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食卓

 母が作る味噌汁の味が、少しずつ変わってきた。

 最初は気づかなかった。出汁の風味が違うだけだと思っていた。

 けれど、毎日ほんのわずかずつ濃くなっていく塩気に、ある朝、はっきりとした違和感を覚えた。

 舌に残る重さが、昔のそれよりも深い。

「お母さん、味噌変えた?」

「え? そんなことないわよ。いつもと同じ」

 母は笑って答えた。

 その笑顔に、ほんの一瞬、何かが引っかかった。

 口元は笑っているのに、目が遅れているような、不自然なずれ。


 父が亡くなってから三年が経つ。古い木造の家には、母と私の二人だけが暮らしている。

 私は仕事の都合で東京に住んでいたが、母が軽い心臓発作で倒れたのをきっかけに実家へ戻った。

 医師は大事に至らないと言ったが、母はそれ以来、ひどく静かになった。

 田舎の夜は深い。

 虫の声が遠くで重なり、風が障子を揺らす。

 その静けさが昔は好きだった。だが今は、静かすぎる空気が、家の中のわずかな物音を際立たせる。


 夜中、ふと目が覚めると、階下から人の話し声が聞こえることがあった。

 母が電話でもしているのかと思い、そっと階段を下りる。だがリビングは真っ暗で、灯りはついていない。

 それなのに、食卓の上には、湯気の立つ味噌汁が二つ置かれていることがあった。


 最初に見たとき、私は寝ぼけているのだと思った。

 だが二度目、三度目と続くうちに、はっきりと異様さを帯びた。

 椀は向かい合う位置に置かれ、箸もきちんと添えられている。

 まるで誰かがそこに座っていたかのように。


 母に尋ねた。

「夜中に誰か来てるの?」

「誰も来てないわよ。何言ってるの」

「でも味噌汁が二つ……」

「……あなたと私の分でしょ」

 穏やかな声だった。

 ただ、返答までに、ほんのわずかな“間”があった。

 私はその沈黙に、ぞくりとした。


 翌朝、居間の隅に、小さな影が立っているのを見た気がした。

 小学生くらいの男の子。半袖のシャツに短パン姿で、こちらを見上げている。

 瞬きをした瞬間、影は消えた。

 母に話すと、母はゆっくり首を傾げた。

「……見えたの?」

「え?」

「よかった。やっと見えるようになったのね」

 意味が分からなかった。


 その夜、私は眠れなかった。布団の中で耳を澄ます。

 階下から、微かな音がする。

 箸が茶碗に触れる音。汁をすする音。

 母と、もう一人の誰かが、食卓を囲んでいる。そんな気配。


 翌日、台所に立ったとき、食器棚の一角に見覚えのない茶碗があるのに気づいた。

 淡い青色で、縁が少し欠けている。古びているのに、洗ったばかりのように濡れている。

 裏返すと、底に油性ペンで名前が書かれていた。

『しゅん』


 胸が締めつけられた。

 しゅん。

 それは、私が七歳のときに亡くなった弟の名前だった。


 事故だった。川遊びの帰り道、父が目を離した隙に、弟は用水路へ落ちた。助けられなかった。

 あの日以来、家の中から弟の痕跡はほとんど消えた。

 写真も、持ち物も、母は少しずつ片付けた。私も、口に出さなくなった。

 だが、忘れたわけではない。


 夜。味噌汁の匂いがまた漂ってきた。

 私は階段を下りた。台所の灯りが、ぼんやりと漏れている。

 覗くと、母が食卓に向かって座っていた。

 向かいの席は空いている。だが母は、そこに向かって箸を差し出していた。

「ほら、しゅん。あんたの好きなナスのお味噌汁だよ」

 優しい声。慈しむような響き。

 空席に向かって差し出される箸は、確かに何かを追っているように動いていた。


 私は声をかけられなかった。


 翌朝、思い切って言った。

「昨日の夜、弟に話しかけてたよね?」

 母はきょとんとした顔をした。

「弟? 何言ってるの。あなた一人っ子でしょ」

 私は凍りついた。

「しゅんだよ。私の弟」

「……そんな子、いないわ」

 はっきりとした否定だった。


 混乱しながらも、茶碗を持ち上げる。

 底には確かに『しゅん』と書かれている。

 だが母は、それを見ても首を傾げるだけだった。

「みお、それはあなたの字じゃない?」

「え?」

「小さい頃、何でも名前を書いてたでしょう」


 その夜、私は夢を見た。

 古い食卓。四つの椀。父と母と、幼い私と、小さな男の子。

 笑い声。湯気。温かな匂い。

 だが次の瞬間、場面が歪む。

 水音。冷たい流れ。

 そして、ずぶ濡れの弟が、食卓に座っている。

「ねえ、順番だよ」

 その声で、目が覚めた。


 階下から、母の笑い声がする。


 降りていくと、母が食卓に四つ目の茶碗を置いていた。

「それ、お父さんの分?」

 と聞くと、母は首を横に振った。

「違うの。あなたの分」

「私、ここにいるよ」

「ううん」

 母は微笑む。

「あなたはね、もう食べ終わってるの」


 食卓を見る。

 私の席に置かれた味噌汁は、半分減っていた。湯気が立っている。

 けれど、私の手は乾いている。箸も持っていない。


 頭の奥で、何かが軋んだ。

 記憶が、ずれている。

 事故の日。

 川に落ちたのは、本当に弟だったのか。


 押入れを探り、古いアルバムを引き出した。

 写真には、父と母と、幼い私――そして、青い茶碗を持つ男の子。

 だが別の写真では、川辺に立つのは私一人。弟の姿はない。

 ページをめくるたび、人数が変わる。三人になり、四人になり、また三人になる。


 最後のページ。

「四人で食べた最後の日」

 その文字は、母の筆跡だった。


 台所に戻ると、母はいなかった。

 食卓には、二つの味噌汁。

 一つは冷めている。

 もう一つは、温かい。


 私は座り、箸を持った。

 味噌汁を口に含む。

 濃い。

 あの日、川辺で冷えた身体に、母が飲ませてくれた味と同じだ。


 涙がこぼれる。

 茶碗の底を、そっと覗く。


 そこには、こう書かれていた。

『みお』


 思い出した。

 あの日、最初に用水路に落ちたのは、私だった。

 助けようとして、弟が手を伸ばし、代わりに流された。

 母は、私を抱きしめながら、何度も言った。

「順番を間違えた」



 翌朝、近所の人が通報した。

 古い家の台所で、二人の遺体が見つかった。

 母と娘。

 娘は数日前に急性心不全で亡くなっていたが、母はそれを受け入れられず、毎晩食卓を囲んでいたらしい。

 食卓の上には、三つの味噌汁の椀。


 一つは空。

 一つは冷えきっている。

 そしてもう一つからは、まだ、かすかに湯気が立っていたという。

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