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廃屋の声

薄曇りの午後、私は小さな町の外れにある廃屋を訪れた。

仕事で撮影するための素材を探していたのだが、噂に聞くその建物は、どこか異様な気配を漂わせていた。

錆びたフェンスの隙間から足を踏み入れると、廃屋の壁はかつての白を失い、黒ずんだ苔が絡まっていた。窓ガラスは割れ、内部は暗闇に閉ざされている。

私は慎重にドアノブに手をかけるが、ひんやりとした冷気が手首にまとわりつき、思わず身震いした。

それでも、好奇心は勝った。

カメラを首に掛け、重い足取りで廃屋の中に入った。

床板は腐りかけており、一歩ごとに軋む音が天井に反響する。

埃の匂いとカビの匂いが鼻をつき、私は咳き込みながらも奥へ進んだ。

壁にかかる黒ずんだ写真や、ほころんだ壁紙に目を向けながら歩くと、心のどこかで「ここは安全だ」という理性と、「早く出ろ」という本能がせめぎ合った。


奥の部屋に入ると、空気はさらに重く感じられた。

窓から差し込む光はかろうじて部屋を照らしていたが、その薄暗さがかえって異様な影を落としていた。

壁に残る手形や、床に散らばる破れた日記の切れ端が、過去の痕跡を静かに語りかけてくる。

私はカメラを構え、シャッターを切った。

だが、ファインダー越しに見えるものと、実際の目で見えるものが微妙にずれていることに気づいた。

「……誰かいるのか?」

声にならない声が頭の奥で響いた。

振り向くと、誰もいない。

ただ、壁の影が揺れているように見えた。

心臓が早鐘を打つ。私は息を整え、足を進める。


そのとき、床下からかすかな軋む音が聞こえた。

小さな音なのに、静まり返った部屋では雷のように響いた。

私は立ち止まり、耳を澄ます。

すると、足元で低く囁くような声がする。


「……帰らないで……」


幻聴かと思った。

しかし、その声は次第に明瞭になり、私の名前を呼ぶかのように囁いた。

背筋が凍る。

振り返ろうとした瞬間、カメラが勝手に床に落ち、レンズのガラスに小さなヒビが入った。

混乱と恐怖に駆られ、私は出口に向かって走り出す。

しかし、部屋の構造が複雑で、廊下は無限に伸びる迷路のように感じられた。

振り返ると、影が私を追いかけているように見えた。

だが、次の瞬間には何もない。

呼吸は荒く、心臓は破裂しそうだった。

壁や天井が微妙に歪み、目の端に人影がちらつく。

私は立ち止まり、目を閉じる。

冷たい空気の中で、自分の心臓の音だけが、異様に大きく響いた。

(そうだ、これは私の心が見せる幻影だ)

理性を振り絞り、ゆっくりと足を進める。

廃屋はただの廃墟だ。

誰もいない。

だが、声は消えない。

むしろ私の動きに合わせて、囁きは近づいてくるようだった。


やがて、私は中央の大きな部屋に出た。

そこには古びた鏡が一面に貼られており、割れたガラスが光を乱反射していた。

私は鏡に映る自分を見つめる。

だが、影は私の後ろに立っていた。

振り向く。

誰もいない。

再び鏡を見る。

そこには、私が知らない表情を浮かべた自分が映っていた。

瞳は虚ろで、口元は不気味に歪んで笑っている。

恐怖が全身を駆け抜けた瞬間、鏡の中の自分が口を動かした。


「ここに、ずっといるの……」


叫び声を上げて背を向けると、部屋の扉はもうどこにも見えなかった。

迷い込んだはずの廃屋は、いつの間にか私の心の奥底に入り込み、外の世界と遮断してしまったようだった。


そのとき、私は理解した。

廃屋はただの建物ではない。

過去に取り残された恐怖、孤独、そして人間の心が作り出す幻影の具現化。

そこに踏み入れた者は、自分の中にある恐怖と対峙せざるを得ない。


夜が訪れ、薄明かりが消えた。

私は床に座り込み、震える手でカメラを握った。

シャッターを切るたび、映るのは私自身の歪んだ姿。

廃屋は静かに囁き続ける。


「帰れない……」


その声を聞きながら、私は初めて心の底から理解した。

恐怖は外から来るのではなく、自分の内側から生まれるものだと。

廃屋はただ、それを映し出す鏡に過ぎなかったのだと。


そして私は、永遠にその声に囲まれる恐怖を感じながら、カメラを握りしめたまま、静かに廃屋の中で立ち尽くしていた。

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