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あの家には、入ってはいけない

 山あいの村に、「朽月くちづき」という集落がある。

 地図にも名前が載っていない、小さな村だ。

 電波は届かない。

 車で来られる道も、途中から途切れる。

 最後は獣道のような山道を歩いていくしかない。

 村の周囲は深い杉林に囲まれている。

 杉は異様に背が高く、空を覆うように枝を広げているため、昼でも光が薄い。

 さらにこの場所は、霧が多い。

 一年中、どこかに白い靄が漂っている。

 そのせいで村全体が、現実より少し遠い場所にあるように感じられる。


 そしてこの村には、ある“約束”があった。


 村人の誰もが知っているが、決して大きな声では言わない約束。

 それは、たった一つの言葉に集約されている。

「白い家には、入ってはいけない」

 その家は、村はずれにぽつんと建っている。

 古びた平屋の木造建築。

 瓦屋根はところどころ崩れ、軒は傾いている。

 けれど奇妙なことに、外壁だけが、異様に白い。

 古びた家なのに、そこだけ塗り直されたように白い。

 ただし、その白さはどこか濁っている。

 遠くから見ると、家全体が薄い霧に包まれているようにも見える。

 子どもたちは、肝試しと称して時々そこまで近づく。

 けれど誰一人、敷地に入ろうとはしない。

 理由は簡単だ。

 昔からこう言い伝えられているからだ。


「入った者は、帰ってこない」


     ♢


 大学生の弘樹ひろきは、民俗学ゼミでこの「朽月」の噂を耳にした。

 古い集落に残る禁忌や伝承を研究する授業だった。

 教授が資料の一枚を見せながら言った。

「日本各地には、“入ってはいけない場所”という禁忌が残っている。だが、朽月の例は少し特殊だ」

 学生たちは興味深そうに耳を傾ける。

「この村には、白い家というものがある。そこに入った者は帰らないと言われている」

 教室に小さなざわめきが起こる。

「ただし問題がある」

 教授は眼鏡を押し上げた。

「取材ができない。村人が、ほとんど何も話さないんだ」

 そのとき、弘樹の胸に小さな好奇心が芽生えた。

 話さない。

 その言葉が、妙に引っかかった。

 民俗学のフィールドワークでは珍しくない。

 閉鎖的な地域では、外部の人間に口を閉ざすことはよくある。

 だが教授の言い方には、どこか別の意味が含まれているように感じられた。

 授業のあと、弘樹は教授に尋ねた。

「朽月って、まだ人が住んでいるんですか?」

「ああ」

「フィールドワークで行ってもいいですか?」

 教授は一瞬だけ表情を曇らせた。

「……やめておいた方がいい」

「どうしてです?」

「取材にならない。人が口を閉ざすからだ」

 それだけ言って、教授はそれ以上説明しなかった。

 だが弘樹にとって、それは逆効果だった。

 やめた方がいいと言われるほど、知りたくなる。


 結局、弘樹はフィールドワーク先を朽月に決めた。


      ♢


 村に辿り着くまで、三日かかった。

 最寄りの町から山道を歩き、途中で道を間違え、二度引き返した。

 ようやく杉林の奥に小さな家々が見えたとき、弘樹は安堵した。

 朽月の家は、どれも古い木造だった。

 煙突から細い煙が上がっている。

 人はいる。

 だが、妙に静かだった。

 村の中央に小さな民宿があり、そこに泊めてもらえることになった。

 女将は無口だったが、親切ではあった。


 その夜、弘樹は村人に話を聞こうとした。

 囲炉裏のそばで、さりげなく話題を出す。

「この村には、白い家があると聞いたんですが」

 その瞬間だった。

 空気が、変わった。

 囲炉裏の火が小さくはぜる音だけが響く。

 女将は箸を止めた。

 そして、ゆっくり弘樹を見た。

「……忘れなさい」

 低い声だった。

「その家のことは」

「え?」

「思い出させるな」

 女将の目がわずかに震えた。

「“あれ”がまた来る」

 弘樹は背筋に冷たいものを感じた。


 それでも翌日、村人に話を聞いて回った。

 だが、反応は同じだった。

 誰も答えない。

 視線を逸らす。

 ある者は怒り出し、ある者は震えた。


 やがて一人の老人が、ぽつりと言った。

「……神隠しの家だ」

 弘樹は身を乗り出した。

「神隠し?」

「ああ」

 老人はゆっくり語った。

「昔、この村で罪を犯した者はな……あの家に閉じ込められた」

「閉じ込める?」

「そうだ。逃げ場のない場所にな」

