猫の隙間
猫という生き物は、液体のようだと形容されることがある。
骨格の構造上、頭さえ通ればどんなに狭い場所でも通り抜けられる。そのしなやかな肢体が、物理的な限界を超えてどこかへ吸い込まれていく様を、慎二はいつも不思議な心地で見つめていた。
飼い猫の「ハク」は、特にその傾向が強かった。
雪のように白い毛並みを持ったその猫は、時折、家具と壁のわずか数センチの隙間に、まるで溶け込むように姿を消す。
異変に気づいたのは、ある蒸し暑い午後のことだった。
ハクが、リビングに置かれた古い飾り棚の裏へ入り込んだ。
棚と壁の間は、せいぜい三センチほどしかない。
いくら猫とはいえ、大人の雄猫が通り抜けるにはあまりに狭すぎるはずだった。
慎二が棚の隙間を覗き込むと、そこには埃にまみれた暗闇があるだけのはずだった。
しかし、彼の目に飛び込んできたのは、予想もしない光景だった。
三センチの隙間の奥に、「奥行き」があったのだ。
そこには、リビングの続きのような、けれど決定的に色彩の欠けた世界が広がっていた。
埃ひとつないフローリングが、どこまでも続く廊下のように奥へと伸びている。
ハクはその廊下の真ん中で立ち止まり、一度だけ慎二を振り返ると、音もなく闇の深淵へと消えていった。
「ハク……?」
慎二は慌てて棚を動かそうとした。
だが、木製の重厚な棚は、床に釘で打ち付けられたかのように一ミリも動かない。
指を隙間に差し込んでみる。そこには確かに冷たい壁の手触りがあるはずなのに、視覚だけは、無限に続く無音の廊下を捉えて離さない。
その日から、慎二の日常には「隙間」が溢れ出した。
冷蔵庫の裏、クローゼットの扉の数ミリの重なり、畳み損ねた毛布のひだ。
家中のあらゆる「隙間」が、本来そこにあるはずのない風景を覗かせるようになった。
あるときは、青白く光る水面のような床。
あるときは、重力に逆らって天井から吊り下げられた、見覚えのない無数の窓。
慎二は、それらの隙間から目を逸らすことができなくなった。
覗き込むたびに、現実の音が遠のいていく。テレビの音も、窓の外を通る車の走行音も、まるで厚い水層を通しているかのように、低く、濁った響きへと変わっていく。
代わりに、隙間の奥からは「クル、クル」という、ハクの喉を鳴らす音が、全方位から聞こえてくるようになった。
一週間が過ぎた頃、慎二の体にも変化が訪れた。
関節という関節が、異常なほど柔らかくなったのだ。指を曲げれば、そのまま手の甲に触れるまで反り返る。肩の関節を外すように動かせば、自分の胸板を紙のように折り畳めるような感覚があった。
「僕は、どこへ行こうとしているんだ……」
鏡を見た慎二は、悲鳴を上げそうになった。
自分の輪郭が、ぼやけている。
輪郭線が震え、周囲の空気に溶け出そうとしている。まるで彼自身が、この現実というキャンバスから剥がれ落ちようとしているかのように。
その夜、慎二は寝室のクローゼットの影に、ハクが座っているのを見つけた。
ハクは、以前よりもずっと透き通って見えた。月光を透かす氷の彫刻のように、その美しい白い毛並みの向こう側が、かすかに透けている。
ハクが鳴いた。声ではない。それは、慎二の意識の「隙間」に直接滑り込んでくる振動だった。
『こっちだよ』
ハクが、クローゼットと壁の間の、指一本分もない隙間にスッと入り込んだ。
慎二は導かれるように、その隙間に顔を近づけた。
そこには、現実の寝室を鏡に映したような、けれど家具がひとつもない、真っ白な部屋があった。
そこには、過去にこの家で飼われていたのか、あるいは迷い込んだのか、無数の猫たちが静かに座っていた。
猫たちの瞳は一様に黄金色で、一斉に慎二を見つめている。
慎二の手が、自然と隙間に吸い込まれた。
骨が軋む音はしなかった。ただ、厚紙を折るような軽い感触と共に、彼の手首、腕、そして肩が、数ミリの隙間の中へと「平面的に」滑り込んでいく。
痛みはない。むしろ、これまで彼を縛り付けていた「肉体の重み」から解放されるような、甘美な脱力感があった。
慎二の体は、波紋を描くように隙間の中へと消えていった。
最後に残った視界の中で、現実の寝室の灯りが、遠い星のように小さく、暗くなっていく。
彼が完全に「隙間」を通り抜けた瞬間、パタン、と、この世の音がすべて途絶えた。
そこは、永遠の静寂に満ちた、猫たちの回廊だった。
慎二は自分の体を見下ろした。
そこには、しなやかな白い四肢があった。
彼は猫になったわけではない。
彼は「慎二」という形を保ったまま、けれど二度と現実の立体構造には戻れない、薄く、透明な存在へと変質してしまったのだ。
ふと、頭上で大きな音が響いた。
ガタガタ、と、何かが動く音。
新しい住人がやってきたのだ。
慎二は、かつての自分の部屋を、壁の「隙間」の内側から見つめた。
新しい住人が、掃除機をかけている。
慎二は必死に声を上げようとしたが、口から漏れるのは、空気が漏れるような小さな吐息だけだった。
住人が、ふと慎二のいる隙間に目を向けた。
「あら、こんなところに埃がたまってる」
住人が差し込んだブラシが、慎二の顔を冷たく撫でていく。
慎二は、ただ黄金色の瞳を見開き、住人の「すぐ隣」に存在し続けながら、永遠に触れ合えない孤独の中に沈んでいった。
ハクが、慎二の肩に鼻を押し当て、満足げに喉を鳴らした。
その音だけが、隙間の世界の住人となった彼にとっての、唯一の現実だった。




