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夜鳴き橋

 私の地元には、「夜鳴き橋」と呼ばれる古い石橋がある。

 川幅はそれほど広くない。けれど橋は妙に長く感じる。両側の石の欄干は黒ずみ、ところどころ苔が張りつき、昼間でも湿った匂いが漂っている。

 街灯はない。

 夜になると、橋の上は闇に沈む。

 名前の由来は、昔そこで泣き声が聞こえたという噂からだ。

 「子どもの声がする」

 「女の人のすすり泣きだ」

 「橋の下から聞こえる」

 話す人によって少しずつ違うが、共通しているのは夜に泣き声が聞こえるという点だった。

 もちろん、それを幽霊の声だと言う人もいれば、川風が石の隙間を抜ける音だと笑う人もいる。

 地元でも半分はただの怪談として扱われている。


 それでも私は、子どものころからその橋が苦手だった。

 理由はうまく説明できない。

 見た目が不気味なわけでもない。

 ただ、橋の真ん中に差しかかると、胸の奥がざわざわするのだ。

 言葉にできない不安。

 後ろから誰かに見られているような感覚。

 何度か通ったことはあるが、そのたびに歩く速度が自然と早くなる。

 夜なんて、絶対に渡りたくなかった。

 大学を出てから、私は都会で働いていた。

 それなりに忙しく、地元のことを思い出すこともほとんどなくなっていた。


 けれど去年、母が病気になった。

 重い病気ではない。

 それでも一人暮らしの母を放っておくわけにはいかず、私は仕事を辞めて地元へ戻った。

 実家は昔のまま、川の近くにある。

 駅へ行くには、夜鳴き橋を渡るのが一番早い。

 もちろん遠回りの道もある。

 けれど、毎回十分以上余計に歩くことになる。

 最初のうちは避けていた。

 夜になるとどうしても橋を渡る気になれなかった。

 だが、何度も通勤を繰り返すうちに、面倒さが恐怖を上回った。

(ただの橋だ。子どものころの思い込みだ)

 そう自分に言い聞かせて、夜でも橋を渡るようになった。

 それでも、最初の数回は胸のざわめきが消えなかった。

 橋に足を踏み入れると、空気が少し変わる。

 川の匂いが濃くなる。

 水の流れる音が、やけに近く感じる。

 そして橋の中央あたりに来ると、なぜか足音が響きすぎる気がするのだ。

 コツ、コツ、コツ。

 石に靴底が当たる音が、背後からも聞こえるような気がして、何度も振り返った。

 もちろん、誰もいない。

 そんなことを何度か繰り返しているうちに、少しずつ慣れてきた。

 胸のざわめきは、完全には消えない。

 けれど「気のせい」として流せる程度にはなった。


 あの日までは。


 それは雨上がりの夜だった。

 昼から降っていた雨がようやく止み、道はまだ濡れていた。

 空気はひんやりとして、川の匂いがいつもより強い。

 私は仕事帰り、傘を畳んで橋へ向かった。

 空は雲に覆われ、月も見えない。

 橋の上は、思ったより暗かった。

 石の表面が濡れているせいで、わずかな光も吸い込まれてしまう。

 足元を確かめながら歩く。

 コツ、コツ。

 靴音だけが響く。

 橋の真ん中あたりまで来たときだった。


 しく、しく。


 小さな泣き声が聞こえた。

 私は立ち止まった。

 最初は風の音かと思った。

 川の流れが変わると、時々似たような音がすることがある。

 けれど、もう一度聞こえた。


 しく、しく。


 明らかに人の泣き声だった。

 それも、子どもが声を押し殺して泣くような音。

 胸が強く鳴る。

 こんな時間に、子ども?

