夜の階段
夜遅く、街はひっそりと沈黙していた。
私は会社の残業を終え、地下鉄の階段を静かに下りる。
蛍光灯の冷たい光が、湿ったコンクリートに反射して、白く揺れている。
足音が響く。
階段を踏みしめる音が、やけに大きく、耳の奥に刺さる。
そのとき、階段の途中で、誰かにぶつかりそうになった。
振り返ると、そこには誰もいない。
ただ、視界の端に、黒い影が一瞬、ちらついた気がした。
胸がぎゅっと締め付けられ、息がわずかに詰まる。
人通りの少ない地下通路に出ると、冷たい風が頬を撫でる。
街灯の光が途切れ、暗闇が視界を覆う。
私は背筋に寒気を感じ、足を早める。
その瞬間、背後から、私の歩調にぴたりと合わせるような足音が聞こえた。
振り返る勇気はなかった。
ただ、音だけが一歩一歩、こちらに迫る。
速度も、歩幅も、完全に私に合わせているかのようだ。
息を殺しても、その音は消えない。
角を曲がる。
足音も曲がる。
胸が張り裂けそうになり、手に汗が滲む。
振り返ると、やはり誰もいない。
しかし、階段や壁に映る自分の影は、微かに、しかし確実に異なる動きをしていた。
手の角度、肩の傾きがわずかにずれている。
まるで、私の知らない何者かが、影の中で生きているようだ。
家に帰る途中、アーケードの明かりに照らされた看板やガラスに、私以外の誰かの姿が映る。
通り過ぎる人影ではなく、明かりの中で静かに、じっとこちらを見つめる何か。
心臓が跳ね、足がすくむ。
家に入ると、いつも通りのはずの部屋が、どこか違っていた。
椅子の位置が微かにずれ、机の上の書類も昨日の記憶とは角度が違う。
息を潜めて周囲を見回す。
静かすぎる。
自分の呼吸の音まで、確かめたくなる。
その夜、眠ろうとして布団に潜り込む。
天井の蛍光灯がちらつき、影が壁に揺れる。
目を閉じると、暗闇の中で足音がする。
階段の音、廊下の軋む音、誰かが近づいてくるようだ。
耳を澄ますと、私の心臓の音さえ、足音に合わせて鳴っているかのように聞こえる。
翌日、通勤途中の地下鉄で気づく。
隣に立つ人々の影が、微かにこちらを向いている。
肩の傾き、頭の角度、瞬きのタイミング。
すべてが、昨日見た影の動きを模倣しているようだ。
視界の端にちらつくその動きに、息が詰まる。
日常の小さな異変が、少しずつ私を蝕む。
冷蔵庫のドアが閉めたはずなのにわずかに開いている。
トイレの床に、見覚えのない水滴。
机の上の書類が微妙に入れ替わる。
家中のものが、私の知らぬ力に少しずつ動かされているかのようだ。
帰宅すると、部屋の窓が開いていた。
昨夜閉めたはずの窓が、無理やり開かれたかのように揺れている。
冷たい風が差し込み、紙片や埃が舞う。
恐怖で体が硬直する。背後に気配を感じる。
振り返れない。
ただ、影が、階段を降りる音が、確かに近づいてくる。
夜、眠れずにいると、壁の隅に自分の影とは異なる形が生まれる。
手を伸ばすと、微かに揺れる。
呼吸を止めても、影はこちらの動きを完全に追っている。
布団の縁に触れる感触。
指先に、誰かの冷たい視線が刺さるようだ。
翌朝、目を覚ますと、机の上にメモが置かれていた。
昨夜の私が書いたはずの文字で、しかし意味不明の文章。
小さな紙片には、「ありがとう」とだけ書かれている。
視線を上げると、影が壁の端に立っていた。
確かに誰かがそこにいる。
輪郭はうっすらとしているが、形は人間のものではない。
日が経つにつれ、影は生活全体に広がった。
冷蔵庫の前、トイレ、廊下、夜の明かりの先。
生活の断片にじわりと存在感を刻み、私は逃げ場を失っていく。
ドアを開ける度、影が先にそこに立っているような感覚に襲われる。
影は、夜だけでなく昼間にも顔を出すようになった。
新聞を読んでいると、ページの隙間から、微かに異なる影が顔を覗かせる。
テレビを見ていると、画面の端に、自分の知らぬ手が動く。
机の引き出しを開けると、影が先にそこに座っているような気配がする。
ある雨の夜、窓の外の影がゆっくりと手を伸ばしていた。
ガラスを通さず、室内に触れるように、確かに近づいてくる。
恐怖で体が硬直する。
視界が揺れ、息が止まる。
「ここに、居させてもらうよ」
最後に聞こえたのは、冷たい声ではなく、生活音の中に紛れた、ささやきだった。
雨音が窓を叩く。
街は灰色のまま、静かに私を包み込む。
影はもう、窓の外だけではない。
部屋の中、生活の隅々に、静かに入り込み、私は逃げられない。




