代弁者
そのピエロの人形が家に来てから、妹の陽菜は一言も喋らなくなった。
大学生の兄、航平がその異変に気づいたのは、一ヶ月前のことだ。もともとお転婆で、家の中を騒がしく駆け回っていた十歳の少女は、ある日を境に影のように静かになった。
食事中も、風呂上がりも、陽菜はただ虚空を見つめ、口を固く結んでいる。
代わりに喋り始めたのが、彼女が片時も離さず抱いている、あの「ピエロ」だった。
それは、アンティークショップの片隅で陽菜が見つけてきたものだという。
原色の赤と黄色が混ざり合った派手な衣装。顔面は陶器でできており、異様に白い。口元には三日月のような真っ赤な笑みが描かれ、縁取られた黒い瞳は、どこを見ていても視線が合うような不気味な奥行きがあった。
「……陽菜、少しは自分で喋ったらどうだ?」
ある日の夕食時、航平がしびれを切らして声をかけた。
陽菜は答えず、抱えていたピエロをゆっくりと航平の方へ向けた。
すると、ピエロの陶器の口は動かないはずなのに、その腹の底から響くような声が聞こえてきた。
『お兄ちゃん、陽菜は今、喉がとっても痛いの。だから僕が代わりに言っているんだよ。今日のハンバーグ、少し焼きすぎじゃない?』
それは間違いなく陽菜の声だった。
トーンも、イントネーションも、彼女そのもの。だが、その声を発しているのは、感情を張り付かせたピエロの顔なのだ。
「お前……。陽菜、そんな遊びはもうやめろ。気味が悪い」
航平が立ち上がると、ピエロはギギッ、と首を九十度横に曲げた。
『遊びじゃないよ。僕たちは、役割を分担しただけなんだ。ねえ、陽菜?』
陽菜は無表情に、こっくりと頷いた。その瞳からはハイライトが消え、まるでガラス玉を嵌め込んでいるかのように生気がなかった。
夜、航平は隣の陽菜の部屋から漏れ聞こえる音に目を覚ました。
クスクスという高い笑い声と、ゴリッ、ゴリッという、硬いものを削るような不快な音。
航平は意を決して、妹の部屋のドアを僅かに開けた。
月明かりが差し込む部屋の中、ベッドの上に座る陽菜の姿があった。
彼女は暗闇の中で、ピエロを正面に据えて座っている。
よく見ると、陽菜の指先が白く粉を吹いている。彼女は自分の指を、ピエロの陶器の顔に擦り付けていた。いや、違う。ピエロの顔が、陽菜の指の肉を「吸い取って」いるのだ。
擦り合わせるたびに、ピエロの顔には生々しい肌の質感が宿り、逆に陽菜の指は、血の気のない無機質な陶器へと変質していく。
『あはは、お兄ちゃん。見て見て。もうすぐ完成だよ』
ピエロが喋る。その声は、もはや陽菜の声よりも陽菜らしく、瑞々しい響きを持っていた。
『陽菜はね、疲れちゃったんだって。人間でいるのは、嫌なことがたくさんあるから。だから僕が陽菜になって、陽菜が僕になることにしたんだ』
「何を……何を言ってるんだ!」
航平が部屋に飛び込み、陽菜の手からピエロを取り上げようとした。
その瞬間、陽菜が航平の手を掴んだ。
冷たかった。
それは人間の体温ではなく、冬の墓石のような、芯まで冷え切った硬質的な冷たさだった。
掴まれた航平の腕に、ヒビが入るような音がした。見れば、陽菜の腕には関節がなく、まるで人形のような球体関節のラインが浮き上がっている。
「陽菜……逃げろ! その人形に操られてるんだ!」
航平の叫びに、陽菜の「顔」が動いた。
しかし、彼女の唇は固まって動かない。代わりに、首から下の胸元あたりから、ピエロの声が響く。
『お兄ちゃん、遅いよ。もう、中身は入れ替わっちゃった』
陽菜――かつて陽菜だったモノは、ゆっくりとベッドから降りた。
その動きは、糸で吊られたマリオネットのように不自然で、一歩踏み出すたびに床に硬い音が響く。
彼女の顔は、いつの間にか真っ白に塗り潰され、口元には真っ赤な三日月型の笑みが「固定」されていた。
一方、彼女が抱えていたピエロの人形。
その陶器だったはずの顔には、柔らかな皮膚が張り付き、潤んだ瞳が恐怖に震えて航平を見つめていた。
ピエロの姿をした「本物の陽菜」の目から、一筋の涙が溢れ落ちる。
「あ……あ……」
人形の口から漏れるのは、掠れた吐息だけ。声はもう、奪われてしまったのだ。
『さあ、お兄ちゃん。新しい陽菜と遊ぼう?』
白い顔をした「モノ」が、カクカクと首を振って近づいてくる。
その手には、どこから取り出したのか、裁縫用の太い針と黒い糸が握られていた。
『お兄ちゃんも、そんなに苦しそうな顔をしているなら、僕が直してあげる。ずっと笑っていられる顔に、縫い付けてあげるよ』
翌朝。
家の中は、不気味なほど静まり返っていた。
リビングには、楽しげな朝食の準備が整えられている。
そこには、完璧な笑顔を浮かべて甲斐甲斐しく立ち働く陽菜と、その横で、やはり完璧な笑顔で椅子に座る航平の姿があった。
二人の口元には、黒い糸で太く、三日月型の弧が縫い付けられている。
彼らは一言も喋らない。
ただ、テーブルの上に置かれた二体の「人形」だけが、楽しそうに笑い声を上げながら、これからの幸せな生活について語り合っていた。