 私は恐る恐る橋の欄干に近づき、川を覗き込んだ。

 暗い水面のそば、岸に近い石の上に女の子が座っていた。

 白いワンピース。

 濡れた髪が頬にはりつき、肩を震わせている。

 小さな体を丸め、膝を抱えて泣いていた。

「……どうしたの?」

 思わず声をかけてしまった。

 女の子はゆっくり顔を上げた。

 その瞬間、胸がひやりと冷えた。

 目が赤かった。

 泣き腫らしたような赤ではなく、妙に濃く、暗い赤。

 街灯がないはずなのに、その目だけがはっきり見える気がした。

「……お母さんが」

 女の子は小さな声で言った。

「迎えに来ないの」

 背筋に冷たいものが走る。

 あたりを見回す。

 橋の上にも、川沿いの道にも、人影はない。

「お家はどこ?」

「……わからない」

 女の子は震える声で答えた。

 夜風が強くなり、濡れた髪が揺れる。


 私は迷った。

 警察を呼ぶべきかもしれない。

 でも、この子を一人で置いていくのも気が引ける。

 とりあえず寒そうだった。

 私は自分の上着を脱いで、橋の下にいる女の子へ差し出した。

「これ、着て」

 女の子はゆっくり立ち上がった。

 そして、橋の上を見上げた。

 その動きが、妙に不自然だった。

 まるで体の重さがないように、ふわりと立ち上がったのだ。


 私は息を飲んだ。

 女の子は石を踏み、こちらへ手を伸ばす。

 私は欄干から身を乗り出し、上着を渡した。

 女の子はそれを受け取ると、泣くのをやめた。

「ありがとう、お姉さん」

 にこり、と笑った。

 その笑顔は、どこか安堵しているようだった。

 まるで、ずっと待っていたものがやっと来たみたいに。


 そして次の瞬間。

 女の子の体が、すうっと薄くなった。

 煙が風にほどけるように。

 上着ごと、静かに消えた。

「……え?」

 声が漏れる。

 橋の下には、もう誰もいない。

 川面はただ黒く揺れている。

 私はしばらく動けなかった。

 心臓が早鐘のように鳴る。

 手のひらが冷たい。

 さっきまで確かにいた。

 声も聞いた。

 上着も渡した。


 それなのに、何も残っていない。


 そのときだった。

 川風の中で、かすかな声がした。

「ありがとう」

 私は弾かれたように橋を渡りきった。

 振り返らずに、家まで歩いた。


 家に戻ると、母が居間にいた。

「おかえり。遅かったわね」

「……帰ってこれた……」

「何言ってんの」

 最初は私がふざけていると思っていた母もいつもと様子が違うと思ったようで心配そうな声で聞いてきた。

「何かあったの?」

 私は震える声で、さっきのことを話した。

 母は黙って聞いていた。

 そして、少し考えてから言った。

「……あの橋ね」

 母はゆっくり言葉を選んだ。

「昔、小さい子が落ちて亡くなったのよ」

 私は息を止めた。

「お母さんを待ってたんですって。橋の上で」

 母は続ける。

「迎えに来るはずだったのに、来なくて……夜になっても待ってて」

 私は何も言えなかった。

「そのあと、川に落ちたって」

 部屋が静かになる。

 時計の音だけが響く。


 その夜から、橋を渡るときの胸のざわめきは消えた。


 不思議なくらい、何も感じない。

 怖くもない。

 ただ、静かだ。

 その代わり、橋を歩くと、もう一つ足音がするようになった。


 コツ。


 コツ、コツ。


 私の後ろで、小さな靴が石を叩く音。

 振り返っても、誰もいない。

 けれど、橋の真ん中に来ると、必ず聞こえる。


 ある夜、私は試しに立ち止まった。

 足音も止まった。

 振り返る。

 やっぱり、誰もいない。

 そのとき、背中のすぐ後ろで小さな声が聞こえた。


「お姉さん」


 息が止まる。

 声は続いた。


「ねえ、お姉さん」


 私はゆっくり振り返った。

 誰もいない。

 けれど、確かに声がした。

 そして、耳元で、囁く声。


「今度は、一緒に待とうね」


 その瞬間、私は気づいた。

 橋の上で聞こえていた泣き声がしない。

 あれは、きっとずっと一人で寂しかった泣き声だ。

 でも、もう違う。


 夜鳴き橋では今も、泣き声が聞こえるらしい。


 ただ、最近はこう言う人もいる。

 子どもの声だけじゃない。

 大人の女の声も、混ざっている。

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