「出てこなかったんですか?」

 老人は静かに首を振った。

「誰も」

 しばらく沈黙が続く。

 弘樹はもう一つ気になっていたことを聞いた。

「どうして壁を白く塗るんですか?」

 老人は答えなかった。

 代わりに、家の方角を見た。

 そして小さく呟いた。

「……白は、清めの色だ」

「清め……」

「穢れを封じるためだ」

 弘樹はメモを取った。

 だが老人は続けた。

「だがな」

 その声が、急に低くなった。

「あの家は違う」

「違う?」

「内側から、染み出すんだ」

 老人の指が震えていた。

「黒い何かが」


      ♢


 その夜。

 弘樹は白い家へ向かった。

 迷信だと思っていた。

 こんな山奥で閉鎖的に暮らしていれば、恐怖が膨らむのも無理はない。

 懐中電灯を握り、杉林の奥へ進む。

 霧が濃い。

 木々の間から、ぼんやりと白い壁が見えた。

 白い家だ。

 近づくにつれ、胸がざわつく。

 家の外壁は確かに白かった。

 だが、近くで見ると分かる。

 下の方が黒く滲んでいる。

 墨のような染みが、壁の内側から滲み出しているようだった。

 弘樹は手で触れた。

 ぬるり、とした感触。

 ペンキではない。

 まるで湿った泥のようだった。


 そのとき。


 ギィ……


 音がした。

 玄関の扉が、勝手に開いた。

 弘樹は息を呑んだ。

「……こんばんは?」

 声をかける。

 返事はない。

 けれど、妙な感覚があった。

 中に入らなければならない。

 理由はない。

 だが、体がそう感じていた。

 理性が止めようとする。

 だが足が動いた。

 一歩。

 家の中へ入った。

 空気が冷たい。

 異様な静けさだった。

 家具はない。

 畳だけが広がっている。

 そして、床一面に白い紙が散らばっていた。

 弘樹は一枚拾った。

 そこには文字が書かれていた。

 震えるような字。

「ここにいるな」

 別の紙。

「まだいる」

 さらに別の紙。

「みつかった」

 背筋が寒くなる。

 弘樹は懐中電灯を奥へ向けた。

 廊下の突き当たり。

 襖が半分開いている。


 その隙間に、顔があった。


 白い顔。

 目だけが、真っ黒に沈んでいる。

 人間の目ではない。

 底のない穴のような黒。

 弘樹の呼吸が止まった。

 顔が動いた。

 襖の隙間から、ゆっくりこちらを覗く。

 にじり出るように。

 そのとき弘樹は気づいた。


 顔が一つではない。


 襖の奥。

 暗闇の中に、いくつもある。


 白い顔。


 白い顔。


 白い顔。


 すべてがこちらを見ている。

 そして同時に、口が動いた。


「やっと」

「きた」

「ここに」

「いて」

「もう」

「かえらない」


 声が重なる。

 空気が震える。

 弘樹は叫ぼうとした。

 だが声が出なかった。

 その瞬間、気づいた。

 足が動かない。

 畳が、足首を掴んでいる。

 黒い染みが、床から伸びていた。

 それが弘樹の足を絡め取っていた。

 弘樹は必死に足を引いた。

 だが染みは広がる。

 ゆっくり、ゆっくり。

 まるで液体のように。

 そのとき、顔の一つが言った。


「だいじょうぶ」

「すぐ」

「なれる」


      ♢


 翌朝。

 弘樹は神社の境内で発見された。

 倒れて、意識を失っていた。

 目を覚ました弘樹は、言葉を発しなくなっていた。

 ただ、虚ろな目で一点を見つめている。

 その視線の先は、壁だった。

 白い壁。

 弘樹の手には、木片が握られていた。

 白い家の壁の欠片だった。

 弘樹はやがて家族に連れられて村を出た。


 だが数ヶ月後、消息を絶った。

 どこへ行ったのか、誰も知らない。

 ただ、朽月の村人が言った。

「白い家がな」

 声が震えていた。

「……ほんの少し、広くなってる気がする」

 そして今でも、子どもたちは言い伝えられている。

「白い家には入ってはいけない」

「見つかっても、目を合わせてはいけない」

「出られても……」

 子どもはそこで声を潜める。

「そこはまだ白い家の“中”かもしれない」


 そして村の古い民宿の壁には、誰が書いたのか分からない紙が貼られている。

 そこには、震える字でこう書かれている。


「ここにいるな」

「まだいる」

「みつかった」


「もうひとり、きた」


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