夜の住人
雨上がりの夜、私はいつもより遅く帰宅した。
街灯に照らされたアスファルトは濡れて光り、静まり返った住宅街に、足音だけが大きく響く。
家のドアを開けると、いつも通りの静けさがあったはずなのに、どこか違った。
風の通り道でもないのに、窓の隙間から冷たい空気が入り込み、背筋にぞくりとしたものが走った。
「……誰か、いるの?」
思わず声を出したが、返事はない。
だが、微かに、かすかな物音がする。
まるで足音のように、家の奥から聞こえてきた。
私は靴を脱ぎ、廊下に足を踏み入れる。
湿った空気が重く、呼吸を苦しくさせる。
壁にかかる写真や、観葉植物の葉に光が反射し、微かに揺れている。
揺れているのは風ではなく、まるで生き物のようだった。
リビングのドアを開けると、空間は静寂そのものだった。
だが、家具の配置がいつもと違う気がする。
ソファの位置、テーブルの角度。
私の記憶にあるはずの景色が、微妙にずれている。
「……疲れてるだけかな」
そう自分に言い聞かせ、寝室に向かおうとした瞬間、背後で物音がした。
振り返ると、何もない。
だが、視界の端に、黒い影がちらりと見えた気がした。
寝室のドアを開け、電気を点ける。
ベッドは整っている。
だが、枕元に、見覚えのない靴が一足置かれていた。
私は息を呑み、後ずさる。
靴は新品のようで、床に小さな水滴を残している。
胸の奥が締め付けられるように痛む。
鍵はしっかりかかっていた。
誰も入れるはずのない部屋に、誰が……?
音もなく、部屋の奥から冷たい視線を感じる。
振り向くと、ベッドの端に小さな影が座っていた。
暗がりに紛れ、形ははっきりしない。
ただ、私の目をじっと見つめているのがわかる。
「……あなたは、誰?」
声が震え、唇が乾く。
影は動かない。
ただ、呼吸のたびに空気が重く揺れる。
私はゆっくりと手を伸ばし、部屋のライトをもう一段明るくした。
だが、影は消えず、むしろ輪郭を強めて、まるで存在感を押し付けるように広がった。
恐怖で足がすくむ。
逃げたい、でも出口が見えない。
影の向こう側に、私の知らない自分が座っているような錯覚に襲われる。
鏡を見ると、そこには疲れきった自分が映っていた。
しかし、影は鏡の中にも存在し、私の動きに微妙に遅れてついてくる。
「なぜ、ここに……?」
問いかけは空しく、ただ湿った空気が応えるだけ。
だが、影は次第に形を取り、私の足元に這い寄ってきた。
心臓の鼓動が耳に響き、呼吸が荒くなる。
逃げようとベッドから飛び降りた瞬間、足が床に吸い込まれるように動かなくなった。
影が静かに私の背後に立ち、息遣いが肩越しに伝わる。
振り向く勇気もなく、私はただ息を止めた。
そのとき、影の声が耳元で囁いた。
「ずっと、見てたよ」
冷たい、乾いた声。怒りでも悲しみでもない。
ただ、私の存在を確認したことに満足するかのような静かな響き。
私は必死で意識を保ち、力を振り絞って立ち上がろうとする。
すると影は、一瞬揺らいで消えかけた。
しかし、その代わりに鏡の中の自分がにやりと笑った。
私は気づく。
恐怖は影そのものではなく、自分の心が作り出していたものだと。
孤独、疲労、不安――すべてが影に変わり、私の目の前に現れている。
だが、理解と同時に、背筋に冷たい確信が走る。
心の奥底で、自分はもう影から逃れられないのだと。
夜は深まり、外の雨音が遠ざかる。
部屋は静かで平和なはずなのに、私は自分の影と向き合い続けている。
鏡の中の自分も、背後の影も、同じ私なのだ。
逃げる場所は、もはやどこにもない。
そして私は、影とともに夜を過ごす。
見えない住人が、静かに、永遠に私を見守るように。




