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雨音は名前を呼ぶ

 雨は、いつから降っていたのだろう。


 気づいたときにはもう、空は鉛色に塗りつぶされ、細かな水の粒が絶え間なく落ちていた。アスファルトは黒く濡れ、街の輪郭はぼやけ、遠くの景色はすべて溶けていく。


 傘を差していても、意味がないような雨だった。


 しとしと、と言うには重すぎる。ざあざあ、と言うには静かすぎる。中途半端な音が、ずっと耳の奥に張りついている。


 私は駅からの帰り道を、ひとり歩いていた。


 人通りは少ない。こんな雨の日に、わざわざ外を歩く者はいないのだろう。街灯の光が、水の膜を通して滲み、地面に不気味な円を描いている。


 靴の裏が、ぬるりと滑る。


 足元を見下ろすと、水たまりに自分の姿が映っていた。歪んだ輪郭。揺れる顔。そこにいるのが本当に自分なのか、一瞬わからなくなる。


 視線を逸らした。


 嫌な感じがする。


 理由はわからない。ただ、胸の奥に小さな棘のようなものが引っかかっている。


 雨音のせいだろうか。


 耳を澄ます。


 ぽつ、ぽつ、と落ちる水滴の音。屋根を叩く細かな連なり。排水溝に吸い込まれていく濁った流れ。


 それらの中に、何かが混じっている気がした。


 規則的ではない、何か。


 言葉のような。


 私は歩みを止めた。


 周囲を見渡す。誰もいない。車も通らない。音は、ただ雨だけだ。


 だが――。


 もう一度、耳を澄ます。


 聞こえる。


 確かに、聞こえる。


 雨音の隙間に、何かが紛れ込んでいる。


 かすかに。


 しかし確実に。


 ――よんでいる。


 ぞくりと、背筋が震えた。


 気のせいだ。


 そう思おうとした。


 疲れているのだろう。仕事で遅くなり、こんな時間に、こんな雨の中を歩いている。神経が過敏になっているだけだ。


 私は再び歩き出した。


 足を速める。


 帰ればいい。家に着けば、この違和感も消える。


 そう自分に言い聞かせる。


 だが、雨は強くなるばかりだった。


 音が、密度を増していく。


 空気そのものが震えているような、圧迫感。


 そして、その中で――。


「……ねえ」


 はっきりと、聞こえた。


 私は立ち止まった。


 心臓が、どくりと鳴る。


 今のは、確かに声だった。


 人の声。


 振り返る。


 誰もいない。


 道はまっすぐに伸びている。街灯が等間隔に並び、その下に影はない。


 それでも、確かに聞こえた。


「……ねえ」


 今度は、少し近い。


 耳元で囁かれたような感覚。


 息が詰まる。


 逃げなければ。


 そう思うのに、足が動かない。


 雨が、重い。


 体にまとわりつくように、動きを鈍らせる。


 視界が揺れる。


 水滴が目に入り、瞬きをする。その一瞬の暗闇の中で、何かが近づいてくる気配を感じた。


 目を開ける。


 そこには――誰もいない。


 はずだった。


 しかし、水たまりに映る景色が、違っていた。


 自分の足元。


 そこに、もうひとつの影があった。


 私のものではない。


 細く、歪んだ輪郭。


 まるで水の中で溶けかけたような、不安定な形。


 それが、私のすぐ後ろに立っている。


 息が止まる。


 振り返ることができない。


 見てはいけない。


 そう本能が叫んでいる。


 けれど、影は確かにそこにある。


 ゆらり、と揺れる。


 そして――。


 ゆっくりと、顔を上げた。


 水たまりの中のそれが、こちらを見ている。


 顔はない。


 目も、口も、何もない。


 ただ、そこに「見ている」という気配だけがある。


 その瞬間、雨音が変わった。


 ざあざあという連なりが、はっきりとしたリズムを持ち始める。


 言葉になる。


 ――ねえ


 ――ねえ


 ――ねえ


 同じ音が、無数に繰り返される。


 空から降ってくるすべての水滴が、同じ声を持っているかのように。


 耳を塞ぎたくなる。


 だが、できない。


 体が動かない。


 影が、近づく。


 水たまりの中で、その輪郭が私に重なっていく。


 じわりと、侵食するように。


 冷たい。


 足元から、何かが染み込んでくる。


 水ではない。


 もっと粘り気のある、重たい何か。


 それが、靴の中に入り込み、足首を這い、ゆっくりと上へと昇ってくる。


 声が、さらに近づく。


 ――やっと


 聞き取れた瞬間、全身に鳥肌が立った。


 やっと。


 何が?


 誰が?


 理解する前に、影が完全に重なった。


 視界が一瞬、暗くなる。


 そして――。


 私は、思い出した。


 この雨を。


 この音を。


 この道を。


 ずっと昔。


 同じような雨の日に、ここを歩いたことがある。


 そのとき、私は――。


 誰かを、見捨てた。


 振り返らなかった。


 呼ばれていたのに。


 助けを求める声を、聞こえないふりをして、ただ歩き続けた。


 あのときの雨も、こんな音だった。


 同じ声で、同じように。


 ――ねえ


 ――まって


 ――いかないで


 その記憶が、今になって蘇る。


 胸が締め付けられる。


 呼吸が浅くなる。


 影が、私の中に入り込んでくる。


 冷たい感触が、胸の奥にまで届く。


 そして、声が重なった。


 私の声と。


 あのときの声が。


 同じ調子で。


 同じ響きで。


 雨は降り続ける。


 終わりがない。


 空は閉ざされ、どこにも逃げ場はない。


 私はその場に立ち尽くしたまま、動けなくなっていた。


 水たまりには、もう影は映っていない。


 あるのは、ひとつだけ。


 けれどその輪郭は、どこか歪んでいる。


 自分のものなのに、自分ではない。


 そんな違和感。


 やがて、私はゆっくりと歩き出した。


 足取りは重い。


 けれど、止まることはできない。


 どこへ向かうのかもわからないまま、ただ前へ進む。


 雨音が、また変わる。


 今度は、静かだ。


 けれど、その静けさの中に、確かにある。


 もう一つの呼吸。


 もう一つの足音。


 ぴたりと、私に重なるそれ。


 傘の内側に、気配がある。


 すぐ後ろに、何かがいる。


 振り返らなくてもわかる。


 それはもう、外にはいない。


 雨はやまない。


 これからもずっと、降り続けるのだろう。


 私の中で。


 あの声と一緒に。


 名前を呼びながら。


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