赤いジュースは冷えている
その自動販売機の赤いジュースは、いつも売り切れない。
駅から徒歩十分、川沿いの遊歩道の脇にぽつんと立っている古びた自販機で、周囲には民家も店もなく、夜になれば街灯もまばらになる。
私は残業帰りにその前を通るのが習慣になっていた。
最初はただ喉が渇いていただけだ。
蒸し暑い六月の夜、小銭を入れ、何気なく光っているボタンを押した。
それが赤いジュースとの最初の出会いだった。
出てきた缶はひどく冷えていて、表面に霜が張りついていた。
真夏でもないのに、指がかじかむほどだった。
ラベルには商品名が書かれていない。
白地に赤い丸。その下に小さく「100%」とだけ印字されている。
何の「100%」かは書かれていない。
私は特に気にせず、プルタブを引いた。
ぷしゅ、と湿った音がして、甘い匂いが立ちのぼる。
果汁のようでいて、どこか鉄の匂いが混じっている。
ひと口飲む。濃い。とろりとして、舌にまとわりつく。
だが、不思議と後味はすっきりしている。
私は一気に飲み干した。
その瞬間、身体の奥に冷たいものが流れ込んだ気がした。
疲労がすっと消える。
頭が冴え、視界が澄む。
まるで徹夜明けにシャワーを浴びた後のような爽快感だった。
それ以来、私はその自販機の前を通るたび、赤いジュースを買うようになった。
他の飲み物も並んでいる。
コーラ、緑茶、ミネラルウォーター。
だが、なぜか赤いジュースだけがやけに新しく補充されている。
売り切れ表示を見たことがない。
ある夜、同僚の清水と帰り道が一緒になった。
私は冗談半分で言った。
「この自販機、変なんだよ。他が売り切れていてもこの赤いジュースはいつもある」
「人気ないだけじゃん」
清水は笑いながらボタンを押した。
缶が落ちる音。
彼はラベルを見て首を傾げる。
「何味だ、これ」
ひと口飲んだ瞬間、清水の表情が変わった。
「……うまいな」
彼もまた、赤いジュースを一気に飲み干した。
その翌日、清水は会社に来なかった。
清水が無断欠勤するのは知っている限り初めてだった。
電話も繋がらない。
三日後、警察から連絡があった。
川で遺体が見つかったという。身元は清水だった。事故か自殺かは不明。
私は通夜に参列し、遺影を見つめた。
疲れ切った顔をしている。
あの夜、ジュースを飲んだ後、彼は妙に上機嫌だった。
「なんか、生き返った気分だ」
と言っていた。その言葉が頭から離れない。
私は怖くなり、自販機を避けるようにした。
だが、数日もすると身体が重くなる。
仕事中に集中できない。
喉が渇く。
あのとろりとした甘さが恋しくなる。
私は結局、また川沿いの道を歩いていた。
夜十一時。他に人影はない。
自販機の蛍光灯がじじ、と鳴っている。
赤いボタンが、こちらを見ている。
私は千円札を入れた。
釣り銭がじゃらじゃらと落ちる。
ボタンを押す。
がこんと音を立てて出てきた缶は、以前よりも冷たい。
手のひらが痛むほどだ。
私は震える指でプルタブを引く。
ぷしゅ、と音がする。
そのとき、自販機のガラスに何かが映った。
私の背後に、誰か立っている。
振り向く。誰もいない。
再びガラスを見る。
そこには、私と、もう一人。
顔の青白い男。
濡れた髪。
見覚えのある顔。
清水だ。
私は息を呑む。ガラスの中の清水は、無表情でこちらを見ている。
そして、ゆっくりと口を開く。
「足りない」
声は聞こえないはずなのに、はっきりとそう読めた。
次の瞬間、自販機の中で何かがどろりと動いた。
透明なパネルの奥、ジュースのタンクのようなものが見える。
赤い液体が、ゆらゆらと揺れている。
よく見ると、その中に白いものが浮いている。
指。腕。顔。
溶けかけた人の顔が、いくつも重なっている。
私は缶を落とした。
中身が地面に広がる。
赤い液体が、アスファルトの隙間に染み込む。
その染みが、ゆっくりと形を変える。
口の形。
笑っている。
自販機から、低い唸り声がする。
ごとん、と内部で何かが落ちる音。
取り出し口が、ひとりでに開いた。
中に、新しい缶が転がっている。
ラベルの赤い丸が、脈打つように明滅している。
「100%」の文字が、にじんでいる。
私は後ずさる。
だが、足が動かない。
アスファルトに、赤い液体が絡みついている。
粘つく。
冷たい。
自販機のスピーカーから、かすれた声が流れる。
『いらっしゃいませ』
抑揚のない機械音声。
だが、その奥に、複数の声が重なっている。
男、女、子ども。
それぞれの声がささやく。
「飲んで」
「冷えてるよ」
「生き返るよ」
私は叫びたいのに、喉が乾いて声が出ない。
取り出し口の缶が、ゆっくりとこちらへ転がり落ちる。
足元で止まる。
缶の表面に、私の顔が映る。
青白い。目の下に濃い隈。生気がない。
ふと、理解する。あの爽快感は、奪われたものの代わりだったのだ。
飲むたびに、何かが削られていく。
体温か、時間か、それとも……
自販機の中の赤い液体が、どくん、と脈打つ。
ガラス越しに、無数の目が開く。
私は最後の力で足を引き抜き、走った。
背後で、がこん、がこん、と缶が落ち続ける音がする。
『いらっしゃいませ』
『いらっしゃいませ』
『いらっしゃいませ』
声が追いかけてくる。
振り返らない。
家に飛び込み、鍵をかける。
荒い息を整えながら、手を見る。
指先が赤い。
血ではない。ジュースだ。
だが、甘い匂いの奥に、はっきりと鉄の匂いがする。
翌日、私はあの道を避けた。
ニュースをつける。
昨夜、川沿いで男性の遺体が発見されたという。
身元は調査中。
画面に映る現場は、あの自販機のすぐそばだった。
カメラが一瞬、自販機を映す。
何事もなかったように光っている。
赤いボタンは、売り切れ表示になっていない。
その晩、私は冷蔵庫を開ける。
中に、見覚えのない缶が一本入っている。
白地に赤い丸。「100%」。
背後で、ぷしゅ、と音がした。
振り向く。誰もいない。
だが、喉が焼けるように渇いている。
赤いジュースは、いつも冷えている。
どこにいても。




