、鼻筋、唇——すべてが均一で整いすぎている。

 自分の顔ではない。

 鏡の中の顔が微笑む。

 わたしの記憶の中の表情より完璧だ。

 誰が見ても「美しい」と言うだろう。


 背後に気配。

 振り返ると、あの女性が立っていた。

 手は伸ばしていない。

 ただ、微笑むだけ。

「ありがとう」

 声だけが響く。

 完璧すぎる笑みが、わたしの元の顔を完全に置き換えたことを告げる。


 その日から、街を歩くと、周囲の人々がふとこちらを見る。

 誰もが微笑む。

 その笑みは、奪われた顔のコピーだ。

 日常の中で違和感は少しずつ増幅する。

 電車で隣に立つ人の微笑みが、奪われた顔の欠片を思い出させる。

 店のショーウィンドウに映る人影が、欠けた輪郭を反射する。

 日差しに照らされた自分の影が、かつての自分を追いかけてくる錯覚。


 ある朝、改札を抜けると、向こうの人混みに彼女がいた。

 違う顔に見えるが、微笑む口元だけは確実にあの女性のものだ。

 息を潜めて角を曲がる。気配を殺して後を追う。


 路地を抜け、狭い階段を下りる。

 彼女はわずかにこちらを見たような気がした。

 恐怖で足が震む。

 視界の端で人の輪郭が歪む。

 これは幻覚かもしれない。

 だが、彼女の輪郭はゆるぎない。

 追跡を繰り返すうちに、夜の街は異様に静かになった。

 街灯が濁った黄色で地面を照らす。

 誰もいないはずの道に、彼女の足音だけが響く。

 影が揺れる。息をのむ。


 夜、家の鏡の前に立つ。

 冷たい光の中で整いすぎた顔を見つめる。

 微笑んでいる。

 しかし、それは自分のものではない。

 わずかに、あの女性の微笑と重なっている。


 毎日、少しずつ顔が変わる。

 目元が細くなる。

 口角が上がる。

 頬のラインが滑らかになる。

 変化は微細で、他人にはわからない。

 しかし、わたしにはわかる。

 確実に、自分のものではない何かが紛れ込んでいる。


 鏡の中の自分の目に気づく。

 見返す微笑が、完全にあの女性のものになっていた。

 街のどこかで、あの女性は今日も歩き、次の「顔」を集めている。


 恐怖と陶酔が交錯する中、わたしは立ち尽くすしかない。

 自分の存在は残るが、顔は返ってこない。


 完全に、奪われたのだ。


 そして、街の灯りの中で、誰もが微笑む。

 奪われた顔のコピーは、もう無数に増えているのだろう。

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